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宗一の家

 途中立ち止まったりもしたが、バス停から三十分くらいは歩いたかもしれない。

 宗一の実家は村の奥地でバス停と反対側にあった。せり出した山の斜面を隔てているので、ここに辿り着くまでは少々大回りする必要があった。

(足、やっぱ痛い? ような気がする)

 小学校近くに連なっていたビニールハウス群を通り過ぎてから、ずっと足裏の痛みが続いていた。気にはなるものの、歩けないほどではない。明日も痛みが続くようなら、旅行が終わったあとに病院で診てもらった方がいいだろう。

「――無事とうちゃーく」

 砂利が散乱している道の一番先まで来たとき、陽気な宗一の声が上がった。

「おぉ」

「千陽も長旅お疲れ、バス停から遠かったよな、ってもタクシーとかもないけどさ」

 夜行列車で来たので丸一日の道のりだ、間違いなく長旅だろう。

「ま、最後走ったのはきつかったけど大丈夫だ。宗一、ここから小学校通ってたなら大変だっただろ」

「そうそう。あの頃は自転車使いたいって何回も思った。中途半端に遠いと損だよな、途中に山道みたいなとこもあるし」

 宗一は蔦の絡まった錆びついた門を掴み、ニッと笑った。

「……そっか。宗一の家って、こんな家だったんだな……」

 千陽は独り言を言うように小声で呟いていた。

 小学校から向こう側の地域は、件の事情から千陽たち家族が近づけなかった。千陽がこの村で足を踏み入れた場所といえば、せいぜい小学校の裏山までだろう。

 感慨もあったが、どちらかといえば感傷だった。

「見た通り普通の日本家屋だよ。古いけど住むだけなら不自由ないかな。庭は手入れしてないから、ひでぇ有様だろうけど」

 宗一は門を押し開け中に入ると、引き戸に鍵を差し込んだ。

「あー……あれ、開かない。なんか奥で噛んでる」

「そのタイプの鍵って、コツがいるんだよなぁ。懐かしいよ」

「そうそう、俺も久しぶりでさ」

 千陽は門の前に突っ立ったまま宗一の家をぼんやりと見上げていた。

 二階建ての古い純和風建築。昔、千陽が住んでいた古民家カフェの母屋部分と構造がよく似ていた。裏手が鬱蒼と生い茂る木々に覆われていて、家全体が薄暗く見えた。現在進行形で大雨が降りそうな天気のせいもあるのだろう。

 この村は一軒一軒の民家同士の距離が遠い。宗一の実家の両隣は空き地だし、道中あった民家も、宗一は全部空き家だと言っていたので、この近くは宗一の家族以外は誰も住んでいないのだろう。

