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春贄



 庭の白い薔薇を見つめながら、ソルセリルはぼんやりとした気分で春風に吹かれていた。バルコニーから眺める庭園はいつもと変わらずに美しく、年老いた男が五十年前と変わらずにせっせと庭の手入れに勤しんでいる。五十年前はあれほど筋骨隆々としていたたくましい体も、七十を過ぎればその面影などない。曲がってしまった腰も、パサついた肌も、皺だらけの手のひらも、ソルセリルには訪れることのないものだった。


「相変わらず辛気臭い面してんなァ。お前、きっと今……世界で一番悲壮な顔をした男だと思うぜ?」

「それはどうも」


 あの頃と変わらずにソルセリルを扱き下ろす、珍しい青年。彼も変わらず、商いの仕事をし続けていた。……表向きは。裏ではソルセリルの依頼に応じて、情報の収集から【通り魔】の始末まで、色々なことに手を出している。


黄昏(たそがれ)てんの?」

「入室の際にはノックをしてください、と何度伝えれば良いのですか」


 君は本当に変わりませんね、とソルセリルはわざとらしくため息をついた。勝手に部屋に入ってくるのはこれが最初ではないが、まさかバルコニーまで来るとは思っていなかった。


ここ(バルコニー)にいたんなら、ノックしたって聞こえねえだろ」

「屁理屈をこねないでもらえますか」


 全く、とソルセリルが眉間に皺を寄せるのもあの頃と変わらない。


 不機嫌さを装ったソルセリルの隣にミシェルは構うことなく並んで、バルコニーの白い手すりに寄りかかった。いい庭だよなあ、と銀髪を風に揺らしながら、ミシェルは青い瞳に青い空を映している。春の風は暖かく、どこか花の香りがした。バラかなあ、と眼下の庭の青々とした葉を見つめる。手入れが行き届いているのだろう。美しかった。

 ふと、ミシェルは口を開く。


「……なんつーか、まあ。俺は、お前はよくやったと思ってるよ」

「藪から棒になんですか、気味の悪い」

「気味の悪い、ってお前は……。人が慰めてやりゃあこれだもんな。ホントに可愛くないクソガキですこと」

「齢にして百を越えた僕にクソガキはないでしょう」

「齢にして千を越えた俺にはクソガキにしか見えねえの」


 べー、と舌を突きだしたミシェルに「それが齢にして千を越えた者のする行いで?」とソルセリルは冷えた視線を送る。その視線は全く意味をなさなかったようで「時間が流れるのって早いもんだなあ」とミシェルは呟いた。


「ホント、あっという間に過ぎちまう。よちよち歩きで地べた這ってた赤ん坊が、次の瞬間にゃ腰の曲がった老人になってたりもするしよ。ああいうの見ちまうと、【止まってる】ことがひどくもどかしくなるぜ」

「……時間感覚がおかしいんじゃないですか」

「ははは。ま、お前もそのうちこうなるよ。【次の瞬間】にはな」


 あいつの息子も結構立派な当主になりそうだな、と青い瞳の青年は優しい声で紡ぐ。


「僕の又甥(またおい)のことですか」

「そ。サフィラスもガキん時はすげー泣き虫だったのにな。昨日の挨拶なんて立派なもんだったじゃねえの。大叔父として鼻が高いだろ」

「今でも泣き虫でしょう。ルティカルも何をしていたのか。……父の逝去による当主任命だとしても、式典であれだけ泣くのは異例では? まだまだですよ」

「辛口だなァ。お前、ルティカルがランテリウスの後を継ぐときもそんなようなこと言ってたじゃねえか」

「ルティカルは人前じゃ泣きませんでしたよ」

「ニルチェニアは大泣きだったろ」

「あの子はまだ幼かったですし、当主になる子でもありませんでしたから」

「まァたそうやって素直じゃねえこと言うよなお前は」


 そのくせきっちり手伝うんだろ、とミシェルはにやにやと笑う。手伝いますけど、とソルセリルは淡白に答えた。大叔父としての役目ですから、と。


「……僕は。僕は、ニルチェニアには【お兄様の力になってほしい】、ルティカルからは【何かあったら子供を頼みます】と二人ぶんの約束がありますから。それを反故にしようとは思いませんので」

「……なるほどね」


 義理堅い叔父様ですこと、とミシェルはけらけら笑って「この庭も変わんねえなあ」と懐かしげに庭のアーチを見つめる。しっとりとした花びらをほころばせた白い薔薇が、アーチに巻き付きながら、静かにその身を風に揺らしていた。そのアーチの元には小さな菫が、そっと咲いている。


