Epilogue
その日は晴天だった。
がらんがらんと音の鳴る扉を押して俺は店をでた。一仕事終えた俺を、窓からおじさんとおばさんが笑顔で手を振ってくれている。
街のはずれにあるその店は学校からはちょっと離れていて、俺が前に住んでいたアパートはもっともっと遠い。毎週通うにはちょっと難がある。
途中、大きな坂道が正面に現れた。その先には、燦然と輝く海のきらめきが見える。
住宅街の中に入って目の前にそびえる教会を越える。明日は日曜日だから、気まぐれで寄ってみるのもいいかもしれない。
ああ、そうだった。忘れちゃいけないよな。
俺は用事を思いだして進路方向を変える。道中、花屋に寄って優しそうなお姉さんにそれなりの額でそれなりの花を用意してもらった。
向かった先は石碑のようなものがたくさん建てられている場所。
墓参りだ。俺は花を添えて佐伯凌真の墓前で手を合わせた。佐伯家の墓に凌真の名前と年齢が刻まれている。他の人が見て一番に気になるのは、竹刀が置いてあるところだろう。家族が、凌真にもっともふさわしいものをと配慮した結果だ。
俺はその場を後にした。
いつもの街並みに戻り、陽気な日差しを肌で受け止める。
待ち合わせの時間に遅れるとまずいので、俺は足早に駆ける。何せ『あいつ』は、ちょっと放っておくと女の武器を使ってくるからな……どこぞの馬鹿の影響で変わってしまったもんだ。
太陽の刺激が厳しいので、俺はハンカチをだして額を拭った。その布にはイニシャルが刺繍されている。俺の昔っからの愛用品だ。
近くでは新築の建設工事をしていて、トンテンカンとうるさい音が響いてくる。
良いことがあったと同時に、少し残念なことがあった。
ミルフォード家の事件が終わって、もう一ヶ月という時間が経っていた。
世は全てこともなし。あれだけ目まぐるしく変わった俺の日常も、世間一般という視点で見れば夢の中で起きた些細な出来事のよう。
だが、間違いなく俺の周囲には変化があった。それを順番に思い返す。
あの後、港の倉庫区で佐伯凌真は遺体となって発見された。その時間、人を見かけなかったこと。人に恨みを買う人間ではなかったこと。凌真が懐に忍ばせていたナイフから彼の血痕がでたこともあって、警察は自殺の方向性で話を進めた。
しかし、凌真の寝姿はとても晴れやかだったと発見者は語っている。
それからしばらく教室の机に置いてあった花瓶は、俺が志願して取り替えていた。
だけど、小乃実の方は……。
魔剣で歴史を改ざんしていた小乃実は、再婚相手になる母の記憶には存在していなかった。父も同じく、学校の友人や知り合いも、全員が知らないという。小乃実が運命を覗いて将来再婚が決定していた母を娘として認識させていたんじゃないかと、俺は推測した。
それによって、俺はアパートに一人暮らしをしている設定になっていた。もう……『小夜実』という三年間実在していた彼女を知っているのは、俺と……。
「悪い、遅くなったな」
「…………ううん、今きたとこ」
俺はバス停で待っていた少女に声をかけた。銀色の髪が特徴的で、夏には涼しそうな蒼い瞳と、とんがった唇。明らかに眉根を寄せている。言葉とは裏腹に瞳が懐疑を訴えていた。
あの頃からよく着ているカットソーにフレアスカートと白黒のパンダソックス。クォーターにしては珍しいほど日本人っぽくない彼女は、かつて存在していた幽霊少女の記憶を蘇らせる。
「え、ええっと、やっぱり怒ってますよね?」
「……怒ってない。実をいうとここにきて零時間六分三十五秒経過してるけど、きたばかりだから」
彼女──月森唯は視線を合わせてくれない。
バスがやってくる。列を順番に並んで券を取り、気まずいまま二人用スペースの座席に腰かける。
窓に映る景色を眺めている唯に、どきまぎしつつも声をかける。
「零時間六分三十秒」
「えっ……?」
「……遅れた時間。光が遅刻した分だけ自由をもらうことにした」
そう口にして、少女は暇をしていた左手を俺の手にそっと添えた。ぺたりと触れる、いつもの少しだけひんやりした唯の指先が気持ちよかった。
