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サキュバスは女の形をしたもので男の精気を吸う夢魔の一種であり、精液を奪う。
インキュバスは男の形をしたもので無垢なる乙女を襲い子を産ませる夢魔の一種である。
この二つは一説によると同一であるものとされ、どちらの性にも化けられる怪物が女の時に奪った精液を男の時に使用し女性を孕ませるとも言われており、枕元に代わりとなる牛の乳や山羊の乳などを置くと妊娠を避けられるともある地方では言われているが真相は不確かだ。
そしてインキュバスによりできてしまったとされる赤ん坊のほとんどは不義密通や近親相姦、合意のない性行為による私生児、婚外子などの場合が多く、実際に淫魔との関係がなくとも自身らの罪の証から逃れる術として“淫魔に惑わされた”“淫魔の子を孕まされた”と主張することも少なくない―――
そこでパタンと本を閉じた。少しでも敵を知ろうと淫魔についての本を取り寄せたが不快な内容ばかり並んでいるのに思わず読んで早々に気分を害してしまった。
もしこれが本当なら彼は被害者だ。何も悪くないのは変わらないが、あまりにやるせない。
視線を落とし沈んだ気分のまま、今度は彼についての話を侍女や父母に聞きに行くこととした。
「お母様、大公様のご子息のお話しなんですけれども……。何かご存知ではありませんか?」
「……彼のこと、ですか。あまり外のものが話していいような内容ではないのよ。話してあげたいのは山々だけど、わかってちょうだい」
普段は色恋の話や気になる殿方はと楽しげに聞いてくる母が口を固く閉ざし、彼のことを話すのを拒否した驚きに目を瞬く。結局何も得られず、今度は父のもとへと向かえば父も顰め面をして他家の内情に関することだから話すわけにはいかないとやはり断られてしまった。
情報がほしいのに何も得られる手段がなく途方に暮れていると客人がやってきた。
先触れをあらかじめされていたにも関わらずもうかと慌てて出迎えるとこないだ夢にも出てきた青年が余所行きの表情で社交儀礼を行う。父と暫く書斎で話した後、体調に変わりはないか、怪しげな男の夢や見慣れない人物などが接触してきてはないかと問われるのに一つ一つ答えていく。
それが終われば今日の贈り物はと金の時計を手渡された。
「私の叔父が母へと贈ったもので、なかなか強力な魔除けになると思います。一番危険を感じた時にそれを手にしていて下さい」
年代物だろうそれは落ち着いた色合いでキラキラと光りつつも下品でない高貴な雰囲気を感じさせた。よく手入れをされているようで、きっと大切なものだとありがたく受け取れば侍女にしまっておくようにと頼み。
恐る恐る探るように彼自身に彼のことを尋ねようとローザリアはそっと口を開いた。
「不躾かとは思いますが、私もあなたのことを少しでも知りたいと思っておりますの。こんなにもよくして頂いてるのに恩人の何一つ知らないままいるだなんて、厚かましいにも程がありますでしょう?まずは友人にでもなれれば。そんなふうに考えております。……ご迷惑でしょうか」
「お気持ちはありがたいですが、あなたの名誉を傷付けてしまうかもしれないので遠慮させていただきたい。侯爵も次の縁談に差し障りが出るような私などと親しくはさせたくないのが本心であると思いますよ」
「もしあなたの生まれにまつわる問題なしでしたら、私と友人になってくれていましたか?」
「ええ。ローザリア嬢のような愛らしく聡明な女性が友であればきっと私は喜んで皆に私こそあのローザリア嬢の友なのだと自慢して回ったでしょうね」
やんわりとしかしはっきりと拒絶をされてやはりかと目を伏せるが、自分には何一つ瑕疵があるわけではないとのフォローにつくづく彼が自身を低く見ていることが伺えた。
当然かもしれないがそれがまたローザリアの心に影を落とす。
そんな彼女を前に情けなく眉を下げつつ大公子息も暫し床に視線を落とし、ややあって肩を竦めて言葉を付け足した。
「……本当に、オレのことなんか気にしないで。君は君の身を守ることだけ考えて。君に何かあればご両親も友人も悲しむんだから。ね?」
人の心配などしている場合ではないと終いには言われた気がしてローザリアは顔を赤くし羞恥心に震えた。のんきで、考えなしだと自分を罵り小さく申し訳無いと消え入りそうに口にするとそこまで責める気はなかったらしい子息が慌ててまたフォローしてきたがそれも効果をなさず、時間が来てしまい、罪悪感に苛まれたような顔をさせたまま屋敷を出て行かせてしまったのも失敗だったとローザリアは侍女に泣きついた。
「ムァルナ様は気にしないようにとおっしゃられていましたのでしょう?ならばそこまで気に負わなくてもいいのですよ」
「でも……」
「しっかりなさって下さいな。ああ、そういえばムァルナ様より珍しいお菓子を頂きましたからお茶にしましょう」
うじうじと坩堝に陥って考えているとそう提案されテキパキと侍女が仕度を整えてゆく。身を守る品だけでなく土産まで準備させていたことをそこで気付きまたも自分の至らなさを知り落ち込むも用意されたお茶に手を付け、見慣れない黒に近い小さな粒をしげしげと見つめる。
先に毒味をしていた侍女が興奮したように美味しいですよお嬢様!と拳を作り小さく振る様子に引き気味となりながらも恐る恐ると口に運び。
濃厚な深みのある味わいに少しの苦み、その後舌にまとわりつくような不思議な感覚に目を見開きそれがあっという間に溶けて無くなるまで味わった。
「何これ、こんなお菓子初めてだわ」
「最近話題になっている輸入菓子ですね。流石は大公様のご子息様ですわ。大公様とは不仲と聞いておりましたが、ご自身で切り拓いた独自の伝手でもお持ちなんでしょうね!」
「大公様と不仲……?それは本当なの?」
「それは……奥方様のこともありますから、通常の親子よりも隔たりもありましょう」
「……そう、よね。それなのに私のためにこんな騒ぎに巻き込んでしまって。大公様との関係を悪化させてはいないかしら。やっぱり心配だわ」
もし、自分の愛した人が殺されその殺したものの子どもが自身の愛した人の腹から産まれたら、憎まずにいられるだろうか。
許して大きくなるまで育てたとしてその殺人者に関わるかもしれないことに自ら関わっていったと知ったなら、やはり裏切るのかと罵倒せずにいられるだろうか。
ふるりと震えた体と途端に味を失う菓子に、彼の姿がぼやけ滲んだ。