「他のとこだと菫は引っこ抜いちまうのに。ここは菫も薔薇も同等に扱われてる。庭師の方針か? それとも叔父(お前さん)の方針?」

「庭師の方針ですよ。先々代のね」

「先々代……? ああ、あの子。お前のお気に入りの」

「お気に入り?」


 何ですかそれは、と訝しげな顔をしたソルセリルに、間違ってねえだろうとミシェルは手すりに頬杖を付きながらソルセリルを見やる。


「こっからあの子が見えるときはいつも目で追ってたろ。……茶髪の。三編みが可愛かったあの子だよ。俺が茶に誘おうかなとか言ったら『迷惑になるからおよしなさい』とか言っただろ」

「間違いなく迷惑でしょう」

「……余談だが、俺に誘われて迷惑そうな顔をした女の子は今までに一人もいない。ニルチェニアだってそうだぞ!」

「あの子は優しいですからね」


 そんな顔はできなかったのでは、と答えたニルチェニアの叔父に、ミシェルは「手土産の菓子も美味しく食べてくれた」と食い下がった。無駄な真似を、とソルセリルは無表情に返す。


「それは菓子が美味しかっただけです」

「お前は頑なに否定するな!?」


 そんなに認めたくないのかよ! と大袈裟に肩を落としたミシェルに、認めたいわけがないでしょうとソルセリルは淡白に答える。この姪馬鹿め、と呟かれた一言に否定はしなかった。


「……お気に入り、と言うのが正しいのかは知りませんが。けれど、歴代の庭師のなかで殊更に大切に思うのは、確かに彼女だけでしょう。不思議なものだ、顔は思い出せなくとも、彼女の手のひらはよく覚えています。……棺にいれられていたときの、手のひらの冷たさも」

「……お前はさあ」


 馬鹿なやつだなあ、とミシェルは優しい顔で「お前はとっくに殺されてたんだなあ」と唇に微笑みをのせた。


「は?」


 見ての通り、僕は生きていますよとソルセリルは奇妙なものを見た、とでもいうように顔をしかめる。


「これからも殺されることはないのを、貴方も知っているでしょう。僕は永遠に、永劫に、この姿のまま生き続けるのですよ。貴方と同じように」

「そりゃ、肉体的には死なないよ。俺たちは。【そういうモン】として生まれついちまったわけだしな」


 それなら、と口を開こうとしたソルセリルに「頭でっかちはこれだから」とミシェルは肩をすくめて見せる。ニルチェニアが言ってたよ、と風に舞う前髪を押さえて、ミシェルは紡いだ。


「あいつの……サフィラスの泣き顔見てて思い出したんだけとさ。ニルチェニアにそっくりだったから」

「はあ」

「……『もし、次の春が来る前に私が終わってしまったのならば。叔父様にこう伝えてはもらえませんか。【叔父様はきっと恋をしていたの】』」

「……はあ?」

「そんな怖い顔するなよ! 俺はニルチェニアの言葉をそのまんま繰り返しただけだからな」

「何を馬鹿なことを……」


 馬鹿なもんかねえ、とミシェルは指先にくるくると髪を巻き付けて「やっぱ馬鹿だな」と静かに口にした。


「馬鹿だよお前は。大馬鹿だ。自分の気持ちにも気付かずに」

「手しか覚えていないことと、それが恋に結び付く意味が全くわからないのですが。……あの子は昔から、たまに突拍子がなかった。その点ではあの母親(サーリャ)によく似ていると思いましたが」

「あの母娘、勘が鋭かったもんなァ。俺もなかなかやりにくかった……。この件に関して俺から言えるヒントはひとつ、お前は結構純情だったってことくらいかな」

「本当にヒントですか、それは」

「少なくとも、【俺にとっては】。お前にとってこれがヒントになるかどうかは知らねえよ。ただ、お前の姪はお前の想像以上になかなかキレてたし、お前のこともよく見てた」

「全く意味が……」


 わからない、と珍しく困惑した顔のソルセリルに「じゃあ最後にして最大のヒント」とミシェルは助け船を出す。


「お前、今からニルチェニアを思い出してみろよ。何が思い浮かぶ? やっぱり手だけか? 違うだろ。俺の予想が正しければ、きっとお前の頭のなかでニルチェニアは笑っているんだろうし、その手にはきっと花がある」

「……何故?」


 わかったのですか、とソルセリルは口にしなかった。ただ、ミシェルだけはそれを知っているかのように、呆れたような微笑みと優しい声音で返すのみだ。


「そりゃ、お前がニルチェニアにそうしたかったからさ」


 手を繋ぎたかったことなど、だからあの庭師の娘の手ばかりを見ていたのだと。そんなことなど、この男は一生気づかないのだろう。馬鹿なやつだ、とミシェルはもう一度繰り返す。


