Episode-4-5
「ここは……」
目を開いた。正面には一直線に敷かれたレッドカーペット。入口の扉、たっぷりの横長椅子。天井の高い室内……教会の中だ。
俺は現実世界へと戻ってきていた。
状況を理解しようと逡巡を重ねる。そうだ、俺は唯を救出しにここへ来て、小夜実に……。
腕を引くと、がしん、がしん……鉄のような音がした。
「くっ、鎖か……!?」
身体が黒い十字架にはりつけにされていたのだ。左右へ伸ばされた両腕は鎖に巻かれている。釘でないのが幸運といったところか。
「やっとお目覚めですか、お兄様?」
「……ッ! 小夜実……!」
がしんがしんがしん。俺は生足をくねらせて歩いてくる小夜実を睨みつけた。小夜実はいささか上機嫌だった。足の傷は完治していて、魔剣を杖代わりにして俺を仰いでいる。
「お兄様のお寝坊さんっ。この三年間も、ずっとそうだったんですか? ああ、今朝の起床が遅かったのが何よりの理由ですよね。だって今みたいに身動きできなかったのですからね」
小夜実は澄んだ表情で見つめているが、瞳だけは笑っていなかった。
「でもこれは大サービスで許してあげます。だって、さっきのお兄様……すごくお上手でしたもの。あんなに激しくわたしを求められて。お兄様が眠っている間、あれを思い出して何度も自分で慰めてしまいましたわっ……」
特大パフェのひとくち目を放り込んだ時のような、うっとりした表情で過去を慈しんでいる。
「小夜実……俺を解放してくれ。俺は、お前と戦いたくない」
「お兄様、何を言っているのですか? お兄様はわたしと戦う必要なんてないんですよ。もうお兄様は永遠にわたしの虜……愛の束縛から抜けだせませんよ」
苦労して手に入れた愛蔵品を愛でる風に、小夜実は俺を見ている。
「やっぱり、あの時に魔剣が現れてくれたのが最高の幸せでした。きっと神様は、初めからわたしにこうする為に生まれてきて欲しかったんです。邪魔者は全てこの世から消して、世界で一番大好きなお兄様と添い遂げる。それがわたしのハッピーエンド……」
聖剣は十字架の直下、絨毯に突き刺さっていた。
しかし、足も鎖で縛られているのでどうすることもできない。このままでは、何も解決できずに小夜実の闇に包まれて終わってしまう。
俺があがくたびに鎖が震える。だが、びくともしない。
「うぐっ……あぐあああああっ!!」
今度は、左手から激痛がほとばしった。指輪の戒め。
「もうお兄様ったら。わたしを押し倒したいのは分かりますけど、もう少し紳士っぽい振る舞いをしてくださいっ。それとも我慢できないのでしたら、今度はわたしの舌戯で沈静して差しあげますよ」
魔剣を置いて、小夜実が俺に接近する。
「……フランはどこにいった」
「フラン? あぁ、あの幽霊ですか。わたしには関係ないので、そのままあの女のいる地下へと行ってもらいましたよ。もっとも、お兄様と楽しんだ後で、ゆっくり始末しますけどね」
女性になった小夜実が俺のベルトに手をかけた。かちゃかちゃと音がする。
「小夜実、俺を殺せ」
「……お兄様、急に何を言うんですか?」
俺の発言を聞いて、小夜実は怒っていた。余裕のある態度じゃなく不満げなものだ。
「わたしがお兄様を殺すわけないじゃないですか。貴方はわたしがずっと求めていた心の安らぎ。わたしの魂が探しつづけた終着駅なんですもの。たとえお兄様が天寿をまっとうしたとしても、わたしはお兄様の魂を放しません。魔剣で永遠に拘束いたします」
そう言い切って再びベルトをいじりだす。しゅるしゅるとベルトがはずされ、地面に落ちた。
「……何が、お前をそうさせるんだ?」
ワイシャツのボタンに手をかける小夜実に問う。
「お兄様は、わたしの記憶を見たんでしょう? わたしは……いえ、わたしとお兄様は不幸な子供。だから、その子供達は幸せになる権利がある。不幸な子供二人がお互いを想って結ばれ合うのは当然じゃないですか」
「……お前は、俺の妹だ」
「お兄様の知っている『小乃実』はもう存在しないんです。ここにいるのは新しい肉体を得て生まれ変わった小夜実という女性……血の繋がりなど、もう気にする必要はないんですよ」
俺は首を振った。
「お前は、俺の妹だっ……! 気が利くけど寂しがりやで、人をおだてるのが上手で、とても澄んだ笑顔をしている、俺の妹……霜月小乃実だ……! いや、小乃実だけじゃない……俺にとって、この三ヶ月間で得た小夜実という義妹……どっちも俺の大切な、妹なんだっ……!!」
