10 マリア
マリアは町外れにある小さな薬屋の次女だった。通りに面した店先には乾燥させた薬草の束が吊るされ、窓辺には色とりどりの薬瓶が並んでいる。だがその慎ましい店の空気は、二年前からわずかに変わっていた。
国の制度が変わった時、父は薬師の免許を取りに行かなかった。腕はいいが、人見知りだったのだ。それで親戚に来てもらって店の営業を続けていた。
それが、ついに姉が見習いを修了し、正式に薬師の免許を得たのだ。同時に見習い先の薬局の次男と婚約した。
白い認可証を額に入れて壁に掲げた日、父は珍しく酒を飲み、母は何度も「よくやったわ」と繰り返した。店を手伝ってくれていた親戚も、安心して地元に戻って行った。
婚約者の家の支援で、店を拡張する話まで持ち上がっている。
薄い期待と、重い現実が、マリアの胸に同時にのしかかった。
「マリアも薬師になれるわ。でもね、あなたは継ぐ店がないでしょう? いい人を見つけて、お嫁に行くのが一番よ。ここでは雇えないから」
ある夕暮れ、帳簿を閉じながら姉はそう言った。穏やかな口調だったが、拒絶ははっきりしていた。
姉は知っているのだ。妹がどういう人間かを。
要領がよく、人の懐に入り込み、気づけば一番おいしいところをさらっていく。幼い頃からそうだった。客の前では愛想よく、祖母たちの前では素直に振る舞い、気づけば褒められるのはいつもマリアだった。
母方の祖母も、父方の祖母も、かつて父にこう進言している。
「店を継がせるなら、あの子のほうが商才があるのではないかい?」
だが母が強く反対した。「長女が継ぐのが筋です」と。
姉はその一言に救われた。だが安心は長く続かなかった。
祖母たちは別の手を打ったのだ。薬師としてマリアが上だと言えるように、伝手をたどって大手のポイード薬局で見習いの修行ができる様に手配したのである。
店を継ぐのは、ポイード薬局で修行した腕のいいマリアがふさわしい。祖母たちはそう言い出しかねない。
姉は悟った。マリアを家に戻してはならない、と。
出立の前日、姉はマリアにささやいた。乾いた風が薬草の匂いを揺らしている。
「いい、条件のいい人は競争相手が多いの。負けたらだめよ。……相手を蹴落としてでもね」
その声は低く、笑みはなかった。
マリアは一瞬だけ戸惑い、やがて小さくうなずいた。その言葉は、マリアの胸にしみ込んだ。
店主の息子、ジェフは穏やかな顔立ちの青年だった。まだ婚約者はいないと聞いた。
男性の薬師も腕が良いと評判で、優しそうだった。ここの薬師になると決心した。
見習い仲間は、講習会で目立っていたダイアナだった。
素朴で、控えめで、よく働く。水汲みも掃除も率先して行い、薬の調合も丁寧で正確だった。
マリアは、すぐに理解した。
――敵だ。
「薬は重いから、わたしが届けてあげる」と言うと心からお礼を言われた。
その間に面倒な掃除をしてくれた。みんなとゆっくり喋って戻ると掃除が終わった清浄な空間が待っていた。
実際には、ダイアナが作った薬が褒められた。マリアが作った薬は苦笑された。
だが、薬を褒められると、マリアは自分を褒められたようににっこりと笑った。
誰も疑わなかった。マリアは笑顔を絶やさず、報告も滑らかだった。ダイアナは気づかない。
だが、最近になって、ダイアナの様子が変わった。
先輩たちが余計なことを言うのだ。
「水汲み、いつもご苦労様ね」と声をかけられた時は返事に困った。だってダイアナに聞こえそうだったから。
「まだ、薬が安定しないわね」とダイアナに言った先輩を蹴り飛ばしたくなったが、先輩は言いたいことをいうとすぐに行ってしまったから、ほっとした。
ある日、ダイアナも薬を届けると言いだしたので、一緒に行った。
皆はダイアナの手にある薬を見てもなにも言わなかった。マリアもなにも言わなかった。
ダイアナはとまどっていたが、黙っていた。危ない! ダイアナの一言でマリアの立場はどん底になる。
マリアの中で姉の声がよみがえる。
――負けたらだめよ。相手を蹴落とすのよ。だから、マリアは動いた。
昼下がりの店内は、薬草の匂いと陽だまりの静けさに包まれていた。その空気を切り裂くように、鋭い叫び声が響いた。
「ないわ!」
叫んだのはマリアだった。顔を蒼白にし、胸元を押さえている。ざわ、と店が揺れるようにざわついた。
「どうした」
レオンが素早く歩み寄り、彼女の肩を抱く。守るようなその仕草に、周囲の視線がさらに集まった。
「わたしのブローチが……祖母の形見なの。亡くなった祖母の、大事な……」
声は震え、今にも涙がこぼれそうだった。そう言いながら、マリアの視線が店の奥に立つダイアナへと向けられる。
「今朝まではあったのに」
その言葉とともに、周囲の視線がゆっくりと、疑いを帯びてダイアナへと移っていく。
「……まさか。ダイアナ。あなたが?」
誰かの小さな呟きが、空気を決定的に変えた。
ダイアナは首を横に振る。
「知りません。違います」
声はかすれていたが、はっきりしていた。
「本当に、知らない」
だが疑念は止まらない。
「念のため、持ち物を見せてくれ」
アーチーが言う。その声音にはすでに結論が含まれているようだった。
ダイアナは無言で鞄を差し出す。手がわずかに震えている。
レオンがそれを乱暴に引き出す。
そのとき、小さな硬い音がした。袋の下から、金属の光がこぼれる。
「これだわ」
マリアが震える声で言う。
レオンの手の中で、きらりと光るブローチ。繊細な細工が施された、小ぶりな装飾品だった。
「違います。知りません」
ダイアナが言う。
「知らない。わたしじゃない」
「鞄から出てきた」
レオンの声は冷たい。
店内の空気が固まる。
「でも……」
ダイアナの言葉は続かなかった。誰も続きを待っていない。
「泥棒は薬師になれない」
レオンの低い声が、重く落ちる。
それはこの店の、そしてこの国の常識だった。
薬師は信頼で成り立つ職だ。薬は命に関わる。疑いを持たれた時点で、すべては終わる。
翌日、役所の人間が店を訪れた。
無機質な制服。感情のない目。制度はすでに整備されている。薬師は免許制。見習いであっても登録され、資格も履歴も厳密に管理されている。
机の上に、ダイアナの免許証が置かれた。
半年間の講習と見習い修了を示す証。
「規定により、資格を取り消す。マリアの亡き祖母の形見のブローチを盗んだ罪」
淡々とした宣告だった。
「待ってください。ちゃんと調べてください。わたしは盗っていません」
ダイアナは必死に訴える。しかしその声は、誰の耳にも届かなかった。
「証拠がある。調査は済んでいる」
アーチーが答える。
次の瞬間、乾いた音が響いた。
ぱり、と。
役人の手で、二つに免許証が裂かれる。
紙片が机の上に落ちた。
それは、彼女の半年間と、これからの未来が裂ける音でもあった。
マリアが邪魔者を排除した音だった。
――これで安心。
これで待っていれば、マリアは正式な薬師になれる。
静まり返った調剤室で、マリアはそっと薬瓶に触れた。
澄んだ液体が、光を受けて揺れていた。
それが誰の努力の結晶なのか、もう確かめる者はいなかった。
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