 宗一はネジ締り錠に手こずっていたが、しばらくして「よし」と開錠に成功した旨の声をあげた。

「千陽、開いた。中入れよ」

 千陽が立っている門の前から家の中が見えた。扉の向こうは、吸い込まれそうな闇が奥に向かって続いていた。

 電気はついていないようだった。宗一の家のご両親はどこかに出かけているのだろうか。

「なぁ……宗一」

「なんだよ」

 宗一と千陽の視線が交差する。

「……俺……。本当に宗一の家入っていいのかな」

 急に下がった気温のせいだろうか、声が勝手に震えた。

 そもそも千陽は宗一に招かれてこの場所にいる。

 だから入っていいかどうか訊くなんて今更だろう。それでも訊かずにはいられなかった。

 千陽は子供の頃、ずっと宗一の家に招待されたかった。呼んで欲しかった。

 宗一は千陽の家に何度となく遊びに来ていたけど、宗一は一度も「うちにもおいで」と言ってくれなかったから。

 ――宗一は過去、千陽を拒んだことをもう忘れているのだろうか。

 千陽の問いかけに、宗一は、ははっと軽く笑った。宗一の顔がどこか陰って見えた気がした。

「千陽、なに言ってんだよ。いいに決まってるだろう。ほら、入れよ」

「あ、うん。お邪魔します」

「おー早く、入れ入れ!」

 千陽は言われるまま、宗一の家に足を踏み入れた。宗一の家に近づくたび、足裏の痛みが増していく気がした。


 千陽より先に家に入った宗一は、暗がりのなか廊下の電気を付けた。千陽が引き戸を閉め靴を脱いだ途端、外から雨の音が響いてきた。結構な大雨だった。

「セーフだったな。濡れなくて良かったよ」

「あぁ、本当に」

「千陽、奥の居間で待ってて、お茶淹れてくるから」

 千陽は宗一が指を指した台所を抜け、六畳ほどの畳敷きの居間に足を踏み入れた。きょろきょろと周囲を見ながら、千陽はちゃぶ台の横にボストンバッグを下ろした。

 和室からは長い間誰にも面倒を見られていなかった家の匂いがした。綺麗に掃除されているが、空気が澱んでいる。

 千陽はこの匂いに覚えがあった。亡くなった祖父母の家に入ったときの匂いだ。どこか寂しく胸が詰まる気持ちになった。どうして、宗一の家で同じ気持ちになるのだろう。

 千陽は落ち着かない気持ちを洗い流すように、空き地に面した側の窓を開いた。雨と緑が混じり合った香りが部屋にそっと流れ込んでくる。

 宗一はここにくる前、村に帰るのは一年ぶりだと言っていた。

 この家には一年誰も住んでいなかったのだろう。あるいはそれ以上だ。

 居間には仏壇があって。二人の遺影が並んでいた。千陽が仏壇を見ながら、その場で立ったままでいると、後ろから電気のスイッチが押されて部屋のあかりがついた。

「あ、電気のスイッチ分からなかったよな」

 宗一は、そう言いながらお盆に乗せた麦茶を二人分ちゃぶ台に置いた。グラスのなかでは、氷がゆらゆらと揺れている。

「宗一、この家、一年ぶりに帰ってきたんだよな」

「うん。村の知り合いに鍵渡してて、時々窓は開けてもらってたよ。家ってさ、誰も住んでいないと静かに死んでいくから」

「え……誰も、住んでいない?」

 息が止まるかと思った。

「うん。俺がここに最後に帰ってきたのは、去年母さんが亡くなったときかな」

 千陽はハッとなり仏壇の遺影を見た。授業参観で数回見たきりだが、記憶と違う顔つきをしていた。千陽の両親と比べると老人にしか見えない。

(お祖母さんか?)

 そう思ったが宗一の祖父母と思われる白黒の遺影は鴨居の上にあった。それなら仏壇にある二つの写真立てが宗一の両親で間違いないだろう。

 十年も経てば顔も変わるだろうが、それでも別人だった。宗一は仏壇の前の座布団に座った。

「父親も子供の頃に事故で亡くしているから、俺が大学進学で村出た後は、ずっと母親はこの家に一人だった」

「俺、宗一の両親のこと何も知らなくて……。そうか去年、宗一長男だし大変だっただろ」

「ありがとう、まぁ、親が死んで悲しいのは悲しいけど、歳だったし寿命だよ」

「寿命?」

 千陽は宗一の言葉に違和感を覚えた。二十代の子供を持つ両親の年齢で、寿命と言うのは少し早すぎる気がした。

「あぁ……えっと俺の両親ってさ、結婚したの遅かったんだよね。俺を産んだのも四十過ぎてたし。もちろん思ったより逝くのは早かったけど、それでも十分生きたと思う。癌だったよ」

 宗一は仏壇の前でそう言って手を合わせた。雨の匂いに線香の煙が重なる。

「俺も、お線香あげさせてもらっていいかな」

「うん」

 宗一のあと千陽も同じように仏壇の前で手を合わせた。

 千陽は宗一の実家に遊びに行けば、当たり前のように宗一のご両親が出迎えてくれるものだと思っていた。

(……もう……亡くなってたんだな)

 千陽の重いボストンバッグの中には、千陽の母から宗一のご両親にと渡されたお土産のお菓子が入っていた。千陽の実家の店の名前が入った包装紙と赤いリボンでラッピングされた箱だ。千陽は旅行中かさ張るし別にお土産なんていらないと言ったが、母が勝手に鞄の中に押し込んできた。「誰かの家にお邪魔するなら、手土産くらい自分で準備するものだ」と、それでも渋ると「働くような歳になったのに情けないわ」と窘められてしまった。

 そんな気が回る母でもこういう展開までは予想していなかった気がする。本来の目的と違い仏前へのお供物になったお菓子を千陽はバッグから出して宗一に差し出す。迷った末、お供物ではなくお土産ということにした。こういう場面でどうすればいいのか、千陽は知らなかった。