 ――お前、もうとっくに殺され(恋し)てたんだよ。


 いつかの自分の言葉が現実になるとは、と隣のソルセリルをそっと見た。


 姪に無事であってほしかったことも、花に触れさせてやりたかったことも、もしかしたらこいつは気づかないのかもしれない、と思いながら。



***



「ねえ、ミシェルさん」

「なーに、ニルチェちゃん」


 小さな寝台に横たわりながら、小さな令嬢が華奢な手のひらを伸ばしてくる。その手のひらにそっと触れて、「夏だってのに冷たいなあ」とミシェルは小さく笑った。冷たくって便利でしょう、と少女は柔らかく微笑みを浮かべる。白い頬には微笑みがのって、それはとても愛らしかった。もう少し血色がよければなあ、とミシェルはなにも言わずにその手を握る。ちいさくて、柔らかくて、自分の手とは大違いだと思った。ひんやりとしている手のひらは、暑い夏には心地よい。


「お外、とてもいい天気ですね」

「天気良すぎて困るくらいだよ。外套もこの堅ッ苦しい格好もくそ暑くて嫌になっちまう」

「ふふ。いつも正装ですものね」

「麗しの姫君に会うのにくたびれた格好なんて出来ないからな?」


 綺麗にウインクをして見せたミシェルに、「ミシェルさんてば」とニルチェニアが楽しそうに微笑む。可愛らしく笑った令嬢にミシェルも微笑み返して、「お茶でもどうかな」と持参した菓子の入った紙の箱をニルチェニアに手渡した。


「まあ! ……綺麗なお菓子!」

「西方の菓子でね。最近俺のところで扱い始めたんだけど、これが結構イケる。てなわけで、ぜひお嬢さんにも、と。マカロンだってさ。えーと、なんだったかな……簡単に言うと焼き菓子でクリームとかジャムとか挟んでる菓子だな」

「まあ……!」


 ミシェルの大雑把な説明にも目を輝かせながら、ニルチェニアは箱一杯につまった菓子を見つめる。鮮やかな桃色、バラのような赤、オレンジのような橙色。空のような青のそれにも目をとめて、「本当にきれい」と嬉しそうに口許をほころばせた。


「さっきここに来る前に準備を頼んだから、紅茶が来たら好きなの選んで食べて」

「はい……! どれがいいのでしょうか……! 迷いますね」

「んー。夏だしなあ。黄色いやつなんてどう? レモンとかオレンジとかって聞いた気がするぜ。青いのはミントとか聞いたな」

「美味しそう」


 わくわくとした顔を隠せていないニルチェニアに、遠くまで【お使い】に行った甲斐はあったかな、とミシェルはその様子を微笑ましげに見つめていた。ニルチェニアに何か珍しい菓子を持っていってくれないか、と言付けた男は、姪にめっぽう甘いことで有名だった。下手するとこの菓子より甘いかもなあ、とミシェルは運ばれてきた紅茶を飲みながら考える。






「わたし、ミシェルさんに聞きたいことがあって」

「ん?」


 お茶の時間もとうに過ぎ、菓子のつまった箱はひとまずは使用人が持っていった。ニルチェニアはあの菓子をいたく気に入ったようで、明日のお茶にも食べるらしい。ここまで喜んでもらえるとは、と口にしたミシェルに、「ミシェルさんも叔父さまも本当にわたしを喜ばせるのが上手」と寝台の上で令嬢が微笑む。お見通しでいらっしゃいましたか、これはこれは……。とミシェルがおどければ、「叔父様の許可がなかったら、あんなにお菓子は頂けないもの」と鈴を転がすような声でニルチェニアは笑った。大正解だ。


「ミシェルさんは叔父さまを小さいときから知ってらっしゃるでしょう」

「おう。あいつがこんな小さいガキだった頃から知ってるぜ」


 こーんな、と自分の膝ギリギリに手をヒラヒラとさせたミシェルに「叔父さまにもそんなに小さい頃があったのですね」とニルチェニアは楽しそうに笑った。今じゃ信じられないよなとミシェルもそれに乗る。いつだって無表情の外道医師が六十年ほど前にはよちよち歩きの子供だっただなんて、誰も認めたがらないだろう。


