観音寺城の霧、甲賀の懐(ふところ)
観音寺城を擁する六角家は、南近江の巨魁だ。浅井単独の兵力で正面からこれを打ち破るのは、無謀というほかない。
私は岐阜城へと赴き、信長に直談判した。
「六角を叩くには、織田殿の主力軍が必要です。我ら浅井は、その脇を固め、敵の退路を断つ『急所』を突く役割を担わせていただきたい」
信長は、私の「身の程を知る」提案に機嫌を良くした。
「ほう、自軍の戦力を過信せぬか。よいだろう。先陣は織田が引き受ける。浅井は、敵が逃げ道として使う甲賀の山道を封じよ」
これが狙いだった。織田の軍勢が六角本隊を観音寺城から誘い出し、圧倒的な武力で粉砕する。その混乱に乗じて、私は甲賀の懐へ潜り込む。
戦場は霧に包まれていた。信長の鉄砲隊が轟音を上げ、六角軍を蹂躙する。その阿鼻叫喚の中で、私はあえて主力を動かさず、側近の遠藤直経のみを連れて、甲賀衆の支配域へと踏み込んだ。
「殿、あまりに危険です! 甲賀の地侍どもは、六角の息がかかっていますぞ」
「だからこそ行く。彼らにとって、六角という主人は既に『死に体』だ。今、彼らにとって最も必要なのは、新たな『雇い主』との契約だ」
甲賀の奥深く、杉谷善住坊の潜む屋敷に辿り着いたとき、彼らはすでに六角の敗北を予見していた。善住坊は、私が織田の主力ではない部隊でやってきたことに怪訝な顔をする。
「浅井殿、織田の軍勢は戦場にあり。なぜ貴殿がここにいる」
「六角は終わる。次は織田の時代だ。甲賀の者たちよ、六角の残党狩りに加わって消耗するか、それとも織田の傘下として、近江全域の情報網を独占するか、どちらを選ぶ?」
私は鞄から、織田家の書状(信長の直筆印入りの空白の許可証)を取り出した。これは信長に「六角の領内の治安維持を浅井に任せる」という名目を取り付けてきたものだ。
「この書状があれば、甲賀の者たちの身分は保障される。それだけではない。織田家と浅井家が京へ至るまでの全物流において、お前たちの情報網を『専属の運び手』として雇用する」
善住坊は書状を一瞥し、そして私を射抜くような目で見た。
「……我らを殺すのではなく、金で雇うと言われるか」
「戦火で命を捨てるな。稼げ。お前たちの技は、戦場よりも、平和な商いの道でこそ価値が出る。俺の配下に入れば、六角以上の対価と、織田という巨大な後ろ盾を約束しよう」
善住坊はしばらくの沈黙の後、黒い手袋を脱いで私に跪いた。
「……信長公の恐ろしさと、浅井殿の冷徹さ。見極めさせていただいた」
織田の圧倒的な暴力が表舞台を制し、裏舞台では私が甲賀という「情報の軍団」を吸収する。
観音寺城が落ちた時、近江の地図は塗り替えられた。織田信長は近江の門戸を完全に開き、私はその隣で、誰にも気づかれぬまま「眼」と「耳」を手に入れたのだ。
(よし。これで信長の動向を全て掴める。そして、この情報を元に、朝倉家も織田家も、俺の都合の良いように動かしてみせる)
私は帰陣する際、遠藤直経に命じた。
「六角の生き残りは追うな。甲賀の連中に、彼らの動きを逐一報告させる体制を組め」
戦は、戦場だけで決まるのではない。その裏側で、いかに「仕組み」を構築するかで決まるのだ。私は確信していた。信長の天下統一の歩みは、今、俺の手の平の上にある。




