エンデュミオンの花束
ソルセリルはただ、小さな墓石をじっと見つめていた。そこに刻まれた文字を、石にうたがれた溝を、丁寧に指先でなぞる。つるつるとした感触も、冷たい温度も、酷く素っ気なかった。
「結局、君の名前も聞くことは叶わなかった」
墓石に刻まれた名前は、ソルセリルには馴染みのないものだ。あの庭師の名前が、そういうものだと今の今まで知ることはなかった。ソルセリルはいつも、彼女の後ろ姿を自室から眺め見て、彼女はソルセリルの視線に気づけば、微笑んだあとに頭を深々と下げる。それを繰り返すだけの関係だった。それなのに惹かれていた。何故だろう、とソルセリルは抱えてきた薔薇の花束を墓石に添える。
白い薔薇は今朝がた、一人で切って持ってきたものだ。薔薇を切るのは初めてで、素手で扱えばトゲが刺さるものだと初めて知った。ぷつりと切れた自分の指先から血がひとしずく、白い花びらに落ちたのが酷く不愉快だった。綺麗な花を穢したようで。
「君の声も知らない」
美しい薔薇だと、草花に無関心だったソルセリルでもそう思った。雨の日も、風の強い日も、彼女はいつでも庭にいた。病にふせっていても、それでも庭に出ようとした。私があの庭を守るのだ、と。そういう風に聞いている。本当かどうかは知らないが、花を見る限りきっとそれは本当だろう。
白い薔薇はまるで微笑んだときに見える彼女の八重歯のようで、可憐なのに愛嬌があった。不思議なものだと思う。世界一薔薇が似合って、世界一薔薇が似合わない少女だった。
「君は薔薇を育てているのが本当に、よく似合っていた。綺麗な薔薇です」
墓石に添えた豪奢な白薔薇は、やっぱり小さな墓には不釣り合いだ。本人も飾り気はなかったから、きっと薔薇は似合わなかったろう。けれど、薔薇が似合わなくても。
「……僕は、貴女を尊敬している。これからも」
きっとこれは尊敬なのだろう、とソルセリルは自分を納得させた。尊敬するべき人間がいなくなってしまったから、心にぽっかりと穴が開いたのだと。ソルセリルにはなにかを育てた経験はないし、育てることがどれだけ大変なことかもわからない。だから、彼女が何を成し遂げていったのか、明確にはわからない。けれど、それは決してちっぽけなものではなかったはずだ。なにか大きくて素晴らしいものだったからこそ、あの薔薇を美しく思えた自分がいるのだと、ソルセリルは痛感している。
「どうしてここまで惹かれたのか、僕自身にもわからない」
こっそり参列した葬儀。そっと触れた棺の中の手のひら。
軍手に隠されていた手のひらはまめだらけで、ささくれだらけで、女性らしいとは言えなかった。けれど、美しく、尊い手だった。なにかを育てる手のひらがこんなに美しいことを、青年は初めて知った。
「……僕も、いつか貴女のようになれたなら」
その時は、とソルセリルは自分の手のひらを見る。
マメ一つない、綺麗な手のひらだった。
***
「お前が医者ァ?」
寝ぼけてんのかとミシェルは盛大に顔を歪めた。当主はどうしたよ当主は――と呆れた顔の青年に、ソルセリルは「当主もしますよ」と返す。残念ながら責任ある立場となってしまいましたから、と続けて、何がおかしいんですかと未だに顔を取り繕えていないミシェルに冷たい視線をくれてやった。
「医者ってお前は……。医者って人を治す仕事だぞ。わかってんのか? メス持って切り刻みゃあ良いってもんじゃねえんだぞ。切ったら繋いで治すんだぞ?」
「君は僕をなんだと思ってるんだ」
「好奇心のためなら何しても良いと思ってるガキ」
「モラルは守りますよ」
「表向きはな?」
最近やたら解剖学だの薬学だのをかじっているかと思えば、と難しい顔をしたミシェルは「仕事として引き受けたら、嫌なやつでも面倒見なきゃならねえんだぞ」と無表情の青年を見据える。わかってんのか、と念押しも忘れない。
「そういう場合は引き受けませんから」
「やっぱ医者になるのもう少し考えろ」
なんかよくわかんねえけど絶望的に向いてねえのはわかるぞ。考え直せ。というかやめろ。――とミシェルは珍しく真面目な顔で言い重ねた。ソルセリルは「それはおいておくとしても」と話を切り替える。置くな、とミシェルは呆れた顔をした。
「……よくよく考えてみたのですよ、これでも」
「まァ……お前が考えなしに動くとは思わないけどよ……? なんで医者なんだ? 面と向かって言うのもあれだけど、お前は人を助けるタイプじゃねえだろ」
「ええ。それは僕もよくわかっています。……ですが」