「叔父さま、どうしてあんなに白い薔薇がお好きなのかと思って。ミシェルさんはなにか知っていて?」

「あー。あの薔薇かァ。まあ、ちょっとは」

「叔父さま、あの花を見るときにとても優しい目になるのです。わたしもあの花はとても美しいと思うのだけれど、叔父さまはそれだけではないみたいで」


 うん、とミシェルは外を見る。さすがにもう時期は過ぎたのだろう。春には美しい花弁を綻ばせていたアーチのそこには、今は青々と葉が繁っている。てらりとした艶のある光を葉に灯して、薔薇は太陽の光で生きる力を蓄えているようだ。


「この家にはさ、昔女の子の庭師がいたんだよ」

「あら……。この前聞いた方かしら?」

「聞いた?」

「ええ。叔父さまが話してくださったの。昔のことだと」

「珍しい」


 あいつは過去を語るようなタイプじゃないんだけど、と考えてから、この姪にねだられたとしたなら不思議じゃないなと納得する。なにせ、姪と甥には菓子より甘い男だからだ。


「じゃあその子のことだ。その庭師の子が、特に薔薇の手入れをきっちりしててな。んーと、薔薇って華やかだろ? だからどこの貴族の庭にも植わってるんだけどよ。あの子が手入れしはじめてから、ここの庭の薔薇は他とは違うって話に上るくらいだった。だから今でも、その美しさを保てるようにって庭師が頑張ってる」

「なるほど……」

「お嬢さんの叔父上は仕事熱心な人間を評価するし、成果に対して正当な評価を下すからな。まあ……なんつーか、その子の頑張った証がこの家の薔薇みたいなもんで、努力の結晶を無下にすることはしないんだよ、あいつは。しかめっ面して花見るやつもいねえしな。目も優しくなるだろ。無表情なのは仕方ねえとしても」


 本当はそれだけじゃねえんだけど、とは口に出さなかったミシェルに「想いの詰まった花なのでしょうね」とニルチェニアは優しい顔をしながら花のない薔薇を窓越しに見つめた。その横顔がひどく美しく、また儚いものだったことを、ミシェルは忘れることはなかった。冒しがたく神聖で、消えてしまいそうな横顔だった。


「……私ね、叔父さまにひとつ、意地悪をしたの」

「意地悪?」

「ええ。……ねえミシェルさん、ひとつお願いを聞いてもらってもいいかしら」

「どうぞ? 可愛らしいお嬢様の願いならなんなりと」


 気取ったふりをしたミシェルに「うれしい」とニルチェニアは微笑んで、「もし」と口にした。


「もし、叔父さまが【ニルチェニアの謎かけがわからない】とミシェルさんに言うようなことがあったら。……あるいは、ずっと未来、叔父さまがひどく落ち込むようなことがあったら。 それから……もし、次の春が来る前に私が終わってしまったのならば。叔父様にこう伝えてはもらえませんか。【叔父様はきっと恋をしていたの】と」

「お嬢さん」

「もちろん、一番最後のは本当に【もしもの話】ですよ? ……わたしも、そうはなりたくないから」


 ね、とニルチェニアは小さく微笑む。その微笑みが強ばっていたことに、ミシェルは気付かない。



 



***



「ねえ、ミシェルさん」

「なーに、ニルチェちゃん」


 小さな寝台に横たわりながら、小さな令嬢が華奢な手のひらを伸ばしてくる。その手のひらにそっと触れて、「相変わらず冷たいなあ」とミシェルは小さく笑った。冬だもの、と少女はぎこちなく微笑みを浮かべる。痩けた頬には微笑むことも難しかったのかもしれない。小さな手のひらは痩せ細っていた。骨と皮と、それから血管があるかないかというような、細い手だった。前に見たときよりも、ずいぶんと死の匂いが近づいている。


「わたし、きっと春までもたないんでしょう」

「やーだなあ、ニルチェちゃん」


 何言ってんの、とミシェルは痩せた手をそっと撫でた。少しでも自分の体温が移ればいいと思いながら。


「……春どころか夏だって、秋だって。その次の春だっていけちゃうぜ? あ、海が見たいって前に言ってたろ、お嬢さん? 夏になったらあんな鬼みてえな叔父の言うことなんざほっといて、俺が外に連れ出してやるよ」

「ええ」


 寝台の少女はくすくすと笑って、けれど途中でぽろりと涙を流した。どこか痛むのか、と顔色を変えたミシェルに、ちがうの、と少女は首をふってから、困ったように「やっぱりいたい」と小さく呟いた。


「ソルセリル呼んでくるか」

「……ちがうの。そうではなくて。体は痛くないの。ただ、心が、胸の奥が、とてもいたい」


 わかるの、とかさついた唇が小さく動く。つやつやとした桜色だった唇は、今や土気色だ。だんだんと死人の顔色に近づいていくのを、ミシェルはひどく恐ろしく思っていた。儚く美しかった令嬢が、いまは儚いだけの存在になっている。風前の灯、そんな言葉が頭をよぎった。


