第十四話 綾乃様の使者②
梅雨の訪れを予感させる、低く垂れ込めた灰色の曇り空。
車を降りると、そこには東宮殿下の婚約者としての気品を纏った綾乃様が、すでに静かに待っていてくださった。
これまで何度か茶会で訪れたはずの麗しい庭園が、目の前に広がっている。
けれど、空の色が違うだけで、華やかだった景色は一変し——
まるで、すべてを飲み込もうとする深い淵のように見えてくる。
「すみれ様。本日は、急な呼び立てにも関わらず、ご足労いただきありがとうございます」
「……いいえ。こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
深く頭を下げると、綾乃様の視線は私の後方へ——車から降りてきた暁臣様へ移った。
「五条殿下も……わざわざ、いらしてくださったのですね」
「俺はあくまで、婚約者の付き添いと警護だ。気にせず進めてほしい」
「……ですが……二人きりでと、お伝えしたはずですわ」
微かに震える声に、不安が湧いてくる。
やはり暁臣様がいると、話し難い『何か』があるのだろうか。
咎められるにせよ、諭されるにせよ——どのような言葉が飛び出すのか。
足元が崩れるような恐怖が、じわじわと私を支配していく。
「では、俺はここで待機する。場所を教えてくれ。密室でなければ、移動しても構わない」
「……五条殿下。ご配慮、感謝いたしますわ」
その言葉を合図に、綾乃様はすっと背を向けて歩き出した。
一歩、また一歩と暁臣様との距離が離れていくたび、心許なさに押し潰されそうになる。
それを必死で隠すように、私は自分の手を強く握りしめた。
いつ見ても、綾乃様は溜息が出るほどお美しい。
内大臣のご令嬢という輝かしい血筋。
その身に宿す『華』は、百花の王たる『牡丹』。
生母も『牡丹』を持っていたと聞いたことはあるけれど——
綾乃様ほど、その華やかさが似合う人は、この国に二人といないだろう。
暁臣様の姿が木々の向こうに完全に見えなくなった頃。
綾乃様が不意に足を止め、振り返った。切れ長の瞳が、まっすぐに私を捉える。
「すみれ様」
鋭く名前を呼ばれ、身構えたまま肩がびくりと揺れる。
けれど次の瞬間、私の眼前にあったのは、予想していた怒りでも冷笑でもなかった。
それは——震えながら、深く深く頭を下げる、誇り高き女性の姿だった。
「……どうか、わたくしから恒一様を……東宮殿下を奪わないでください」
悲痛な言葉に、頭が真っ白になった。
奪う?この私が?あの畏れ多い東宮殿下を?
「……え、あの……そんな……っ」
だって、私は暁臣様の婚約者で、東宮殿下への想いなど欠片も持ち合わせていない。
そんな恐ろしい真似、考えたことも、夢に見たこともない。
お伝えしなければならないことは、山ほどあるのに。
あまりに想定外の光景を前に、喉がからからに渇き、一つの単語すら出てこない。
「……どうか、お願いです……わたくしの立場も、ご理解ください……っ」
「……っ、綾乃様……!そのような真似、おやめください……!」
やっとの思いで声を絞り出し、地面に膝をつきそうな綾乃様へ駆け寄った。
彼女の肩に触れようとして、指が震える。触れていいのか、触れてしまっていいのか——
「……私は、暁臣様と婚約しております……綾乃様がご心配されるようなことは、万に一つもございません……本当……なんです……」
綾乃様の瞳には、拭いきれない不安と焦燥が渦巻いていた。
溺れる者が藁をも掴むような、切実さ。
それが痛いほど伝わってくる。
「ですから……どうか、私などに頭を下げるようなことは……なさらないでください」
「すみれ様……」
揺れる瞳を見た瞬間、私は気づいた。
きっと——私も同じだ。
もし、ほんの少しだけ運命の歯車が違っていたら。
千鶴様や綾乃様、そしてこれから暁臣様が出会うであろうすべての女性に、私はきっと醜く悲しい視線を向けていたに違いない。
ただ、私は『無華』で、何も持たないから。
手に入らないのが当然で、手を伸ばすことすら考えられずに、諦めるのが常。
愛されないのが当然の世界で生きてきたから——今の綾乃様のように、激しく動く術を知らなかっただけ。
こんなふうに、気高く崩れることさえ、私にはできなかった。
以前の私なら、流されるまま、この状況にただ飲み込まれていたかもしれない。
けれど、私は暁臣様と出会った。
あの温かな掌に触れ、瞳を重ね、あの方にだけ求められたいと願ってしまったから。
「……すみれ様……っ」
彼女の抱える絶望が、痛いほど伝わる。
それと同じくらい、申し訳なさが胸を突き刺し、私の瞳からも涙がぼろぼろと溢れ出してきた。
私なんかとは比べものにならないほどの重責を背負う高貴な方が——『無華』である私に頭を下げる。
そんなこと、あっていいわけがない。
彼女にとって、それは屈辱以外の何物でもないはずなのに。
それでもなお、なりふり構わず頭を下げるという道を選ばせてしまった。
「すみれ様……取り乱してしまい、申し訳ありません……わたくし……」
そっと、震える指先が私の頬に触れる。
私たちはどちらからともなく、互いの手を取り合ったまま、その場にしゃがみ込んでしまった。
灰色の空の下。
静まり返った庭園の片隅で。
私たちはただ、互いの涙を分かち合うことしかできなかった。
雨の気配だけが、重く近づいてきていた。
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