くどいようだが、外堀を埋められていくというのは、きっとこういうものなんだろう。だけど、それはそれでいいかなと最近思うようになってきた。人生、譲歩がないとつまらない。ありすぎるのも困りものだが。
バスを降りて、人通りの多い道を歩く。
目的地は分からない。というよりも知らされていない。とりあえず一度、何回か唯もきたことのある俺の実家に寄ってお茶を濁して、それから買い物にでも行こう、という段取りだ。
礼儀作法の良い唯は、俺の両親から気に入られていた。まだ高校生なのによくできたお嬢さんだ、お前も少しは見習えと父親に文句を言われた。俺の母親に関しては、まさに絵に描いたような良妻のようで、唯と二人きりで買い物にでかけるほどだ。
そうだ。ここで報告したいことがある。これはさっきと違う良い知らせの方だ。
まず、唯は両親と仲直りした。現在は親子水入らずで幸せな家族関係を結んでいるらしい。実家は県外のようで、時間さえあれば俺を紹介したいと唯がいっていた。
次に俺の想像した通り、唯はあれからすぐに学校で友達ができた。周囲のクラスメイトとも上手くいっているらしい。しかし同時に悪い虫が寄ってくるのも道理で、態度を百八十度変えた男子生徒から声をかけられるそうな。
クラスが違うのもあってか、学校で唯と話す機会はほとんどない。話そうと思えば話せるが、楽しそうな学校生活を送る唯に、他人からしてみれば全く無関係の俺がしゃしゃりでていくのも不自然。
ただ……どうしてかな、唯がチャラそうな男と話してるのを見るとイラッとするのは。
それを表にだしていいものかどうか悩むが、唯はどう考えているんだろうか。
別に俺と唯は、彼氏彼女の仲じゃない。何せ正式に約束したわけじゃないのだから、一度だけキスをしたことのあるだけの少しだけ縁の強い友達ってくらいだろう。一度だけ好きっていわれたことのあるだけの関係だけど、多分ただの友達関係だろう。
……って俺としては思ってるんだけど、どうか。
ああ、そうそう。これと近い内容なんだが、唯を抱えてこっそりと帰宅したあの日、部屋に戻ろうとした途中で、近隣住民の方に裸ワイシャツ姿の唯を抱えている瞬間を見られてしまった。
若いから気持ちは分かるけど、あまり迷惑のかからないようにね……といわれた。しかも注意をするのは二度目らしい。一度目は多分、あの朝のことだろうなぁ……。
アパートのところまで話をしたところで、今の俺達の近況を伝えたいと思う。
これが良い知らせのふたつめ。唯の住むアパートに二人暮らしをしているのは置いといて、問題はその理由なんだよ。これがもうすげぇ嬉しいのなんのって……。
初めて唯を実家に招いた日。俺が自分のアパートから実家に戻ろうと思った日だ。
母親の口からこんな言葉がでてきた。私にも貴女のような可愛い娘がいたような気がする、と。
父親もそれに賛同した。そして、せっかくだから二人で生活してみたらどうだい、と進言してくれたのだ。あそこならバイト先も近いし、俺にとって願ってもない好条件だった。
「……明日は、北の方だと七夕だね」
「そうらしいなぁ。こっちの七夕は忙しくて気づいたら終わってたし」
唯がポシェットの縁を指でいじりながら聞いてくる。
そうだ。このポシェットは俺がバイトの給料で新しいのを買った。俺が海に投げ捨てちゃったからね、しょうがないね。俺はたいして意識してなかったが、唯にポシェットを渡したとき、呆けた顔で小一時間ぐらいねっとりとしたまなざしで鞄を見つめていた。そんなに嬉しかったんだろうか。
それからは、ずっとお気に入りらしい。出かけるときは常に肌身離さず。今日も唯の両胸の間を勢いよくスラッシュしている。
「……触りたいのなら、素直に言うべき」
「おいおい……お前は本当、フランに似てきたよな……」
俺は冗談混じりにいったものの、やっぱり唯にいわれると恥ずかしい。
彼女がどこまで本気なのか分からない。唯が何故か、胸の大きさを確認するように、自分の手のひらをあてている。いや、その……男性目線ですけど、そこそこあると思いますよ?
