花妃と香妃(12)
「ところで食妃様は、静帝陛下のことをどうお思いになっているの?」
和やかな茶談義の最中に爆弾発言を放ったのは花妃だ。せっかく和気藹々と穏やかな雰囲気だったというのに、途端にぴしりと空気が凍りつく。
春柳は聞かれた内容がよくわからず、首を傾げて問い返した。
「どう、というのは……」
「やあね。わかっていてとぼけるなんて、食妃様もけっこう性格が悪いのね。まあ、わたしと香妃様への仕打ちから、意地の悪さはわかっていたけれど……そりゃあもちろん、皇后になる気があるのかないのか、ってことよ」
花妃は胸に手を当て、周囲を見回す。
「皆様、妃である以上、金眼の皇子を産んで皇后になりたいと思っているのではなくて?」
政策上のものでもあるが、妃というのは皇帝の子を成すために集められたもの。金眼の皇子を産み皇后になることは、妃にとって人生の目標、最大の悲願。
通常の後宮ならば、陛下の気を引くため、目障りな妃を蹴落とすため、妃同士の血で血を洗う争いが巻き起こる。美しい薔薇たちが、己の棘を使って相手をズタズタに切り裂く。そんな場所のはずだ。
……普通の後宮ならば。
「そうおっしゃる花妃様も皇后になりたいのですか?」
「前は陛下の寵愛も民からの羨望も、全部を独り占めしたかったから、もちろんそう考えていたけれど……今は自分の未熟さが恥ずかしくて、そんな大それた願いは抱けない」
香妃も同意するように頷いた。
「あたくしも。後宮に来た以上、皇后になる以外の幸せはないと考えていたけれど、そうでもないと気づいたわ。あたくしにしか出来ない方法で、国のため、民のためになることがあるはず。まずは自分に出来ることで陛下を支えたい」
寂妃は指で卓の上に「之」の字を書き、迷いながら言葉を紡ぐ。
「私は、陛下をお慕いしているし、憧れてもいるわ……だって、あんなにも美しく凛とした殿方なんだもの。けど、私が皇后にふさわしいとも思えない。あの方の隣に並ぶのは、陛下と同じくらいの美しさと聡明さ、そして常識にとらわれない行動をするお方……」
そこでなぜか寂妃はちらりと春柳を見た。
「妾は当然、皇后の座に就くわ」
しかしこれまでの流れを断ち切るかのように力強い声がそう宣言をした。
満妃だ。
帔帛を巻きつけどっしりと座っている様は、もう既に皇后の座を手中に収めているのではと錯覚しそうになるほどの威厳に満ち溢れている。
「そのために後宮に来たのだし、妾はそちらとは違って未熟なところなどない。日々、自らを律し、鍛え、式典の折には陛下をお支えしている。皇后になるのは妾じゃ」
「前々から思っていたのだけれど、満妃様って本当に陛下のことを好いているの?」
花妃は満妃にあけすけな質問をした。満妃は鷹揚に頷く。
「当然じゃ。陛下はよく国を治め、民を気にかけておる。尊敬に値する殿方よ」
「でも、わたしや寂妃様みたいに、あけすけな視線を送ったりしないわよね」
「妾は誉高い劉家の出自。そのような俗めいた感情で陛下を見たりはせぬ」
「ふぅん……」
花妃の目は明らかに満妃を疑っていた。
春柳は知っている。満妃は未だ、元許嫁にして静帝陛下の実の兄、礼部尚書の偉鵬を慕っているということを。
皇后になるというのは義務であり、そこに陛下への愛情など存在していないということを。
春柳が感慨に耽っていると、花妃の首がぐるんと向きを変えて、視線が春柳を捉えた。
「それで、食妃様は?」
「え?」
「食妃様は陛下のことをどう思っているの?」
自分にまで意見を求められるとは思っていなかったが、考えてみればこの場に妃として在籍しているので花妃の疑問はごく当然のものだ。
花妃だけでなく、香妃、寂妃がわくわくした眼差しで春柳を見つめている。何と満妃までどことなく期待に満ちた目で春柳を見ているではないか。
ここで春柳は、気がついた。
(もしかしてこれって……この上もない機会なのでは?)
紆余曲折を経て、春柳は先輩妃五人全員と仲良くなることができた。今ならば胸襟を開いて話をすることができる。
そう、春柳が何を言っても、「そんな馬鹿な」と思われず、真剣に耳を傾けてもらえる可能性がある!
(今こそ真実を打ち明ける時!)