「……悔しくて、つらい。わかるの。私、本当にもう長くないことを。眠るのが怖い。もう、朝陽を見ることもないんじゃないかって。そう思ってしまうから。ねえ、ミシェルさん」

「……なーに」


 ぽろぽろと涙は落ちて、ブランケットに水滴が転がる。その涙をぬぐうこともできずに、弱々しく握られた自分の手を、ミシェルは俯いて見つめることしかできなかった。小さな少女の泣き顔は、今のミシェルには見られなかった。正面から向き合うには、あまりにも痛々しかったから。


「しにたくない……。死にたくないの。わたしね、もっと色々なものを見たかった。お兄様と、叔父様と、手を繋いで歩きたかった。お屋敷の外に出られなくても構わないの。ただ、お庭だけでも、咲いている花の間を歩くだけでも……よかったの。生きている花を、日の暖かさを感じながら見たかった」

「……うん」

「かなしい」


 冬は冷たくて、花も咲かない。日の暖かさを知る前に、雪の冷たさが身に染みる。

 ミシェルは顔をあげられなかった。少女の顔を見ることができなかった。慰めすらも口にするのは憚られた。死に逝く少女を目の前に、不死の男がどう慰めを口にできるというのか。


 やりたいことも、やりのこしたことも、きっとたくさんあったのだろう。生まれてから、寝台の上で一生のほとんどを過ごした少女を、ミシェルは憐れまずにはいられなかった。


 何が楽しかったのだろう。何が嬉しかったのだろう。


 世界を旅してまわるミシェルには、この部屋はあまりにも小さい。けれど、この少女にとってはこの部屋こそが世界のすべてだったのだ。少女もここが小さいと知っていながら、それでも世界を広げることは許されなかった。

 小さな少女の世界は、いつだってこの部屋のなかで完結してしまっていたのだ。あまりにも小さく、あまりにも狭く、あまりにも哀しい世界だ。外に出たくとも、彼女にはそれが許されていなかった。日の光は暖かさを感じる前にその身を焼き、それでも彼女は外の世界に思いを寄せる。恋い焦がれるように。そうして恋い焦がれても、彼女にとって太陽は生きる力を与えるものではない。その光は彼女から生きる力を奪うのだ。


「ミシェルさんは……お聞きになったかしら。この前……春だったわ。どうしても我慢できずに外に出たのです。花を見たかったの。白い薔薇を。ここの窓から見える薔薇がとても美しくて、近くで見たらもっと綺麗だろう、そう思ったの」

「聞いたよ。……あいつ(ソルセリル)がすげえ心配してた。ルティカルも。普段はそんなことしないのにって」

「ええ。とても迷惑をかけてしまった。お兄様にも、叔父様にも……叔父様に、とても心配をかけてしまった。でも、そこまでしたのに、私」


 近くで見られなかった、とニルチェニアは小さく呟いた。ミシェルは相槌も打てなかった。


 あのとき、ニルチェニアは庭の手前で倒れていたとミシェルはソルセリルから聞いていた。姪への心配を多分に含んだ愚痴じみたものを、耳にタコができるほど聞かされたのを覚えている。話を終えるとき、ソルセリルがぽつりと「気付いてしまったのでしょうか」と口にしたのも、よく覚えていた。


 何に気づいたのか、あのときは薄ぼんやりとしか想像できなかったが、今のニルチェニアを見ればソルセリルのあのつぶやきがどういう意味であったのかもはっきりと理解できていた。ニルチェニアは、自分の命が花より短いことを、きっと知っていたのだ。だから、無理をおしてまで外に出た。【次の春】がないことを知っていたから。


「ごめんなさい、ミシェルさん」


 ぽとぽとと、ニルチェニアの手を緩く握るミシェルの手のひらに涙の滴が落ちる。やはり、顔を上げることはできなかった。


「わた、わたしね、わたし……っ、貴方が妬ましいの。ミシェルさんが悪くないのはわかっているんです。でも、ずっと、ずーっと。私がいなくなってしまっても、私が見たかった花を近くで、苦しい思いもせずに、望むだけ見られる貴方がねたましいの……!」


 恨んでくれて構わない、とはミシェルには言えなかった。それはとても無責任で、慰めにもならないのを知っていたからだ。最初で最期のわがまますら叶えられなかった少女にかける言葉を、ミシェルはしらなかった。


「……お嬢さんは悪くないよ。謝る必要もない」


 そう言うのが精一杯だった。







 



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