珍しく言い淀み、ソルセリルは「僕には育てることの方が難しく思えるので」とだけミシェルに告げた。
なんのことだよ、とはミシェルも問わない。ソルセリル本人からその理由を聞くことはなかったし、ミシェルも聞こうとはしなかったが――件の庭師の娘が亡くなったあと、何となくソルセリルの雰囲気が変わったのを感じ取っていたからだ。良いものか悪いものかと聞かれれば、それは良い変化だとミシェルは答えただろう。
「君は馬鹿馬鹿しいと笑いますか? ……僕が、誰かを助けたいと……何かを産み出し、育てる者を助けたいといったなら。あるいはまっすぐに前を向く者が……倒れそうなときに、手を差しのべたいと言ったら。そのために医学を学び、発展させたいと言ったら」
「笑うわけねえだろ。そりゃお前、立派だわ。立派」
それなら医者になるのも問題ねえよとあっさりと手のひらを返したミシェルに、「手のひらを返すのが早すぎやしませんか」と無表情のままでソルセリルは口にした。
「だってお前、嘘つかねえだろ。つけねえだろ。他のところはくそ生意気でいけすかねえガキだと思ってるけど。俺はお前のそういうところは立派だと思ってんだよ」
「……そうですか」
「たださ、自分で出来ることの範囲を決めるのは大間違いだよ。お前にだって育てられるものがあるぜ」
「はあ」
「立派な医者になったら弟子でもとれよ。きっと最高に優秀で最高にクレイジーな弟子が育つと思うね」
きっとお前にとって忘れられない出来事になるだろうさ、とミシェルはケラケラと笑う。
「誰かを助けるのってな、場合によっては【生む】ことより、【育てる】ことより難しかったりするんだぜ。……お前なら出来る。つーか、やれ」
「言われなくてもやりますけど」
やるなといったりやれといったり、うるさいですねとソルセリルは腕を組んでこれ見よがしにため息をつく。組んだ腕、絹手袋の下には参考書で切った手のひらがあることをミシェルは知らない。その爪には、インクの染みが少し残っているのも。
***
ガツ、と嫌な音がしたのを認識していながら、ミシェルはそれが何の音なのか、誰が出した音なのか、一瞬わからなかった。
青年がつけている絹手袋が、じわりと赤く染まっていく。
「助けられませんでした」
何故だ、と地を這うような、血を吐くような低い声とともにソルセリルがもう一度壁を殴り付けた。既に破れてしまったらしい皮膚にも気を留めずに殴ったから、壁にうっすらと血がついている。やめろよ、とは言えなかった。
「僕はっ。……僕は、僕は……何のために」
どうして、と聞いたこともないほど弱々しい声が青年の唇から漏れる。
「ニルチェニアは。あの子は。……あの子はまだ、やりたいことがあったはずなんです……」
「ソルセリル」
「あの子の世界を広げてやりたかった。あの子が見る世界を、広げてやりたかった。あんなに小さな部屋のなかに、閉じ込めておきたくなどなかった……」
僕は何のために学び、何のために為してきたのか。すべて無駄だったじゃないかと呪詛を吐くように、銀髪の青年は何度もそう口にした。
「あの子は。あの子は笑って逝ったんですよ、ミシェル。……何一つ為せなかった僕に。ありがとうと微笑んで……。こんなに情けないことがありますか。逝く子にまで気を遣わせて! 嘘をつかせて! 結局僕は口先だけだった。あの日、誰かを助けたいと思った気持ちも、きっと口先だけだった!」
「お前は口先だけで動ける人間じゃねえだろ。……それに、ニルチェニアは嘘をつく子じゃない」
「……ですが、酷く優しい子です」
僕のためにつく嘘なんて、なんの価値もない。馬鹿なことを、と吐き捨ててソルセリルはもう一度壁を殴る。
「……ニルチェニアはさあ、お前に気遣いもしてねえし、ありがとうって言ったんなら、本当に嬉しかったんだと思うぜ」
「……君までそんな慰めを口にしますか?」
「残念だけど男を慰める趣味はねえんだよ」
冬にうっかりと咲いてしまった季節外れの菫が、雪に埋もれて枯れるように――ニルチェニアは春を待たずに永久の眠りについた。最期まで微笑んで、最期まで優しい言葉で周りを気遣う子だったと、屋敷にいた人間は皆そう口にした。
でもそれは、ニルチェニアの一部分しか目にしていない者の言葉だ。
「ニルチェニアの過ごした一生を、お前が否定してどうするんだよ。あの子の最期の言葉を、どうして……お前が否定するんだよ」
「あの子は。……あの子は、僕がいなければもっと自由に生きられたはずだ。……今よりずっと早く死んでしまったかもしれないけれど。それでも。……それでも、僕が……」
