祭宴
突然、雑踏の中に放り込まれたような音で目が覚めた。
道の両脇には赤い提灯が等間隔吊られている。社まで続いている灯りは夜闇をぼんやりと照らしていた。
千陽は神社の参道の石畳の上に立っていた。目の前には夢で見た赤い大鳥居が聳え立っている。そこへゆっくりと向かう人々は千陽の横を通る際、軽く会釈していく。
――可哀想に。
――よそのひとだから。
――ここでは一緒にはなれなかったね。
その伏せられた人形のような瞳は千陽の境遇を憐んでいるようだった。
(違う、自分は可哀想な人間じゃない。望んでこの場所に立っている)
村人に挨拶されるたび千陽はなぜかそう感じていた。
いつの間に千陽はこんなところまで歩いてきたのだろう。よそものの自分は、村の神社の辺りには足を踏み入れはいけないはずだった。駄目だ自分はここにいてはいけない。
ここは禁足地だ。
――外の人は穢れているから、綺麗にしないと。
千陽は慌てて踵を返そうとした。
(愛した人に捨てられては、もう帰る場所がない)
そうだ。宗一がいないなら、もう千陽はここにいる意味がない。
あぁ、帰る場所がなくなってしまった。
千陽がそう思ったとき、ぬるりと後ろから伸びてきた黒い影に両腕を掴まれた。必死で振り払おうとしたが、掴まれている腕が石のように固くて身動きが取れない。
千陽は自身を拘束する両脇の影を確かめた。そこに居たのは黒の紋付袴姿の白髪の男だった。彼らに千陽は両脇を抱え込まれていた。
叫び声をあげようとしたが喉がからからに乾いてちっとも声が出ない。口から漏れ出るのは荒い呼吸音だけだった。
――よう、おいでなすって。
――おかえりなさい。
――今日は村の祭りの日ですからね。
――おかえりなさい。
――大丈夫。あの子が向こうで待っているよ。
ざらざらとした声が、耳元で囁いている。
宵の口に今日は夏祭りだと校内放送が流れていた。
けれど夏祭りにはまだ早い。今は六月だ。それなのに、どうして。
祭りだというのに神社からはお囃子も子供たちの歓声も聞こえてこない。耳に届くのは大人たちの暗いぼそぼそとした話し声と、冷たい風が吹き抜ける音だけだった。
体が寒い。足が冷たい。身の震えが止まらなかった。
怖い、行きたくない。けれど、もう自分に居場所はない。
千陽は足裏が濡れているのを感じて視線を下に落とした。
石畳は赤い光に照らされてどす黒く光っていた。昼間に降った大雨のせいで濡れているのかと思ったが、違った。
石畳を濡らしているのは、血だ。
足元から絶えず冷気を感じた。体が氷のようにどんどん冷たくなっていく。千陽は靴を履いていなかった。千陽の足は泥と血で汚れていた。
千陽の足には白い布がまとわりついている。
(白い……布)
はっとなって自分の体を確認すると、千陽はさっきまで着ていたはずのTシャツとズボンを着ていなかった。素肌の上には白い着物を身に纏っている。
――おめでとう。
――もうすぐ会えますよ。
――おかえりなさい。
――おかえりなさい。
――おめでとう。
両脇の男たちに引きずられるようにして歩くたび、千陽の着物は赤く黒く汚れていく。
「なんで、こんな……嫌だっ」
理不尽だと千陽は思った。
抵抗するも虚しく、千陽は血に濡れた石畳をずるずると引きずられるようにして内へと連れて行かれた。千陽の前にいる四人の初老の男たちは、畳一畳くらいの大きさの藁籠を運んでいた。あぁ、千陽はこの光景を知っている。
小学六年生のとき、千陽は山の上からこれを見つめていた。
これは、葬列だ。
一体、誰の?
