第十六話「属性なんてなかった」
検証は、知識から始まる。
知識は、本から始まる。
というわけで俺は、申し訳なかったが、ルルへの歌指導――ちびっこい小学女児が主人公のアニソンを歌って見せただけだが――を早々に切り上げ、深夜の屋敷を歩いていた。
目的地は、書庫だ。
『猫さん、書庫ならこっち。三つ目の棚の裏に隙間があるよ』
案内人はグリッグだ。今日のグリッグは、やけに毛並みがいい。小綺麗になったせいで、暗がりでも見つけやすい。加護とは便利なものだ。
『で、後ろの八匹はなんだ』
グリッグの後ろには、ネズミが八匹、一列になってついてきていた。全員、目をきらきらさせている。
『ウチの若いのだよ。「猫さんの仕事を見学したい」ってうるさくてな』
『見学? 書庫への潜入を?』
『教育、教育』
(……よく分からんが、まあいい)
若いネズミたちは、しきりにこちらを窺っていた。好奇の目だ。年長者の仕事を見たがるのは、どの世界の若者も同じらしい。
『自己紹介しろ。猫さんだぞ』
グリッグが言うと、八匹が我先にと前に出た。
『ゼリーです!』
『オレもゼリー!』
『え、お前もゼリーなの? オレ、ゼリー』
(……は?)
『ちょっと待て。三人いるぞ、ゼリー』
『いるよ』
グリッグは平然と言った。
『かっこいい名前は、かぶる。“グリッグ”だけは世襲で唯一無二だがな』
『ニッキーです』
『オレはピチュ』
『オレもピチュ。昨日まではハムだった』
『気分で変えるの?』
『変えるよ。昨日の気分、もう古いし』
(…………)
名簿が、作れない。
名簿が作れないということは、管理ができないということだ。だが、どうやらネズミ社会では、名前は識別のためのものではなく、ファッションらしい。かっこいいから名乗る。飽きたら変える。かぶっても気にしない。
混乱するのは、こちらの感覚だということだけは、分かった。
(……個体識別は、匂いでやるか。匂いは変えられないだろう)
『なあ猫さん』
と、ゼリー――たぶん最初のゼリー――が言った。
『オレたちの名前、覚えてくれる?』
『覚えない。だが、お前たちの仕事は覚える』
『おー! なんか、かっこいい!』
八匹が、ざわめいた。
何がかっこいいのか分からないが、若者の心は掴んだらしい。よし。
書庫は、いい場所だった。
埃の匂い。紙の匂い。窓から差し込む月光。
高い棚が壁面を埋め尽くし、その合間に、梯子がかかっている。
(……どうやって本を読むか、が問題だ)
猫にページはめくれない。めくろうとすれば爪が立つ。
だが、俺には、あれがある。
体の奥の、温かい塊。
いつもは握り潰すように押さえ込んでいる、あれを――今回は、ほんの少しだけ、緩めてみる。
緩める、と、何かが伝わった。
尾の先から、空気へ。見えない何かが、空気に滲み出して、伸びていく感覚。指でも腕でもない、しかし確かに「触れる」もの。
(……触手、みたいなもんか)
その「見えない手」で、そっと、棚の本の背表紙に触れた。
触れる。引っ張る。――本が、するりと抜け出た。
『うわ』
八匹が、一斉に仰いだ。
『本が、浮いた……』
『猫さん、やっぱりなんかすげーもん持ってる……』
『黙ってろ。集中が乱れる』
本を、床に下ろす。表紙を開く。
見えない手で、ページを、一枚ずつ。
(よし。いける)
タイトルは『魔術概論 第一巻』。学院の予科で使われる標準的な教科書らしい。タチがいい。基礎から書いてある。
俺は、月光の下で、読み始めた。
――魔術とは、神より賜りし六つの属性の運用である。
火、水、風、土、光、闇。
各人は生まれながらに属性を持ち、自らの属性の魔術のみを修めることができる。
ただし、相反する属性は一人の内に両立しない。火を持つ者は水を覚えられず、風を持つ者は土を、光を持つ者は闇を、覚えられない。
故に、一人が使い得る属性は、最高で三つ。
多くの者は一属性に留まり、二属性を操る者は天才と呼ばれる。
(……ふむ)
読み進める。
