第二十二話「羽ペンと蜂蜜」
新しい家庭教師が、フィロパトール公爵家にやってきた。
トライ・トッテンマイヤー。
四十代前半くらいだろうか。
女性の年齢というものは、猫にはよく分からない。
前世の俺にも分からなかった。特に関西のおばちゃんの「なんぼに見える?」は、質問に見せかけた試験問題である。
正解すれば飴ちゃんがもらえる。
間違えれば、肩を叩かれる。
――いや、今はどうでもいい。
彼女の物腰は柔らかいが、背筋は槍のように真っ直ぐな女性だった。
経歴は申し分ない。というより、申し分がありすぎる。
アウグストを教え、ユリウスも教えた人物だ。
前者は優等生。
後者は途中で塔に籠もった。
つまりこの女は、従順な生徒と、逃亡する生徒の、両方と戦った実戦経験者だ。
対して、我がパトリシア様の戦歴はというと。
家庭教師、一名、戦闘不能。
(……戦績、一勝零敗か。今回はリーグ戦の格上相手だな)
これは面白い。いや、面白がっている場合ではない。
パティには教育が必要なのだ。俺の昼寝を邪魔しない程度に。
初回の授業は、東棟の教室で行われた。
俺は窓際のクッションに座り、昼寝の体勢に入った。体勢だけだ。耳は、もちろん起動している。
「では、パトリシア様。本日はまず、文字の復習から」
「……うん」
開始、三分。
「パトリシア様? ペンを持ってください」
「手がつかれた」
開始、七分。
「あの、まだ一文字も」
「ネコチャンがさみしそう」
振り返って、こちらを見た。
(寝ている猫を言い訳に使うな)
目を閉じる。俺は今、完璧に寝ている。
何も知らない。何も考えていない。ただの日向ぼっこ中の猫である。
開始、十分。
パティは、席を立った。
いつもの時間だった。この令嬢の授業持続時間は、十分で切り上げられる。身体に刻まれた定時だ。
「あ、パトリシア様」
「お手洗い!」
嘘だ。逃げる気満々である。
(……よし。では、始めるか)
俺は、目を閉じたまま、体の奥の塊を、ほんの少しだけ緩めた。
見えない手が、するすると伸びる。まず、椅子。
パティの座るべき椅子を、音もなく、ずずっと、部屋の中央へ運ぶ。
――きし、きし、きし。
「…………え?」
扉へ向かっていたパティが、振り返った。
椅子が、机の前から、教室の中央まで移動している。
椅子が、ない。 机の前にあるべき椅子が、部屋のど真ん中に、ぽつんと、座っている。
「……せんせ」
「はい?」
「イス、動いた」
「…………」
トライ先生は、椅子を見た。次にパティを見た。そして、俺を見る。
俺は寝ている。完璧に寝ている。
「……気のせい、ではございませんね」
「うん」
「そうですか」
トライ先生は、深く息を吸った。
そして言った。
「では、パトリシア様。お座りください」
「……え?」
「椅子が動いた理由は、後で考えましょう」
「あとで?」
「今は授業です」
(……ほう)
パティは仕方なく椅子に座った。
すると――
ぱたん。
机の上の教科書が、ひとりでに開いた。今日の課題の頁で、ぴたりと止まる。
「…………」
「…………」
トライ先生は、教科書を見た。そして、ゆっくりと俺を見る。
俺は寝ている。猫である。何も知らない。
「……続けましょう」
教師の顔に戻った。
翌日。
パティは、また十分で立ち上がった。
「お手洗い!」
今度は、昨日より堂々としている。
俺は目を開けた。
そして、ほんの少しだけ魔力を動かす。
――きし。
椅子が、数センチだけ動いた。
「…………」
パティが止まる。
昨日のように逃げようとはしない。
椅子を見る。
俺を見る。
もう一度、椅子を見る。
そして――
「……わかった」
小さく呟いて、座った。
ぱたん。
教科書が開く。
パティは、恐る恐る羽ペンを持った。
一文字。
何も起きない。
もう一文字。
何も起きない。
三文字。
何も起きない。
(……そう。それでいい)
俺は目を細めた。
恐怖で座らせ続けるつもりはない。
座れば何も起きない。
まずは、それを覚えればいい。
十五分。
二十分。
三十分。
パティは、座っていた。
トライ先生も、余計なことは言わなかった。
ただ、淡々と授業を続けた。
「本日は、よく頑張りましたね」
「……うん」
授業が終わる。
パティが立ち上がった。
――何も起きない。
扉へ向かう。
――何も起きない。
廊下へ出る直前、パティが振り返った。
「……もう、おこらない?」
俺は、尻尾を一度だけ動かした。
答えは、もちろん届かない。
だが。
パティは、少しだけ安心した顔で、走っていった。
この「怪奇現象」は、一週間のうちに、洗練されていった。
法則の整備である。
法則その一。
サボろうとすると、椅子が動く。
法則その二。
机に向かうと、何も起きない。
法則その三。
頑張った日は、おやつの蜂蜜が、ほんの少しだけ多い。
この三つ目が、ポイントだった。
怪奇現象だけでは、子供は育たない。
怖がらせるだけでは、いつか慣れる。
テストの点数が良かった日、パティのミルク粥に、ほんの少しだけ蜂蜜が増えている。
本人は「きょうの、おいしい」と気づく程度の増量。絶妙な増量である。
空間収納から蜂蜜を継ぎ足す技術は、なかなかの精密作業だった。匙加減とは、まさにこのことだ。