鳥居をくぐると石階段を上がったところに、花が浮かべられた手水舎がある。
赤い小さな花びらは、水滴みたいにぱらぱらと絶えず地面に落ちている。千陽は男たちにされるがまま禊を受けた。
水盤から溢れんばかりの赤い花を柄杓で掬い、手と口を濯がれる。
真っ赤な花びらで指先が赤く染まり。口の中が花びらで浄められる。
苦しくてたまらなかった。
鉄錆のような味が口内で広がる。
これは、花だ。千陽は何度も自分に言い聞かせていた。悪夢ならば今すぐ覚めてくれ。けれど千陽の瞳には、いつ終わるとも知れない残酷な現実が映り続けていた。
――おかえりなさい。
――待っていたよ。
――あの子が、向こうで待っているよ。
――心配はいらない。禊は済んだ。
千陽が連れてこられたのは、薄暗い拝殿の中だった。前方では火が焚かれていて暗い建物内を照らしていた。千陽は両脇を掴まれたまま白い桐箱の前に跪かされた。
箱が炎に照らされている。
自分はこの中を見たくない。帰りたい。帰る場所はもうどこにもないのに。千陽は頭を押さえられていて目を逸らすことができない。
――可哀想に。お前に出会わなければ、この子は逝かなかった。
――きっと一人で寂しい思いをしている。
――せめて同じならば、と。
――よその鬼の言葉に耳を傾けるからこうなる。
――だから、その体で償っておくれ。
――この世でなければ、お前の願いは叶うだろう。
――あの子も、きっと喜ぶ。
あぁ、憎い、腹立たしい。許せない。
なんて身勝手な男だろう。先に一人で楽になった。許せない。
(あなたのところに、逝きたい、逝きたくない)
千陽は箱の前でただただ泣き続けていた。
村人のまま女を愛そうとした男は無邪気に女を傷つけ続けた。
よそもののまま愛して欲しかった女は、男を死に追いやり、村人からその命で償うことを強いられた。
これでは贄のようだ。否、実際そうだったのだろう。
どこまでも女は穢れたよそもののままだった。どんなに願っても彼と同じにはなれない。この場で死を選んでも選ばなくても、女はよそもののままだ。
――いえひとにならんせ。
男の願いは女の耳には、身勝手でうわべの約束に聞こえたことだろう。どんなに苦しく腹立たしかったか。
――それでも。愛しかった。
閉ざされていた箱が男たちの手でそっと開けられた。……そこには冷たくなった宗一が横たわっている。
千陽はこの結末を知っていた。穢れた手で千陽は宗一の頬に触れた。
(あぁ、せめておなじならば、と)
これは記憶だ。千陽はこの村の誰かに呼ばれてきた。
村人を憎み、愛した人を恨みながら、それでもその身を相手に捧げたいと願った。
千陽は村人に手渡された短刀を迷いなく首に突き立てた。
ごぼごぼと、口から血が溢れていた。
死んでしまいたいと思いながら、生きたいと願った。
彼女は間違っていたのだろうか。少なくとも彼女は自分の思うまま生きて死んだのだろう。――きっと、間違っていない。
意識が遠のくなか、千陽は彼女のことをどこか羨ましく感じていた。
遠くに光が見えた。
真夏の青空だ。
それは千陽が村での記憶を失う前の景色だった。どうして思い出せたのだろう。
――千陽、千陽! 大丈夫か、すぐ助けに行くからな! そこで待ってろよ!
宗一に呼ばれた気がして山を見上げた、宗一が千陽に向けて手を伸ばしていた。
滑落事故にあったとき、宗一は千陽に向けて手を伸ばしていた。
当たり前だ。自分たちは友達だった。親友だった。
その事実だけで千陽は十分だったのに。なんで、こんなに苦しんでいたんだろう。
(宗一の全部が欲しいとかさ、俺って、わがままだったんだなぁ)
最後まで埋まらなかったパズルのピースが全て埋まった気がした。
千陽は再び目を開けた。額には汗が浮き手は泥で汚れていた。
千陽は宗一の家の玄関に座ったままだった。しばらくの間、体の感覚が元に戻らなくてその場で呆然としていた。
顔を上げると、玄関の引き戸の硝子が青白く光っていた。千陽は起き抜けでふらふらする体で玄関の扉を開ける。
外に出ると、すでに夜は明けていた。
(村だ……俺が、住んでいた)
村で過ごした三年間、千陽は寂しかった。でも、宗一とここで過ごせて楽しかったから……どうしても村での記憶を失いたくなかった。
宗一ともっと仲良くなりたかったし、もっと村で一緒に遊びたかった。
だからこの村を出るとき、千陽は宗一と喧嘩をした。千陽は宗一を傷つけたかった。宗一の心に永遠に残る傷を。
子供のわがままな気持ちがやがて呪いになり、この地に残る「何か」と共鳴したのかもしれない。
退院したあと命は助かったが、千陽の記憶はバラバラのままだった。元に戻らない記憶に苛立ち、毎日泣きじゃくっていた。日々の暮らしもままならなかった。
ずっと村に居たいと思っていたのに、村は千陽をどこまでも苦しめた。ここには大切な記憶がたくさん残っていたから。
子供の力では、何一つ思い通りにならなくて、親を恨んだし、宗一のことも恨んだ。
「……あぁ、思い出した」
千陽はその足で過去に滑落事故に遭った学校の裏山に向かっていた。