春柳は浮かべていた笑みを引っ込め、目を閉じて心を落ち着けたあと、すっと目を開いてその場にいる全員、特に満妃と花妃、香妃を見つめた。
「実はわたくし、皆様にお伝えしなければならない大切なことがございます」
いつになく真剣な顔で真剣な言葉を紡ぐ春柳に、一体何事なのかと全員が表情を引き締める。
「わたくしが嫁いだのは……陛下の食事情を改善するためなのです」
「食……事情?」
「はい」
キョトンとした顔で春柳の言葉を復唱した花妃に頷いて見せる。
「陛下はご存じの通り、永安でお育ちになった割にはほっそりとしたお体をお持ちでいらっしゃいます。それは、陛下が繊細な胃腸の持ち主であるからに他なりません。陛下のお体には、素材を慈しみ、薄味で、煮る、蒸すといった料理が適しているのです。わたくしは陛下の食事情の改善のため、後宮に参ったのでございます」
「なんですって……? 貴女は、皇后になるためでなく、金眼の皇子を産むためでもなく、ただただ陛下のお体のことを考え、陛下の食事のためだけに後宮に来たというの?」
「はい。その通りでございます」
花妃の驚きに、春柳は静かに頷いた。
「わたくしの宮にお越しになる時には、当然陛下のお体を第一に考えたお料理をお出しすることが可能。ですが、他のお妃様の宮ではそうもいきません。説得の結果、剛妃様、寂妃様にはご理解をいただけました。ですので是非、満妃様、花妃様、香妃様にもお願いをしたいのです。祥国の繁栄と安寧を願うのであれば、陛下のお体を労わることは第一に妃であるわたくしたちが考えなければならないこと。陛下のご健康こそが、わたくしの願い。この通り、伏してお願いを申し上げます」
春柳は卓に両手をつき、深々と頭を下げた。心からの願いだった。
(一人一人を説得するより、ここでまとめて一気に納得してもらった方が早いわ。お願いよ、「そうね」と言って!)
春柳の必死の願いは、果たして残る三人の妃の目にどう映ったのだろうか。
花妃は驚いていた。
やたら食事にこだわる妃だと感じていたが、まさか後宮入りした理由が「陛下の食生活の改善」のためだったなんて。こんなに見目麗しい妃が、邪で私的な願望を一切抱かず、ただただ陛下の体のためを思って後宮にやってくるなど、そんなことだれが想像できるだろう。
(彼女は、輿入れしてきてからずっと、陛下のご健康を願っていたというの……!?)
いつでも自分のことしか考えず、不遇を呪って周囲に当たり散らしていた己の矮小さを改めて思い知った。
(……負けたわ。わたしでは食妃に敵わない。この方こそ、皇后にふさわしい方……)
香妃は衝撃を受けていた。
後宮に集められた妃というのは、生まれつき身分があり、気位の高い者ばかりだ。人に頭を下げられることは多々あっても、自ら頭を下げることは稀だろう。
そんな妃の一人である食妃は、同格の妃たちに対し、ためらいなく頭を下げてみせた。
そうまでして、陛下の食事情を改善したいのだ。
思えば自分は、陛下にどんな食事をお出ししていただろうか。
珠海の、というより異国より入ってきた献立で、油いっぱい脂肪分たっぷりの料理ばかりを出していた気がする。
陛下は笑みを浮かべて食事を共にしてくれていたが、心の中ではどう思っていたのか定かではない。
璃美の肌さえ荒れてしまった料理では、繊細だという陛下の胃腸にも容易に傷をつけてしまっていたことだろう。
そんなことにさえ気づかなかったなんて。璃美は、己の未熟さを恥じて俯き、こっそりと唇を噛み締めた。
(あたくしはなんてことを……やっぱりまだまだ、未熟だわ……皇后の座など望むべくもない)
満妃は感心していた。
食妃は自分と同じく、責務を背負って後宮へとやって来た。そして己の務めを果たすために全身全霊で動いている。
なんて高尚なことだろう。妃とはこうあるべきという、まさに理想的な姿。
陛下の見た目に惑わされず、己の欲に振り回されず、自らを律し役割に全うする姿には、涙さえ込み上げてくるほどの高貴さが滲み出ている。
頭を下げる彼女からは、気品さえも溢れていた。
彼女にならば、陛下を任せられる。己をとりまく面倒極まりない境遇さえなければ、彼女に皇后の座を譲りたい。
なぜならば、汐蘭の心の中には、未だ忘れられない想い人がいるのだから。
(けれども、駄目ね。心のうちを誰にも悟られてはならない……妾は、皇后になるために崇悠様の下へと嫁がされたのだから……)
けれど。
汐蘭が崇悠のためを思ってお出ししていた料理が、逆に崇悠の体を傷つけていたのだとしたら。それはなんて申し訳のないことなのだろうか。
(いいえ。妾は陛下のためを思ってたくさん食べるように勧めたのよ。ふくよかさこそが富の証。皇帝である以上、誰よりも恰幅が良くなければならない……)
だが、本当にそれだけが理由だっただろうか。
本当に陛下のためだけを思って食事を勧めていたのだろうか?
