祝言の夜、あるいは破滅の回避戦略
月明かりが、小谷城の広間を静かに照らしていた。
私の隣には、白無垢に身を包んだ市が座っている。歴史の教科書で見た通り、息を呑むほどの美しさだ。しかし、今の私にとってその存在は、守り抜くべき「最愛の妻」であり、同時に私の未来を決定づける「最大の守護神」でもあった。
(俺は、浅井長政になったのか……)
俺には、現代日本のサラリーマンとしての記憶がある。気がついたのは昨日だ。
現代の記憶と、長政の身体感覚が脳内で溶け合う。記憶の底には、この先待ち受ける惨劇が鮮明に残っていた。織田との同盟、そして破綻。小谷城の炎。市と、幼い子供たちの最期。
目の前の市が、恥じらうようにわずかに顔を上げた。
「長政様……これからは、何卒よろしくお願い申し上げます」
その瞳に宿る純粋な光を見た瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。
(絶対に、史実通りのルートには行かせない。あんたを、あんな悲惨な目に遭わせるわけにはいかないんだ)
私は彼女の小さな手を、そっと握りしめた。
「こちらこそ、市。……君を、何があっても幸せにしてみせる」
誓いは本心だった。だが、それを実行するためには、避けては通れない巨大な壁があった。
重い障子が勢いよく開け放たれた。そこには、険しい表情でこちらを睨みつける、父・浅井久政の姿があった。
「長政、祝言の席で気色悪い真似をするな」
父の背後には、古い家臣たちが並んでいる。彼らの視線には、明らかな拒絶があった。
「織田の女を娶ったからといって、浮かれるな。織田信長という男は、いずれ全てを食らい尽くす獣だ。我ら浅井の伝統、そして長年盟友である朝倉様との関係を壊してまで、信長にすり寄るつもりか」
父の言葉はもっともだ。戦国大名の論理としては正しい。だが、歴史を知る者からすれば、それは浅井家を滅亡へ導く「自殺行為」に他ならなかった。朝倉との関係を優先すれば、いずれ織田軍の蹂躙を受ける。
「父上」
私は静かに立ち上がった。サラリーマン時代、理不尽な上司を説得する際に使っていた、あの腹の座ったトーンで。
「信長殿は獣かもしれません。ですが、その獣に牙を剥いて滅んだ者たちを、父上もご存知のはずだ。朝倉様との関係を捨てるわけではない。だが、織田という今最も勢いのある『大手』と提携し、その信用を借りてこそ、我ら浅井は盤石となるのです」
「寝言を言うな! 織田に逆らうべきは、朝倉様との約定だ!」
父が激昂し、広間の空気が凍りつく。市が不安げに私の着物の裾を掴んだ。
このままでは、父を納得させられない。力ずくで抑え込めば、それは「親殺し」という名の反乱になり、家中が割れる。
(まだだ……まだ戦う時期じゃない。まずは、この家中の反対意見を「織田との提携がビジネスとしていかに合理的か」という実績で黙らせるしかない)
私は父をまっすぐに見据えた。
「父上。今すぐ信長殿に臣従せよとは申さぬ。しかし、織田との婚姻は、我ら浅井にとって最強の防衛ラインです。市を大切にすることが、ひいては浅井の安寧に繋がることを、俺が証明してみせます」
父は忌々しげに鼻を鳴らし、踵を返して去っていった。
静寂が戻った広間で、私は改めて決意を固める。
(信長の腹心になり、天下統一のレールに乗る。その過程で朝倉を説得するか、あるいは……信長の力を借りて、浅井を内部から「織田グループの要」へと作り変える。それが、俺とお前が生き残る唯一の道だ)
私は震える手で、改めてお市の肩を抱き寄せた。
戦国という荒波の中で、サラリーマンの知恵を武器にした、長すぎる一日が始まろうとしていた。