っていったら怒られるんだろうな。
「……そこそこあると思いますか?」
「…………」
胸に手をあてたまま、上目遣いで尋ねてきた。
どうして直球で聞いてくるかなぁ。唯もフランの置いてった雑誌とか読んでよく分からない知識を吸収したりしてるし、たまにフランが乗り移ってるんじゃないかとさえ思う。
「光は……その」
「ん?」
唯がどことなく伏し目がちな表情で口を開く。
「……フラン……(の方が)……好きだったんですか?」
「えっ? う~ん」
途中の言葉が聞こえなかったが、伝えたいことは理解できた。
時間とともに記憶は薄れるって聞くけど、多分あんなインパクトのある奴の記憶は消えないで残ってるんだろうなぁ。あの馬鹿は元気にしてるだろうか……いや、何もいうまい。
「好き、だったよ」
「…………」
「悪友としてだけどな」
「……悪友」
俺と唯は市内の少し入り組んだところを歩く。
やや新築そうなマンションが連なっている場所。俺の自宅はもうすぐ近くだ。
そうだ、すっかり忘れていた。今回、一番の被害をこうむったのは教会だ。そりゃあそうだろう。
向こうからしてみれば、礼拝にきてみたら棺おけは転がってるわ地面に穴は開いてるわ、おまけに地下ができてて、その中に謎の魔方陣とDNA鑑定不明の血液がびっちり。補修や評判も色々と大変だろう。
それもあってか、俺はずっと気になっていた唯の『出所不明の金』を教会に寄付した。唯の部屋を漁ってみると、そこには東京タワーの電気代一年分ほどのお金があった。それをポン、とくれてやったのだ。唯も特に気にしていない。
教会へ立ち寄ったら、神父様の顔ツヤが五割り増しになっていた。あの様子では、さぞかし仕事にも熱が入るというものだろう。
俺の言葉を聞いて、唯は安堵していた。
と思えば、少し頬をふくらませた唯がポシェットから紙とハサミのようなものを取りだす。どこから入手したのか、それは改札のときに使うアレだ。
パチンッと一発。複数回綴りになっている券が一枚処理された。
「光、抱き枕券使いましたから。光が悪いんだから。ちゃんと私の寝る十時には布団で待機しておいてくださいっ」
「ええっ、まじかよっ……見たいテレビがあったのに……」
唯は都合が悪くなるとすぐに『抱き枕券』を使う。聖剣がなくなったから、代用品がないと落ち着かないらしい。この時だけは、普段こっそりと床で睡眠に耽る俺も身動きできない。
ただ、抱き枕がなくても健やかに眠っているので、もしかしたら抱き枕は必要ないんじゃないかと勘繰っている。真偽のほどを知っているのは、本人と俺の母親、それに多分フランだけだろう。
ちょっと待ってと口にして、銀の髪をなびかせる少女は郵便局にある赤いポストまで小走りして、大量の封筒を投函した。中身はたいしたもんじゃない。お金のほとんどを失ったので俺も唯も何かしらのバイトをしたり、今のような懸賞を送って余暇を楽しんでいるだけだ。
もっとも、現在は自分から仕送りしたいと懇願する両家の父親が、生活に困らないだけのお金を送ってくれている。溺愛するのも、それはそれで親の愛かなと思ってみたり。
封筒を見ていると、何だか一ヶ月前のことを思いだすなぁ。
唯がポストに願掛けをして戻ってくる。効果のほどはさておきとして。
「……当たるといいね」
「そうだな~。頑張って二百通も送ったしな。いっそ座布団でも敷いて本格的に懸賞生活でもスタートしてみるか」
「……光のえっち」
「何ゆえ!」
俺は唯を抱えて帰った翌日、自分のアパートに戻るために支度をしてる時に、学校で受け取った二枚の手紙を読み返した。結局……この手紙は二人の遺書みたいな形になってしまった。
思えば、あいつらは俺に何かを伝えたかったんだろうか。今となっては、そうとさえ思える。
そして俺は気になっていた。
まだもうひとつ、フランから宛てられた三枚目の手紙……その中身を。
「光……これ。フランの手紙」
「えっ、どうしてこれを?」
懐をまさぐって、唯は唐突に手紙を渡してきた。