指輪から放たれる電撃のような波動が身体を襲う。
小夜実は俺のワイシャツのボタンを開け終わったところで戻り、魔剣を回収していた。
「お兄様……強情なのはたくましいですけど、少しわがまま過ぎますよ。お兄様のお気持ちはよぉく分かりました。どうやら、調教が必要なようですね」
蛇のような鋭い目つきで俺を威圧する少女の姿。
魔剣が俺の鼻筋に向かって伸ばされる。
「お兄様の肉体を一度バラバラに引き裂いて、その後で記憶もろとも再構成いたします。お兄様らしい記憶だけを残して、必要のない記憶は全て消去……それで、完全におしまいです」
素振りをするように、魔剣を数回ほど空中に斬りつける。
小夜実は確実に俺を殺す気だ。
……俺と関わった人間は、死を覚悟した瞬間どんな気持ちだったのか。
悪神に取り込まれ、自ら命を絶ったフラン・ミルフォード。その英断は、きっとたくさんの人間の未来を救っただろう。
三年もの間、悪病と戦い続けた唯。彼女にとって人を信じることこそ繋げたい望みに他ならない。
他人の運命に巻き込まれ、それでも戦いつづけた凌真。彼の尊厳は守らなくちゃいけないはずだ。
「さよなら今日までのお兄様。わたしは新しいお兄様と永遠の愛を誓います」
魔剣が殺気の渦を巻いている。あれで心臓を貫かれれば一撃だろう。
運命そのものに見捨てられ、生きることを強いられている少女、俺の実の妹だった小夜実。
全員が俺と繋がっている。みんなが、誰かに望んでいるものがある。人を救うとはなんだろうか、何を救えば、救ったといえるのだろうか。
「大丈夫、痛いのは一瞬です。わたしに全てを委ねてください、お兄様……!」
救世主とは、何の為に存在するのだろうか。
救いきれなかったものがある、拾いきれなかったものがある。手のひらから零れ落ちた魂を、もし未来に繋いでいくことができるとするならば。
それは──。
「お休みなさい……お兄様ッ!」
魔剣を構えた小夜実は、俺の心臓めがけて突進する。命の消滅。今まさに、俺の肉体が現世との繋がりから別れを告げようとしていた。
そして全ての結論が、俺の前で答えを導いた。
「……ありがとう、小夜実。いや、小乃実……」
俺はそっと、少女の背に手をまわした。
「そんな、どうしてっ…………?」
魔剣は俺の胴体ぎりぎりを突き抜けていた。痛みは、お腹の横を流れる一筋の切り傷だけ。俺が避けたわけじゃない。これは小乃実がはずしたのだ。
小乃実は驚きに目を見開いている。
俺の胸ポケットから、ハンカチが落ちていた。
「学校の校舎裏で、気づかなかったんだな。これが、小乃実からもらったハンカチだって」
瞳から戦意を消失させていく小乃実は、わなわなと震えながら言った。
「だ、だって分かるわけないじゃない……嘘、だよね……? わたしのあげたハンカチは……あの時にバラバラにされて……」
小乃実はハンカチを拾いあげた。見間違うはずのない名前入りのハンカチ。ハンカチの隅に俺のイニシャルが入っている。買った本人が、一番よく知っているはずだ。
「……すまん、あれ一回なくしたんだよ。バレたら絶対に小乃実に怒られると思ってさ。安くて似たようなのを買ってきてたんだ」
「じ……じゃあ、わたしのあげたハンカチは……」
「いやその、あれだよ。別の服に入れたまま放置してて、中学に入る前、春先の引越しの時にゴミ投げてたら発見してだな……」
「…………そんな、そんなこと……!」
小乃実はどうしていいのか分からず、首を左右に振っている。
「そうか……小乃実は、ずっとあれがプレゼントしたハンカチだと思ってたんだな。悪いな。俺のドジのおかげで、お前に迷惑かけちゃってさ。でも良かったよ。俺が忘れっぽいおかげで、小乃実からもらったハンカチを守ることができてさ」
「……そっか。小乃実のハンカチは、ずっとお兄ちゃんと繋がってたんだ……」
涙だった。俺の懐に顔をうずめた小乃実が、頭をこすりつけるようにして泣いていた。
小乃実はずっと一人ぼっちだったんだ。
一人で奔走して、一人で空回りして、それでやっと、ここに辿りついたんだ。
「お前は最初から間違えてたんだよ……でも、俺も何もできなくてごめんな」
「お兄ちゃん……うっ、ひぐっ、ううぅ…………小乃実の方こそ、ごめんなさい……。お兄ちゃんはもう、小乃実のことずっと忘れてると思ってた……。小乃実、お兄ちