第二十三話「削られた創設者と洗濯かご」
トライ先生の授業は、二週間で定着した。
パティの持続時間は四十分で安定し、椅子の移動距離は逓減し、俺の仕事は「蜂蜜の匙加減」だけになった。
怪奇現象は、もはや運用フェーズである。
開発は終わった。あとは保守だ。保守こそ、社会人の本領である。
そして今週から、新科目が始まった。
「本日から、歴史を学びましょう」
朝の教室。トライ先生が、分厚い教本を開いた。
窓際のクッションの上で、俺はいつもの定位置に入った。毛づくろいの体勢である。舐めるふりをすれば、耳はどこへでも向く。
「歴史、というのは」
「むかしのはなし」
「……そうですね。むかしの話です」
トライ先生は、苦笑しないで頷いた。プロは、生徒の定義の浅さを嗤わない。そこから始めるのだ。
「パトリシア様。一つ、質問です」
「なあに」
「わたくしたちの国の名前を、ご存じですか」
「しってる! ……えっと」
パティは、得意げに胸を張った。
「あるらかんずおーこく」
「少し違ってませんか」
「ある……あら? あるか……らんず、おーこく」
「…………正解です」
トライ先生は、二秒の沈黙の末、正解にした。事実、正しい。過程が、だいぶ危うかったが、正しい。
この先生、採点が甘いのではなく、採点の設計がうまい。六歳児に「合っているが怪しい正解」を出させて、そこから「なぜ怪しかったか」を教える手筋だ。二十年物の手つきである。
「そう、アルカランズ王国ですね」
(……なるほど。教科担当というより、翻訳担当の人だな。子供の言葉を、学問の言葉に、壊さずに訳す人だ)
前世の会社にも、こういう人は一人だけいた。部署が違ったので、直接の絡みはなかったが、新人のだめな企画書を、却下せずに直して通してくれた、人事部のベテランだ。
ああいう人が辞めると、組織は一気に硬くなる。
「では、今日はその『むかしの話』の、いちばん最初から」
トライ先生が、教本の最初の頁を開いた。
『アルカランズ王国史 序 建国』
転生特典の翻訳のおかげで、この世界の文字は俺の目に日本語として映る。読めること自体はありがたい。
俺は舐めるふりをしながら、頁を目で追った。
――アルカランズ王国は、今から五百年前に建国された。
初代国王は、アルカス・ホル・リトラリバー。
かつてこの地に割拠した豪族たちを纏め上げ、大陸の盟主の座を射止めた男である。
以来、五百年。三十二代。王家の血は一度も絶えていない。
「すごーい。ぜんぜん絶えてないんだね」
「ええ。実に堅牢な血統です」
「パティのうちは?」
「フィロパトール家は、建国とほぼ同時に、公爵に列せられました」
「ほえー。なんで?」
「初代国王に、弟がおられたからです」
トライ先生は、頁をめくった。
「名を、フィオメル・セト・フィロパトール。公爵家の祖にあたるお方です」
その名を聞いて、パティは「ふうん」とだけ言った。
子供にとって、先祖の話は遠い国の昔話と同じである。
だが、俺は、頁の記述を食い入るように見ていた。
……いや。
食い入るように見て、気づいたのだ。
(……あれ?)
教本の記述をもう一度辿る。
初代国王、アルカス・ホル・リトラリバー。その名は、教本の至るところに出てくる。戦功。演説。戴冠の日の、着ていた衣装の色まで。
一方、その弟。
『王弟フィオメル、建国に大功あり。王の命により、フィロパトールの姓を賜り、公爵に列す』
――以上。
(……以上?)
続く頁を、めくる。めくる。めくる。
ないのだ。
五百年の王国史の中で、この国の「もう一人の創設者」の記述が、ほぼ存在しない。
何をした人物か。どこに住み、何を治め、いつ死んだか。墓はどこか。逸話はないのか。
建国に「大功あり」とされた男の、功の内容が、一行も書かれていない。
姓は、フィロパトール。この家の、そのものだ。
だが、名乗りの構造が違う。アルカス・ホル・リトラリバー。フィオメル・セト・フィロパトール。
(……ホル、と、セト)
ミドルネーム。この世界の貴族の名の、真ん中に挟まるあれは、神の加護を示す聖名だと、どこかで聞いた。由来は、属性だとか。
つまり、初代国王は「ホル」。弟は「セト」。
……何の属性かは、教本に書かれていない。
「せんせ」
パティが、手を挙げた。
「それ、テストに出るの?」
「出ます」
「ふーんだ」
出るらしい。よし。では、この項目は、俺の帳面に記録しておこう。
項目名:『削られた創設者』。
内容:建国に大功あり。記述なし。
所感:変である。五百年も歴史があって、始まりの男の記録が薄い国は、薄いのではない。削られているのだ。 何かが、意図を持って、削られている。
(……フム)
体の奥の塊が、ほんの少し疼いた。 なんだ。お前も、気になるのか。あの名前を。
……まあ、いい。今は、歴史の時間だ。続きを、聞こう。
「では次に、現在のわが国の、お立場を」
トライ先生は、大きな地図を広げた。
黒板代わりの板に、羊皮紙の大陸図。海を挟んだ大陸は発見されていないので、これが「世界のすべて」ということになっている。
俺は、初めて見る本格的な地図に、目を細めた。
「まず、ここ。わが国、アルカランズ王国」
中央やや南。緑の豊かな国。見た目は綺麗だ。
「北に、バルデアラン帝国。軍事の国。……大変な強国です」
「つおいの?」
「大変、強いです。……ですが、心配はいりません。我が国と帝国の間には、五十年の不可侵条約が結ばれております」
(……ほう、条約。期限は)
「あと、十年ほどで期間が切れます」
(切れるのかよ)
猫の喉が、ほんの少し鳴った。不機嫌な鳴り方だ。
五十年というのは、人間の一生より少し短い。つまりこの国の大人たちのほとんどは、「帝国と戦争しない人生」しか知らない。平和ボケとは言わない。
平和は良いものだ。だが――条約とは、破られるためにある紙だ。前世の俺の会社でも、納期という名の条約は、毎週のように破られていた。
「北西に、フォンチューナ共和国。商業の国。大陸の品物は、たいてい、ここを通ります」
「おかねもち?」
「大変なお金持ちです。わが国の街に並ぶ品の、多くも共和国経由です」
(……流通を握られている、と)
地図を見る。王国の物資の動脈が、全部、共和国の掌の上を通っている構造だ。
軍事は帝国、経済は共和国。そしてこの王国は、緑の豊かな、のんきな真ん中。
(……この国、外堀を全部、他人に掘らせてないか)
「東に、プリメイラ聖王国。プリモ教の総本山です」
その名が出た瞬間、教室の空気が、ほんの少し変わった。
トライ先生の声の、トーンが、半音だけ下がった。教師の声音で言っているつもりでも、誰かの気配を気にする声になっていた。
「パトリシア様は、イニシエーションでお世話になりましたね」
「うん。おじいさん、やさしかった」
「……ええ。エルネスト司祭は、良いお方です。……ですが」
トライ先生は、一瞬だけ、言葉を選んだ。
「……プリモ教の教えには、光は善、闇は影、という考え方が、あります」
「……やみ」
「ええ」
パティは、少しだけ俯いた。
あの日の神殿の空気は、この子の中にも残っている。帳面に書かれた一文字は、消えていない。
「……でもね」
だが、パティは顔を上げた。
「テトがね、こうしてくれるの」
俺の目を、ゆっくりと、まねて細める。猫のスローブリンクの、不格好な人間版だ。
目を閉じるのが遅すぎて、ただの変な顔になっている。だが、これはあの日、神殿で俺がやったやつだ。
「これされるとね、どうでもよくなるの。……よくない?」
トライ先生は、少し目を見開いて、それから、静かに笑った。
「……ええ。どうでもよくなりますね。少し」
「でしょ」
(……翻訳としては、乱暴だが、芯は合っている)
闇とは、悪いものかどうか。
その問いは、この子の中で、まだ生きている。誰かの答えで潰されないまま、生きている。
それでいい。答えは、急がなくていい。俺が探している。
お前は今、変な顔を練習していればいい。
授業の終わり際、廊下ですれ違った。……洗濯かごを抱えた、侍女と。
――ベルタ。
降格して、ひと月。
侍女頭の時代のように、背筋を張って歩いてはいなかった。だが、俯いてもいなかった。
顎は引き、目は前を向き、洗濯かごの持ち方は、相変わらず几帳面だった。底の重いものを下に、皺になるものを上に。仕事の手つきは、落ちていない。
「…………」
こちらを、見た。
パティを、見た。
そして――何も言わずに、頭を下げた。
「……おはよう、ベルタ」
パティが言った。
ベルタは、答えなかった。
ただ、もう一度だけ頭を下げ、そのまま通り過ぎた。
(…………)
振り返らなかった、ことに、俺は少しだけ、眉を寄せた。
以前のあの女なら、振り返った。何か一言、添えた。
「お髪が乱れて」
「お姿が」
そんな小さな針を、必ず一本、添えてきた。
今日は、それがない。
止まったのか。――それとも、ため込んでいるのか。
(……グリッグ。あの女の帳面の動き、変化があったら、すぐ報告を)
心の中で、そう発信しておいた。
今夜あたり、返事が来るだろう。
帳面は取り上げられた。だが、人間の頭の中にある帳面まで取り上げられたわけではない。
(……終わった顔じゃないな)
ベルタの背中を見ながら、俺は思った。
あれは、終わった人間の歩き方ではない。何かを考えている人間の歩き方だ。
まるで――
次の頁を、めくろうとしている人間の。
――その夜、西棟の塔。
『テト観察日誌』
“本日、歴史の授業。僕は廊下で聞いていた。……聞いていたのではない。通りかかった。四回目の通過だ。
その時のテトを見た。
あの猫は、地図が広げられた時、毛づくろいをやめていた。……全部、見ていた。帝国の国境も、共和国の街道も、聖王国の位置も。
猫が、地政学を眺めるな。
そして、帰りの廊下で、ベルタ氏とすれ違った。 あの人、あんなに静かだったか。……静かすぎて、逆に、気になった。
……テトも、気にしていた。あの猫の尾が、すれ違った瞬間、半拍だけ止まった。
……気のせいか?
だが、この家で『静か』は、良い兆候ではない。僕はそれを、黒猫が来る前の十年間で、よく知っている”