汐蘭が陛下に会うたびに、その細い面から、誰かを想像していたのではないだろうか。もっと陛下が太れば、その「誰か」により近づくのではないかと、そんな邪な考えを抱いてはいなかっただろうか。
(……まさか!)
己さえも気づいていない、いや気づいていたとしても頭の奥底に押し込んで気づかないふりをしていた考えに思い至り愕然とする。
(……そんなわけはない! 妾がそんな邪な考えなど抱くはずが……!)
一旦気がついてしまえば、否定するのは至難の業だった。
高尚な思いと責任感とで陛下の隣にいるべきと考えていた自分こそが、実は誰よりも邪な思いを持ち、自分の考えを陛下に押し付けていたのかもしれない。
そのことに気づかせたのは、目の前で頭を下げている一人の妃ーー食妃。
(食妃……恐ろしい……なんて恐ろしい娘なの……!)
自分より三つも年下の妃に対し、汐蘭は途方もない恐れを抱いた。
「……食妃様の言い分は、わかったわ」
最初に言葉を発したのは花妃だ。髪に指を巻き付けて、気まずそうに、だがはっきりと言う。
「これからはもっと、陛下と一緒に召し上がる夕餉の内容を考えてみる」
「あたくしもよ」
「……妾も、検討してみよう」
「ありがとうございます!」
春柳は花が綻ぶような笑みを浮かべ、三人に謝意を伝えると、もう一度深々と頭を下げた。
「……ところで、食妃様が陛下のお食事内容を改善するために奮闘していたのはわかったのだけれど。それを抜きにしても、陛下は食妃様を気にかけているのではなくて?」
話の成り行きを大人しく見守っていた寂妃が疑問を呈した。
春柳が「え?」と言えば、「だって」と寂妃が言葉を続ける。
「私が見た時には、陛下は随分春柳様を気にかけていらっしゃったから……視線に含まれる熱だとか、かける声音の優しさだとかが段違いだったわよ」
「そうですか?」
「ええ。見間違いなんかではないわ」
寂妃が言えば、花妃もこれに同意した。
「確かに月寿節の時にわたしも同じことを思ったわ。陛下は食妃様を気に入っているわよ。絶対に」
「あたくしもそう思ってよ」
「私は男女の機微には疎いが……まあ、春柳殿であれば気に入られるのも納得だとは思う」
「妾からは何も言うまい」
「…………」
突然の妃たちからの「陛下は春柳を気に入っている」という話に、なんと答えればいいか言葉に詰まった。
「そんなことはないです」と答えようとしたが、瞬間脳裏によぎったのは、月寿節後に宮へとやって来た陛下の言葉と態度。
あの日ーー汐蘭の本当の想い人を知ったあの日。
どうにかする手立てはないのかと問いかけた春柳に対し、陛下はいつになく真剣な様子で春柳を見た。金の両目には熱が宿り、春柳を捉えた細く長い指先は振り払えない力強さがある。寄せられた唇から発せられた言葉は、「そなたを皇后に」という意味だった。
「!」
その時のことを生々しく思い出してしまった春柳は、思わず赤面してしまった。
「あっ! 赤くなったわ!」
「その様子、さては何かがあったのね?」
目ざとい花妃と香妃とが口々に囃し立てる。
「ち、違います! 何もございません!」
「説得力がなさすぎる」とばしっと言ったのは満妃だ。
「やっぱり春柳様と陛下との間柄は一歩進んだものだったのね……創作に使わないと」
「って愛凛様、わたくしを物語に登場させるのはおやめくださいませ!?」
「よくわからないが、春柳殿ならば陛下の隣にいるのにふさわしい!」
剛妃が豪快に笑う。
「違いますから! 皆様、誤解でございます!」
そうは言っても誰も聞き入れてはくれない。
妃たちの集まるお茶会は晴渡る秋の空の下、賑々しくも和やかな様子で行われた。
お読みいただきましてありがとうございます。
区切りがいいので、一旦ここで完結にさせていただきます。
面白かったよ、という方はぜひ★★★★★での評価をお願いいたします。
それでは、またお会いできる日まで。