「そうだな。お前があの子を管理しなかったら、確かに自由に生きられただろうよ。好き勝手に庭に出て、好きなもん食ってきっとさっさと死んだろうよ」
「ミシェル」
「事実だ。お前がどう介入しようと、あの子は結局若くして死ぬ。……それでも出来うる限りあの子の命をのばしたのがお前の功績であって、だからニルチェニアは感謝を口にしたんだよ。そんなこともわかんねえのかよ」
「あの子に感謝されるようなことなど、僕は何一つしていない。したくとも出来なかった!」
「何から逃げてんだよ、ソルセリル。お前はお前のできる範囲での最善を尽くしたし、あの子はそれに感謝してたぞ。結果だけ見たら最悪だったからって、それまでの過程から目でも背けてんのか? 人に遠くまで菓子を買いに行かせたくせに。ニルチェニアは喜んでた。それまで否定すんのか」
お前はいつもそうだよ、とミシェルはソルセリルの頬を張った。ほんの少しだけ残っていた気品をかなぐり捨てて、チンピラ顔負けの乱暴さで言葉をぶつけた。
「てめえの都合で死んだ人間を不幸にするんじゃねえ。あの子は少なくとも、お前の前では幸福だったんだよ。お前の前では幸福であることを望んだんだよ。だったらてめえがそれを受け入れんのが、お前が最後に出来ることだろ」
「最後にできることが、それですか」
「それしか出来ねえんだよ。お前にしか出来ねえんだよ」
他の誰にも出来ないことだろ、とミシェルは深く息をつく。
「……こんなこと言うのもどうかと思うけどな。……冬に近づくにつれて、ニルチェニアはお前に会いたがらなくなってただろ。診察の時間だって言ってもなかなか部屋に入れようとしなかったりさ」
「……酷い時には君も巻き込んで、僕を部屋に入れさせなかったりしましたね」
「ああー……うん、まあ、それは申し訳ない」
「僕はあの子に嫌われていたんでしょう。散々、生活面を管理して自由を奪った上に、助けられないからと、ただ死を受け入れさせるように部屋に寝かせていたなら、あの子がそう思っても仕方はありません。会いたくないのなんて当たり前だ」
「違う。お前に感謝してたから会いたがらなかったんだよ」
見せたくなかったんだそうだ、とミシェルは躊躇うように口にした。見せたくなかったとは、とソルセリルは聞き返す。
「ホントはこれ、言うなって言われてたけど。お前を部屋に入れたがらなかったのは、別にお前が嫌いだったわけじゃなくて。……ぼろぼろに枯れていくような自分を、お前に見せたくなかったからなんだよ」
***
「……ニルチェちゃん、もうそろそろ開けてやれよ。あいつその内この扉ぶっ壊すぞ。さっきルティカル呼んできたみたいだし」
ルティカルに本気で蹴られたらこんな扉ぶっ飛ぶだろうなあ、とミシェルは目の前の扉を見つめた。美しい木目、繊細な掘り模様の入った扉は、現在部屋の外側から執拗に叩かれている。早く開けろという圧力を、部屋のなかにいる二人はいやというほど感じ取っていた。
「……お兄様ならいれても良いです。でも、叔父さまはだめ」
寝台に横たわった少女が、叩かれ続ける扉を見つめながらそう口にする。ソルセリルが診察にやってきたのを知っていながら、ニルチェニアは部屋の鍵を、扉をあけようとはしなかった。そこにいるんでしょう、開けなさいとソルセリルの声が外からかすかに聞こえる。俺宛の言葉だろうなあ、とミシェルはため息をついた。扉を開けても開けなくても、どちらかには責められるわけだ。
「……ごめんなさい、ミシェルさん」
「いいよ。君に落胆されるくらいならあいつに小言もらった方がずっと良い」
「……叔父さまにね、……こんな姿、見られたくなくて」
いかにもな病人でしょう、とニルチェニアは強ばった微笑みを浮かべた。こけた頬も、痩せたからだも、色の悪い肌も。すべてが彼女に悲壮さを与えている。艶々としていた髪も、今は。
「叔父さまの前では、幸せそうな女の子でいたいんです。病にふせった貧相な姿でいたくないの。……きっと、叔父さまは自分を責めるから」
「……俺は診てもらった方が良いと思うんだけどなあ」
「一昨日診てもらったもの。……それに、もう意味もないでしょうから」
近いうち死んでしまうのだと思います、とニルチェニアはあっさりと口にした。明日は雨が降りますね、とでも話すような調子で。ミシェルはそれになにも返せなかった。返した言葉すべてが空回りしそうで。
「わたしね、ミシェルさんにいっぱい意地悪を……酷いことをたくさん言いました」
「この前の? 俺は気にしていないよ」
