花妃と香妃(11)ー1
香妃が花妃を伴って春柳の前にやって来たのは、昼餉の後のことだった。
春柳が二人に厳しいスケジュールを課したのは、高尚な理由など何もなく、完全に単なる逆襲に過ぎない。
あの日ーー春柳が二人のために食事を作った運命のあの日。
料理に違和感を感じた春柳が原因を確かめるより早く、香妃の手が問題の料理の皿を叩き落とした。
止める間もないほどの速さで料理は宙を舞い、飛び散り、そして床に叩きつけられた。
みるも無惨な料理の姿に春柳の思考はぴしりと止まってしまった。脳みそが、視神経よりもたらされた眼前の光景を受け入れるのを拒んでいる。
本来ならば、美味しく食べられるはずだった。
春柳が朝から、いや前日から懸命に考えて作り出した渾身の一品。
その味は食べた人を喜ばせ、栄養が体中を巡り血肉となるはずだった。
こんな風に無惨に床に撒き散らされ、ごみになる運命では断じてなかったはずだ。
一体、どうしてーーーーー。
我に返った春柳を支配したのは、かつてないほどの怒り。
食べる人のことを考え真心込めて作った料理を台無しにされたことへの憤り。
食べ物の恨みは恐ろしい。粗末にした方の人間は「別にいいじゃない。食べるものなんて、たくさんあるんだし。一皿台無しにされたからって、そんなにめくじら立てるほどのことじゃないわ」と思うかもしれないが、作り手からするととんでもない話だ。
食べた結果、口に合わなかった、美味しくなかった、ならば仕方がない。春柳の実力不足だと素直に認め、至らなかった点を聞き、次に食べてもらう時にはおいしいと言ってもらえるようにしようと前向きに考えられる。
だが、食べもしないでぶち撒けられた暁には、どうしようもないではないか。
しかも料理が気に食わないなどではなく、虫が止まっていたかもしれないなんて理由で。料理に罪がなさすぎる。
香妃の表情も態度も少しも悪びれたところがない。
少しでも申し訳ないと思えるそぶりを見せてくれたのなら、料理を粉微塵にする気はなかったのだと謝罪されれば、春柳とてどうにか溜飲を下げられただろうに、香妃はふてぶてしい態度を崩さない。
春柳の中に存在していた自制心が盛大な音を立てて外れた。箍が外れた春柳は、外面の良さや愛想の良さをかなぐり捨てた。
ーー向こうがその気なら、こっちも迎え撃つまでよ。
だから春柳は、たおやかな天女の微笑みを浮かべたまま、香妃の喉元を貫く必殺の一撃をお見舞いすることにした。
「では、香妃様にはこちらの『麗慧湯』をおすすめいたします。気の巡りを良くし、お肌の調子を良くする湯でございまして。厚く塗ったお化粧でさえごまかしきれていない、肌荒れの激しい香妃様にぴったりのお料理と存じます」
かくして料理を蔑ろにされた春柳は逆襲のため、この二人の妃の性根を徹底的に正してやろうと決意したのだった。
具体的には香妃の吹き出物を消し去って輝くような肌に仕上げ、花妃は穏やかな心を手に入れてもらう。
そのために必要なのは、適切な献立の食事と適度な運動だ。
いきなり幽山の料理を三食食べろと押し付けても受け入れてもらえはしないだろうから、厨房に潜入して使う食材や味付けに指示を出す。
そして運動。
運動といえば剛妃瑞晶だが、いきなり深窓の姫に武芸を仕込むのは無理がある。さすがにそのくらい、春柳とて承知している。
なのでまず、厳しい修行で有名な満妃汐蘭に助力を乞い、体がほぐれたところで剛妃瑞晶と組手をしてもらおう。
そうすると午後は時間が余ってしまう。
せっかくなら、座学も組み込んではいかがだろうか。座学なら読書好きで知識が深い寂妃愛凛が適任だ。
「考えたら楽しくなってきましたわ……早速、お妃様たちに話をし、協力をとりつけませんと。せっかくならわたくしも参列させていただきましょう」
好奇心旺盛な春柳は、逆襲のための算段にわくわくしてしまった。自らもこの計画の参加者となろうと考えた。
そして満妃、剛妃、寂妃に相談をしたところ、満妃と剛妃からは快諾を得られ、寂妃はやや渋っていたものの熱心に説得した結果首を縦に振ってくれた。
こうして花妃と香妃に料理を台無しにされた恨みを晴らすべく、二人の心根を入れ替えよう大作戦が幕を開けたのだった。
春柳の見立てでは、香妃の肌荒れは数日あれば改善が見込めるだろう。
しかし花妃の苛立ち、心の不安定さは食事だけでの改善が難しい。心根を入れ替えてもらう必要がある。
とはいえ根気強く付き合っていけば必ずや良い方に向かっていくはずだ。
そんな風に思っていたのだが、香妃の説得により花妃は思っていたよりかなり早く心根を入れ替えたようだった。




