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親指隠し


 いくら待っても宗一は二階から降りてこなかった。千陽は空気の入れ替えで開けていた窓を閉めて二階に行くことにした。古い家特有の急勾配の階段を手をつきながら二階に上がると一番奥の部屋からカタカタと物音がした。

「宗一?」

 部屋の中を覗くと宗一はベッドの上に腰掛けて開けっぱなしの窓の外を見ていた。雨が吹き込んできそうだったが、宗一は気にしていないようだった。

「宗一」

 千陽がもう一度、呼びかけると視線が合った。

「……なんだ。上がってきたのか」

「うん。部屋、入ってもいいか」

 暗い部屋のせいだろうか。生気の抜けた宗一の顔が、ぼんやりと千陽を見上げている。

「いいよ」

 子供部屋に使っていた部屋のようだった。天井が低く板張りの部屋には学習机と本棚が置いてある。きっと宗一の部屋だったのだろう。

「そこ、座れよ」

「あぁ」

「下でくつろいでてくれてよかったのに」

 千陽は言われるままベッドの向かいにある学習机の椅子に腰掛けた。

「なんか、一人で一階にいると落ち着かなくてさ」

「なんだよ、甘えん坊さんか? 構って欲しいなら早く言えよな」

 笑った宗一はどこか無理しているように見えた。千陽はこんなふうに不安げな顔をする宗一を知らない。

「そりゃ、まぁ構って欲しいよ。これはお前との旅行なんだし。お前いないと俺、つまんないし」

「ま、確かに、そうだな。ごめんごめん」

 そう言って、宗一は息を吐いた。思えば二階へ上がると言ったときの宗一は少し変だった。

「なぁ、宗一」

「ん?」

「俺は別にお前のこと子供だとか思ってないからな。俺より、すげー大人だし」

「なんだよ、急に」

「さっき変だったからさ。なんか気にしてんのかなって、これでも俺、お前の親友なんだぜ?」

 つま先で、そっと宗一の膝を蹴った。

「そっか。さんきゅ、千陽」

「……宗一」

 千陽が呼びかけると宗一は急に頭を抱えた。家に入ってから、宗一が不安定になっている。それは寝台車の中での自分の様子を鏡写しで見せられているようだった。

「な、俺さ……千陽に全部見透かされている気がして、急に恥ずかしくなった」

「恥ずかしい? どうしてだ?」

「ここに来るとき千陽、俺に言っただろう。寂しいのが嫌なのは当たり前の感情だって」

「あぁ、うん。そうだな」

「……俺のこれは……当たり前でいいんだよな」

 千陽は子供の頃、村にいる間、ずっと一人が寂しいと思っていた。

 宗一は目の前で肩を震わせていた。その恐怖は、過去千陽が感じていたものだった。得体の知れぬ寂しさに囚われる恐怖を、今、宗一が同じように感じているのだと分かった。

 今の宗一の内側には、彼を守ってくれるものが……支えてくれる家族が、いないのだ。この家にはもう誰もいない。

「俺、本当はさ……村に一人で帰ってくるのが怖かったのかもな。考えてみたら情けないよな、千陽に一緒に帰ろうとかさ。何言ってんだよな。……てか、村が怖いとか、変だろ。俺はこの村で十八年暮らしてたんだぜ? 離れたのはたった数年で、こんな……」

 宗一の縋るような目を見た瞬間、千陽は不思議と満たされる気持ちを覚えた。

 千陽は宗一のように大切な家族を失った痛みをまだ経験していない。それでも、ふとした瞬間心の隙間に襲ってくる寂しさは、千陽がこの村でずっと一人で抱えていたものだった。

「宗一」

 この村で両親の葬儀を行われたとき。宗一は一人で、どんな恐怖を味わったのだろうか。

 村に再び帰ることに恐怖を覚えるような、何かを見たはずだ。

 千陽は宗一が抱える心の闇を想像することしかできない。

 ――……違う。あれは葬式じゃない。婚礼だよ。

 小学六年生の夏。宗一は、神社に向かう葬列を、婚礼だと嘯いた。彼にとって、それは千陽に見せたくないような儀式だったからだ。

 千陽は宗一が昔、自分にしてくれた行為と同じことをした。宗一が座っているベッドの上に同じように腰掛ける。二人分の体重にスプリングの軋む音がした。

「宗一はさ、結婚とかしたいの?」

「……え」

「宗一が、昔、俺に訊いたんだ。そう言って俺の指を村から隠した」

「千陽……あの日のこと、覚えて」

 千陽は首を横に振った。

「思い出したんだ。あの日のこと」

 千陽は宗一と向かい合い宗一の右手を取った。

 右手の親指を握る。そして順番に、宗一の指を、村の目から隠していく。

 そうしないと不幸が訪れるから。こんなのは、ただの古いおまじないだ。

 ――葬列を見たら親指を隠しなさい。親の死に目に会えなくなるよ。

 宗一がやったのは、それと同じことだ。村の忌むべき場を見た千陽が哀れで、あの日必死に考えて、千陽の全ての指を村の目から隠した。

 宗一は千陽の指に呪いをほどこした。

 けれど千陽は……あの日山から落ち、何ヶ月も死の淵を彷徨うことになった。宗一の心に村の葬儀が恐ろしいものとして刻まれるには十分な理由だった。

 あぁ、本当に、怖かっただろうな。宗一。

 宗一は二度と親友が帰ってこないと恐怖しただろう。

「千陽、俺は……寂しいよ。寂しい」

 ――あぁ、なんて……憎らしい男だろう。

 今、千陽の心の中で、そう囁いているのは、一体誰だ。

 互いの寂しさを交換し埋め合うことが、家族になることだとしたら、仮初だとしても、今この時間だけは、千陽は宗一と家族だった。

「宗一、寂しいな、でも大丈夫だ」

「ち……はる」

「そうだ。寂しいなら、――このまま内へくればいい」

 千陽がそうこぼすと、宗一は千陽をベッドに縫い止め、貪るように唇を重ね合わせてきた。

 開いた窓から聞こえる雨音がうるさくて仕方なかった。

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