「……ミシェルさんは優しい」
「お嬢さんにはね」
誰だってそう思うさ、とミシェルはそれだけをやっと口にすることができた。どれ程言葉を選んでも、きっとそれはただの上滑りしたものになるだろうから。
「ごめんなさい。……全部、全部八つ当たりなの。本当はわたし、ミシェルさんにも笑っていたかった。あんなに酷いことを言わずに、あなたの前でも笑っていたかった」
「誰に対しても笑いかけてたら、そりゃお嬢さんでも八つ当たりしたくなるよ。疲れたんだろ。いいよ。……お嬢さんが望む【お嬢さん】でいられるなら、俺に何言ったって構わないさ。元々そのつもりでここにいる」
「ほんとうに優しいひと」
「俺にできるのはそれくらいだからなあ」
俺はソルセリルみたいに医学の心得がある訳じゃないし、とミシェルは肩をすくめて、横たわるニルチェニアに歩み寄る。
「……ぼろぼろに枯れていくようなわたしを、叔父さまにはみせたくないの。出来れば、いつでも綺麗な……お庭の薔薇のようにいたいの。最期、だから」
「うん」
「叔父さまには全部内緒にしてくれますか……? わたしがこんなことを思っていたことも、こうやって子供じみたことをした理由も。……わたしがいなくなってから、叔父さまが気に病むことがないように。叔父さまのなかでは、ずっと幸せな女の子でいられるように」
「それが君の望み?」
ニルチェニアは小さく頷いた。わかった、とミシェルも頷く。絡めた小指を小さくふった。約束の印はひどく弱々しく、けれど小さな指はしっかりとミシェルの小指にからめられている。
「嘘でも冗談でもなくて、わたしは本当に幸せな女の子だったの。……だから、だからちょっとだけ長居してしまいたくなったのです」
「……伝えておこうか」
「幸せな女の子だった、とだけ」
あとはいいの、とニルチェニアは朗らかに笑う。咲き始めた菫の、花びらがほころぶ様を思い起こさせる笑みで。
***
「……だからお前には何があってもあの子の生涯を不幸なものだと思ってもらいたくないんだよ。他の誰がそう思っても構わねえ。でも、お前だけはそれをしないでほしい」
ニルチェニアが自分に吐き出した苦悩も、ソルセリルに向けた気遣いもすべて隠して、ミシェルはニルチェニアの望んだように、幸せな女の子だったのだとソルセリルに伝える。破った約束はひとつだけだ。枯れていくような姿を見られたくないと、彼女が口にしたことだけだ。
「そう……だったんですか」
「お前は認めたがらないし、なかなか聞こうともしねえけど。ニルチェニアはお前に感謝してたよ。だからそんなお前に、自分の貧相な姿なんて見せたくなかったんだろうよ」
「だったら、そう言ってくれれば」
よかったのに、とぽつりと呟いたソルセリルに、ミシェルは「年頃の女の子がそんなこと言えるわけねえだろうが」と呆れを口にした。
「僕はあの子が枯れていくようだ、などとは思ったこともないのに。……日に日に弱っていくのはわかっていましたが、それでもあの子は、僕にとってはあの薔薇みたいに見えていたのに」
「……そう思ってたんなら、ニルチェニアも喜ぶよ」
***
「……これって僕のおば様のお墓……ですよね? ええと、ニルチェニア様……でしたっけ」
「ええ」
菫の花に囲まれた墓石を見つめながら、当主になったばかりの青年は首をこてんとかしげた。自分の父親の墓の隣、多少の年月を感じる墓に、やたらと菫が植えられているのが気になったからだ。咲いている様子を見る限り、風に乗ってきた種がたまたま芽吹いた、というわけでもなさそうで。まるで墓全体が菫の花束を模しているような、そんな状況だったものだから。春の風に揺れる菫は、どこか懐かしい雰囲気がある。隣に並ぶ大叔父が、その墓を見ながら何となく優しい雰囲気になったのも感じ取っていた。
「ソルセリル様は花がお好きなんですね」
「おや。そう思いますか」
「はい。叔父様の屋敷、白薔薇が有名ですけど。……でもほら、普通なら引っこ抜いちゃう菫とかもそのまま育ててるじゃないですか。花がお好きなのかなーと」
「嫌いではありませんね。……見ていると、優しい気持ちになるでしょう」
まあ、なんとなく……と曖昧にうなずいた又甥に「良さがわかるまではまだまだ、ですかね」とソルセリルは口許にほんのりと笑みを浮かべた。
「ニルチェニア様は菫がお好きだったんですか?」
見事に菫ばかりですけど、とまたも首をかしげた青年に、ソルセリルはゆっくりと口にした。
「白い薔薇の傍らには、菫を咲かせたくなるのですよ」