――属性は、イニシエーションにおいて、水晶の発色により神より示される。
この発色は絶対であり、覆ることはない。
属性に抗おうとすることは、神への冒涜である。
(絶対、ね)
研究者は、「絶対」という言葉を聞くと、眉を寄せる習性がある。
本当に絶対なものは、世の中にあまりない。「絶対」と書いてあるものの大半は、「これまで覆らなかった」の言い換えだ。
そして、この本には、不思議な記述がなかった。
――「なぜ、相反する属性は両立しないのか」という、理由の記述が。
書いてあるのは「両立しない」という事実だけだ。「なぜ」がない。仕組みがない。理屈がない。
本というのは、分かっていることは詳しく書くものだ。書いてないということは――書ける人間が、いなかったということだ。
(……誰も、理由を知らない。知らないまま、「絶対」と呼んでいる)
体の奥の塊が、また疼いた。
俺は本を閉じて、考えた。
仮説を立てよう。
もし、属性というものが、本当は存在しないとしたら。
あるのは魔力だけで、「火」「水」という区別は、発現した結果に後から貼ったラベルにすぎないとしたら。
その世界では、相反する属性が両立しない理由は、最初から存在しない。
両立しないのではなく、両立しないと思い込んでいるから、できない。思い込みが、壁になる。
イメージの壁だ。
(……仮説としては、悪くない。問題は検証だ)
検証方法は、一つしかない。
俺が、実際に、やってみることだ。
場所を移す。書庫は燃える。ここでは試せない。
深夜の庭。大樹から離れた、噴水の近く。
消火用の水が近くにあるのは、研究者としての最低限の安全配慮である。ネズミ八匹は、遠巻きに見学の列を作った。
『猫さん、何やるの?』
『実験だ』
『実験って何?』
『……失敗してもいいから、やってみることだ』
『なるほど!』
(分かってるのか?)
俺は、地面に座り、目を閉じた。
まず、イメージ。
魔力というものが、属性以前の、ただの力だとする。その力に、形を与えるのは、イメージだとしたら。
(火)
思い浮かべるのは、前世の記憶だ。
実験室のバーナー。青い炎。ガスの匂い。炎の揺らぎ。熱。
――ぽっ。
目の前の空気が、爆ぜた。
小さな、本当に小さな火の玉が、空中に灯った。
『ぎゃあああああああ』
ネズミが八匹、一斉にひっくり返った。後ろの三匹は茂みに逃げ込んだ。ゼリーだけが――たぶんゼリーだ――転げながらも見ていた。
『ひ、火ィ!?』
(よし。次)
火を消す。
消し方は、イメージを手放すだけだ。簡単だった。
次。
(水)
イメージは、水道。ひねった蛇口。流れ出す水。
――ぴゅ。
火の玉がいた場所に、今度は、小さな水の玉が現れた。ぷるぷると揺れている。
(……出た)
火と水。
教科書では、相反する属性。
それが今、同じ場所に存在している。
俺は、しばらく水の玉を見つめた。
(……これは)
少なくとも、俺には属性による制限がない。
だが、これだけでは「属性が存在しない」とまでは言えない。
俺が神獣だから、という可能性が残っている。
(なら、もっと試す)
風。
――小さな旋風。落ち葉が舞った。
土。
――地面がぼこりと盛り上がった。ネズミが転んだ。
光。
――掌に灯りが灯った。……掌? 肉球に、だ。
闇。
――周囲の影が、一瞬だけ、濃くなった。
全部、出る。
六つ、全部、出る。
(……なるほど)
胸の奥が、熱くなる。
俺は、今まで「属性」というものを前提に考えていた。
火を使える。
水を使える。
だから俺は、火と水の属性を持っている。
だが。逆なのかもしれない。
魔力が先にあって、そこにイメージで形を与えている。
火も、水も、風も、土も、光も、闇も。
それらは属性ではなく、魔力の「結果」なのではないか。
(……これは、もっと調べる必要がある)
興奮で、毛が逆立った。
社畜生活八年間、試験毛を洗い続けた俺にとって、仮説が実験によって一つずつ削られ、形を変えていく瞬間はたまらなく面白い。