間違いない。これは学校で、俺が唯に突っ返した三枚目の手紙。セピア色の紙にミルフォードの刻印が押されている。後で聞いた話だが、この古めかしい色合いはフランがそれっぽい奥ゆかしさをだしたくて、単純に火で炙っただけらしい。
「……フランが生前に、しばらくしたら開けろって言ってたから」
「ふ~ん」
俺は手紙を開封する。
小乃実から受け取った手紙には、自分が果たせなかった愛の行く末。
凌真の熱い手紙には、いつも頼りになる彼の友情が記されていた。
そうなればきっとこの手紙にも、フランなりに人生に抗った証としての何かが懇切丁寧に刻まれている。ミルフォード家の歴史に抗って助け舟を求めた俺への……。
そう考えて、開けてみたはずなのに、
『生きろ!』
……とだけ、書いてあった。
俺は笑い飛ばした。
「……ははははっ……全く。全く馬鹿のやることだよ。こういうことは、もっと自分なりに助けてくれーとか、何とかしろーとか、書くもんじゃないのかよ……。あいつだっていつも、人のばっかり考えてた癖に、全然……唯にケチなんてつけれないじゃないか」
きっと、フランは最初から信じてたんだろう。
でなけりゃあ、この内容がフラン・ミルフォードではなく、幽霊少女だったフランのものとして書かれているわけがない。あいつは信じたかったんだ。運命という歴史の中にも、人の絆が根づいていることを。
「唯……」
俺は隣で手紙を見ていた彼女に向きあった。
フランが自分自身の想いを主張したように、俺や唯に居場所をつくってくれたように、俺にだってあいつの気持ちに応える必要がある。最後の最後まであいつには明確な答えをやれなかった。
だから、俺はここであいつに伝えてやらないといけない。
「俺と……付き合ってくれ!」
遊園地で果たせなかった少女の想いが、灯火になって蘇る。
彼女がまだ俺のことを好きでいてくれてるのなら、この想いはきっと炎になって復活する。
だが、彼女は首を横に振った。
慌てるでもない、穏やかな表情で唯は言葉を返した。
「光。運命とはときに、人から大事なものをたくさん奪う。でも、いつだって大切なもの、それを支える互いの気持ちがあれば、心配ないと思うんです。急ぐ必要はない……何かをしたいと思えたときが、一番大切だと、思いますから」
俺は言葉に詰まった。
彼女は「だから……」とつけ加える。
「私は貴女の彼女にはなれません」
「そうか……いや、悪かった。相手の気持ちを考えないって、罪なことだよな」
俺は顔を伏せてフランの手紙を強く握った。
本当は好きだった。冗談めかして言ってても、俺は月森唯が……大好きだったんだ。
「……………………ん?」
ぎゅっと握った手紙に、どことなく違和感が……?
「わわわ、私じゃないからっ……!」
突然、唯が平静を装って取り乱した。白い肌が灼熱の渦を巻いている。
よくよく見れば一度封が切られている。蝋が二重になっていて、明らかに足したような後が。俺は封筒のもっと奥……妙につるつるで外側がギザギザしてて感触の四角いそれを取りだした。
「…………」
表面が透明になっていて、中に入っている丸くてゴム状で伸ばしたら何かに装着できそうな場面限定の生活必需品のお仲間さん。きっとパッケージに『極薄』とかシャーペンの芯より細い数値が表記されてあったりするんだろうな……うん。
俺は死んだ魚のような目で唯を凝視した。一瞬で自白した唯の供述によると、これは某金髪で幽霊少女の忘れ形見らしい。の、割には事情を知ってそうな顔をしてらっしゃいますね?
まぁ、この話は後でゆっくりと証言してもらうとして、もう家は目の前だ。一度、到着するってことで連絡を──。
「おっと」
「…………」
思いきや、向こうから着信が。
父親の携帯番号だ。スイッチを押して受話器を……あれ、切れた。
「何だったんだ、一体?」
「……う、うん…………」
さっきの問い詰めが聞いたのか、唯は目を逸らしている。確かに天気はいいが、そんなに空を仰いでも雲しかありませんよ?
携帯を見つめていると、また着信が……すぐに切れた。かと思えば、今度はメールだ。しかも何通も送られてくる。何がどうなっているんだ?
