損益の相(あいたい)と、勝機
武田信玄を「経済的に死体にする」という献策は、信長には通じた。しかし、信玄という大将は、そう容易く沈黙するような安っぽい御仁ではない。
彼が打った手は、武力による直接攻撃ではなく、我が物流網に対する**「極端な安売り競争」**であった。
「殿! 深刻な報告にございます!」
遠藤直経が顔を青くして駆け込んできた。
「武田領から流れてくる塩、鉄、海産物……すべてが、我が浅井商圏の半値以下の『赤字価格』で市場に流されております! これでは商人が皆、武田の道筋へ逃げ出してしまいます!」
信玄は、自国の財政を削ってでも、値を極限まで叩き下げたのだ。我が物流の仕組みが成り立たない水準まで、無理やり値を下げてきた。これは戦国の世における「不当な安売り」による消耗戦に他ならない。
(……信玄殿、やるな。武力で勝てぬなら、我が商いの土台そのものを揺さぶり、壊しに来たか)
このままでは、物流網を維持する経費が利益を上回り、浅井家中の懐は空になってしまう。朝倉の遺産も、加賀の産物も、この価格破壊の前には無力である。
私は直ちに、全拠点の代官へ「値付けの変更」を命じた。
「これより、商いの定義を変える。現在の流通品は、ただの物資ではない。すべて『武田との戦を支える証』という、値打ちを加えた品として売り出せ」
私は、武田の安売りを逆手に取り、こう噂を流させた。
『武田の安値商品は、すべて武田家が没落する前兆。これに手を出せば、滅びゆく武田の借金を背負うも同然である』
商いとは不思議なものだ。安ければ良いというわけではない。「将来の災い」を突きつければ、人々は安易な安売りに手を出さなくなる。私は、物流の価値を「物の値」から「信頼と安全の証」という目に見えない価値へと変えたのだ。
さらに、私は上杉謙信へ使いを送り、こう申し入れた。
「武田の安売り合戦は、謙信公の商いにも害をなしましょう。今こそ、信濃の国境で『物の流通』を共に絞り、武田の品を市から追い出しましょうぞ」
信玄が仕掛けた値崩しは、私と謙信という二大物流の主が手を組む、絶好の口実となった。
武田の供給路は、市場から「隔離」される。安売りをすればするほど、武田の蔵は空になり、一方の我が商圏では「安全の保証が付いた格別な品」が高値で飛ぶように売れる。
岐阜城で信長は、この状況を聞き、口の端を吊り上げた。
「損得勘定を、戦の勝機に転じたか。お主、戦場を金勘定だけでひっくり返せるとはな」
「戦場とは、究極の損益の勝負。私はただ、その算盤を弾いているに過ぎませぬ」
戦乱という災いを、私は価値に変え、信玄という大資本家を追い詰めていく。次の収支の報告には、武田信玄の「敗北」という項目が記されることだろう。