「あのさ、宗一、これお土産で……」

 千陽の差し出した箱に宗一は目を見張った。

「あぁ、なんか悪いな気遣わせて」

「全然、大したものじゃないんだ。うちの店のお菓子」

「だったら、絶対美味しいじゃん。あとで一緒に食べようぜ」

 そう言って笑っていたが、千陽のお土産を受け取った瞬間、宗一は急に気まずそうに頭の後ろをかいた。

「そっか……そうだよな。ごめん。考えてみれば……母さん亡くなってるんだし。俺、千陽に最初に言っておくべきだったな。俺さ、なんかいつまでも子供っていうか、今は実家に誰もいないから千陽も気兼ねなく遊びに来ればいい、くらいに考えててさ。恥ずかしいな」

「宗一、どうした?」

 宗一は段々と早口になり、どこか焦ったような顔で千陽から顔を背けた。

「……千陽。ちょっと、その辺でくつろいでて。俺、二階の窓とか開けてくるから」

「あぁ、うん。分かったよ」

 宗一が何を恥じ入って焦っていたのか、千陽には分からなかった。自分たちは同じ歳でも育った環境も境遇も違う。千陽の両親はまだまだ働き盛りで、実家でケーキ屋を楽しそうにやっている。

 けれど宗一は千陽が知らないうちに、両親の葬儀を執り行って、今も立派に一人でこの地に立っている。

 千陽からすれば宗一より自分の方が子供っぽいし恥ずかしい人間で、旅の道中引け目に感じることが多かった。たとえば千陽が宗一と同じように、この歳で両親を亡くしたとして、彼と同じように普通に立っていられる自信がない。想像もできない。確か、宗一には兄弟がいなかったはずだ。他に誰か親戚はいるのだろうか。

(俺が同じ立場だったら、もう……村には帰りたくない、かな)

 こんなふうに一人で仏前の前に座ったら、宗一と違って泣いてしまう気がした。

 千陽なら拠るべを失った村や家に近づきたいと思えない。それは軽薄だからではなく、千陽が本当に子供だからだ。

 思い出に浸るには千陽はまだ幼く、親を静かに悼むには早すぎる。宗一と同じように仏壇の前に座っても、きっと悲しみの方が勝る。どんなに憎く思っていても。

 ――千陽、今度一緒に村に帰ろう。 宗一

 大雨の日、千陽の下に届いた手紙にはそう書かれていた。宗一はどんな気持ちで、あの文章を書いたのだろう。

 遊びに行こう、ではなく手紙には一緒に村に帰ろうと書いていた。

 宗一にとって村は今でも帰りたい場所なんだろう。宗一は強いな、そう思った。

 千陽はどうだろうか、宗一から旅行に誘われて懐かしいと思ったし、宗一に会いたかった。そこに少しの打算もなかったといえば嘘になる。

 心のどこかで、昔、自分が満たされなかった思いを、宗一の家に訪れることで満たしたいと願っていた。

 以前の村は自分を受け入れてくれなかった。でも今は違うと安心したかった。

 宗一のご両親に会い、どうもご無沙汰しています、なんて挨拶をして昔話に花を咲かせるつもりだった。他愛ない会話を宗一の家族を交えてすれば、千陽の行き場のない感情が過去のものとして、昇華されるのだと――。そう思っていた。

「……宗一……ひどいよ」

 仏前で正座したまま、千陽は無意識に手の甲に爪を立てていた。

 手紙が届いた日と同じだった。窓の外では梅雨の重々しい雨が降り続いていた。エアコンが付いていない部屋だが、開いた窓から冷気が流れ込み体が冷たく感じる。

 宗一が千陽を家に連れてこなかった理由は、ある種の村の掟みたいなものなんだと思っていた。

(もう宗一の内側には、誰もいないんだ)

 だから、千陽の願いは、もう永遠に叶えられない。

 今回、宗一が千陽を家に招いてくれたのは、宗一の両親がすでに亡くなっていたからだ。胸に恨みにも似た苦々しい思いがふつふつと沸いてくる。この気持ちは、本当に自分の感情なんだろうか。

 ――いへひとにならんせ。

 昨晩、耳元で暗い声がこだました。


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