クラスメイトに隣のクラスの友人。俺の母親と部活の後輩と学校の先生まで……そもそも俺がアドレスを教えたことのない人物からもメールがきていた。
一通目に目を流す。件名が『おめでとう!』。何がだ。
二通目『お幸せに!』。……幸せではあるよ?
三通目が『大事にしろよ!』。その、主語はどこだよ。
四通目『学生結婚とその危険性について』。先生のメール。ごめん、何を言ってるのか分からん。
五通目いこう。『唯ちゃんを泣かさないようにね』。母上……?
「おい……」
彼女の肩にがしっと手を置いた。
「……お、おれは、唯の肩をつかんで抱き寄せた」
「ナレーションすんな! お前、何か知ってるよな、どういうことだっ!」
彼女は普段の二倍くらいに艶やかになった唇を、細やかに動かした。
ちなみに、これは俺の誇張表現でもなんでもない。何故か今日だけは気合を入れて、唇に薄いマニキュアとリップグロスでなじませた、完成度の高いツヤツヤキュートリップだ。
元々、たいして化粧に興味のなかった彼女だ。夏場では半日ほど魔術がかかっていれば保ったほうだと、つまらなさ気にいっていた。それがどうしてか、俺は唯と実家に遊びに行くだけだというのにも関わらず、このいかにも勝負しますという感じの風貌は!
その時、俺に電話がかかってきた。どうせ、親父だろうと電話にでると、確かに親父だったが、親父じゃなかった。俺は驚いて声のトーンをあげ、上辺だけの情けない敬語で応対した。
電話を切ると同時に、唯が叫びだした。
「……あ、あああっ、あのあのっ……か、彼女になるっていうのは多分、光にとって負担がかかると思うの、だからその……」
彼女はそこで口ごもった。
ただ一人の少女の迷いなき瞳が、潤いをのせて俺の瞳に吸いつく。
月森唯は霜月光にこう答えた。
「将来的に彼女になることを前提にして、結婚して欲しいです……これなら多分、貴方に負担はかけないと思うから……」
「…………」
俺と銀髪少女の隙間を、暖かいものが過ぎ去った。
それは一陣の風だった。夏の日光が当てられた生暖かい熱風。でもそれは、じっとりとしていなくほんのささやかに伝わる……夏の贈り物。
この風はきっと、どこぞの馬鹿が俺に同調して笑ったから吹いたのだろう。
そうに、違いない。
全くもって、俺は大変なものをあいつに託されてしまったようだ。彼女の残した置き土産は、どうやら俺の永遠の宝物になってしまうらしい。
こうなってしまっては、もう手をあげるしかない。
「……ったく、どうしてお前って人間は、口を開くたびに俺の心を打つのかね。それに、俺もお前もまだ結婚できる年齢には早いだろ。しょうがないや……どこまでお互いが理解しあえていけるのか、ゆっくりと見定めさせてもらおうかな。幸い、時間はたっぷりあるんだから、さ」
茹だって放心する唯は、徐々に笑顔になっていく。
そして俺に抱きついた。
「……はいっ! ひかる様っ!」
「だからさ、様はやめろって言ってるだろっ!」
暑い。ほんっっっっっとうに暑い。
俺は腕に絡んできた唯をたしなめて、手を握った。
この手に刻印はない。しかし……確かに繋がっている。
「……来週は、休日の部活練習?」
「あぁ。夏休みでも練習はあるさ。選抜だってスポンサーさえいれば大会だってある。俺は剣道をやめないよ……ここで怠けてたら負けちまうからな」
「……応援しにいく」
「ただの練習日なんだけど……? ははっ、まあいいか。それより、前に買ってきたスポーツドリンクが欲しいな。いや、その前にこのメールどもを何とかしないと……っていうかもしかしてお前さ、今日俺の実家に行くのって」
「……しらないっ」
「お、おい、待ってくれよっ!」
夏は暑い。
八月の初旬を襲う猛暑は、やがて残暑になって続いていく。
夏の海水浴も、夏の山やバーベキューだって待ち遠しい。風鈴の音も、西瓜の瑞々しさ、夜のおまつりや打ち上げ花火だって残っている。
生憎と俺には立ち止まっている暇なんてない。
失ったものは多くある。ただそれでも、失わずに済んだものは決して少なくない。
歩いていけるはずだ。
俺達の未来は、明るいのだから──。