これだ。これが研究だ。
(もっとだ。もっと試す)
もし、俺の考えが正しければ、パティも闇属性しか使えないと決まっちゃわけではない。
それも含め、伝えなきゃいけない。だが、伝えられない。
俺は猫だ。しゃべれない。文字も書けない。
(…………どうする)
そうか。これが、これからの俺の課題か。
――渡し方は考えよう。猫なりの渡し方を。
と。
『猫さん! 猫さん、後ろ!』
ゼリーの叫びに、振り返った。
――燃えていた。
土を盛り上げた拍子に、盛り土が庭石に当たって火花が散ったのか、それとも光の灯りを強くしすぎたのか。原因は分からないが、とにかく、近くの植木が、燃えていた。小さく。だが、確実に。
(あっ)
『水! 水出してよ、さっきの!』
(そ、そうだ。水)
慌てて、水をイメージした。
焦っていた。焦ると、イメージが大きくなる。
――どばあ。
植木の火は消えた。
代わりに、植木は水浸しになり、盛り上がった土が泥と化し、泥が流れて、植木の根元がえぐれた。植木は、ゆっくりと、傾いだ。
『…………』
『…………』
『…………』
『…………』
『…………』
『…………』
『…………』
『…………』
ネズミ八匹が、俺を見た。
俺は、植木を見た。
(……すまん)
『猫さん』
グリッグが、呆れた声で言った。
『オレたちの巣、あの植木の根っこにあるんだけど』
『…………すまん』
『「すまん」じゃねえよ! 補修! 補修してよ!』
(……やる。今やる。土をイメージして……)
その夜、俺は明け方まで、植木の復旧作業をした。
見えない手で土を運び、根元を固め、傾ぎを直した。
最後の仕上げに、水を、今度は霧状に、そっと撒いた。
傾いだ植木は、何とか、立ち直った。
明日の朝、庭師が見て「……ん?」と首を傾げる程度には、綺麗に戻ったはずだ。
『猫さん』
と、グリッグが言った。作業を手伝ってくれた、八匹と一緒に。
『ん?』
『あんた、すげえよ。六つ、全部、出したじゃねえか。……オレ、獣の言い伝えで聞いたことあるぜ。そういうの』
『……知ってるのか』
『全部できる獣を見たら、その獣の前では「常識」を信じるな、って』
『…………』
『……意味は知らん』
(……なんだ、それ)
だが、妙に引っかかった。
俺は夜明け前の庭を見回した。
俺が知っていること。この世界が「常識」と呼んでいること。その二つは、もしかすると、同じものではないのかもしれない。
『猫さん』
『ん?』
『その力、知られたら面倒なことになると思う』
『……分かってる』
それは本当に分かっている。
六属性を使える猫――神獣。
属性の常識を外れる存在。
そんなものが知られれば、俺も、パティも、平穏な生活から遠ざかる。
だから、このことはまだ誰にも知られない方がいい。
少なくとも、今は。
(……でも、一つだけ)
俺は、夜明け前の空を見上げた。
(パティ)
お前の「闇」が、本当に闇だけなのか。俺には、まだ分からない。
だが。
(いつか、確かめてやる)
朝日が、庭を照らし始めていた。
大樹の下に戻って、三回転して、横になる。
今日は、よく働いた。燃やした。水浸しにした。直した。
猫の一日の労働としては、明らかに超過している。
あとは、寝る。
検証は終わった。
……いや。
正確には、始まったばかりだ。
――その朝、西棟の塔。
『黒猫観察日誌』
“昨夜、書庫の本が一冊、なくなっていた。『魔術概論 第一巻』。
今朝、戻っていた。
……戻っていたのだが、表紙に、小さな肉球の跡がついていた。泥の。
泥の、肉球が。
誰だ。誰が本を読んだ。いや、分かっている。分かっているのだが、書くと負けな気がする。
庭の植木が一本、なぜか綺麗に植え直されていた。……あいつだ。絶対に、あいつだ。何をやった。
僕にだけは、教えろ。……いや、教えられないか。相手は、猫だ。
くやしい。くやしいが、あいつが何かを見つけたのなら――それはたぶん、すごいことだ”