(……前世の俺の上司にも、これくらいの匙加減が欲しかった。あの人の褒賞は、全部、無糖だった)
そして、一週間後。
パティの口から、あの言葉が出た。
「パティ、知ってる」
夕食の席。家族全員の前で、六歳児は神妙な顔で言った。
「……なにをだ」
ロムルスが訊いた。
「パティのお部屋、なにかいる」
フォークが、数本、止まった。
「勉強しないと、おこる。勉強すると、おとなしい。……それでね、それでね、がんばると、おやつがおいしくなるの」
「…………」
家族全員が、それぞれ違う顔をしていた。
ロムルスは「ふむ」と言った。
深い方の「ふむ」だった。つまり、考え込んでいる。
娘の部屋に何かがいる、という事態に、当主は真剣に思案している。
「……魔力を持つ何かが、住み着いている可能性は?」
間違ってはいないが、そこは真面目に考えるな。
アウグストは無言で立ち上がった。
「部屋を確認してくる」
(行くのかよ)
三十分後、戻ってきた。
「……何もいなかった」
当然である。
だが、あの男なら、しばらくはパティの部屋周辺を警戒するだろう。
そしてユリウスは――
「…………ふっ」
肩を震わせていた。
(……お前、知ってるな)
「ユリにーに、なんで笑ってるの?」
「いや。……何でもない」
「ほんと?」
「本当に」
目が泳いでいる。絶対に知っている。
(……まあ、いい)
今のところ、黙っていてくれるなら問題ない。
ただし、後で何か要求されたら困る。
特に、「テトの魔法を再現したい」などと言われたら、全力で逃げる。
数日後。
応接間では、月例の教育報告が行われていた。
アウレリア、セバス、そしてトライ先生。俺は定位置、テーブルの下にいる。
「それで、トライ先生。本当に、お変わりありませんか」
「はい」
トライ先生は、きっぱりと答えた。
「パトリシア様のご成長ぶりは、驚異的でございます。授業の持続時間は十分から四十分へ。文字の綴りの正確さ、読書の速度、どれを取っても、先月までのお方とは別人のようです」
「……そう。何か、きっかけが?」
「ございます」
トライ先生は、少しだけ間を置いた。
「教室に、おられるようです」
「教室に?」
「はい」
トライ先生は、真面目な顔で続けた。
「パトリシア様を、見守っておられる、何かが」
「…………」
「私は、最初は錯覚かと思いました」
トライ先生は淡々と語る。
「ですが、椅子が動きました。教科書も勝手に開きました。羽ペンが浮いたこともございます」
セバスの眉が、ほんの少し動いた。
「そして、不思議なことに」
トライ先生は微笑んだ。
「パトリシア様は、それが怖いのではなく――期待するようになりました」
「期待?」
「はい。今日は頑張った。だから、何も起きない。……そのことを確認するために、机へ向かうのです」
アウレリアは、黙っていた。
やがて、ほんの少しだけ笑った。
「……なるほど」
「申し訳ありません。教師として、説明しにくい話ではありますが」
「いいえ」
アウレリアは首を横に振った。
「成績が上がっているのであれば、私は、その『何か』に感謝しなければなりませんね」
(……この家の人間は、たまに、とんでもなく懐が深い判断をする)
その夜、パティの部屋。
「ねえ、テト」
布団の中で、パティが言った。
「にゃ」
「パティのお部屋のね、かみさま」
神、と来た。格が上がった。ポルターガイストから神への昇格である。人事考課のスピードが、うちの会社より速い。
「かみさま、たぶん、仕事に、うるさい人なの」
「にゃあ」
(お前の保護者だよ。残業はさせないが、定時の勤務はきっちり取る主義のな)
「でもね」
パティは、俺の頭を撫でながら、小さく言った。
「おやつ、ふやしてくれるから。……すき」
「…………にゃ」
(……よし。懐柔は成功だ)
怪奇現象と飴の二正面作戦。
前世で編み出した社畜の処世術が、まさか教育工学として開花するとは。
パティの寝息が、静かに始まった。 俺は枕元で、明日の課題を考えた。歴史の授業が始まる。あれは暗記科目だ。暗記には、反復が要る。反復には――少しばかりの、演出が要る。
(……さて。明日の羽ペンは、何センチ浮かせるか)
夜の屋敷に、猫のあくびが一つ、響いた。
――その夜、西棟の塔。
『テト観察日誌』
“東棟の教室で、ポルターガイストが発生しているという噂を聞いた。椅子が動く。羽ペンが浮く。教科書が勝手に開く。
……ふざけるな。
ふざけるなと言いたいのだが、よく考えてほしい。この屋敷で、物を浮かせられる存在が、何者か。僕は知っている。僕だけが、知っている。
あいつだ。テトだ。あの猫が、妹の部屋に、勝手に見張りを立てたのだ。
問題は、その効果だ。
パティの成績が、上がっている。信じられないくらい、上がっている。僕が五年かけてもダメだったあの妹が、四十分も机に座っている。原因は、怪奇現象への恐怖と、蜂蜜だという。
……研究対象が、僕の妹を、教育している。
主客が、逆ではないか。観察者が、被観察者に、家の運営を手伝われているのではないか。
……腹が立つ。悔しい。
だが、もっと悔しいことに、僕は今日、あの部屋の前を三回通り過ぎた。
何か見られるかと思って。
何も、見られなかった。見られなかったのが、悔しい。
追記:明日は、四回、通り過ぎる”




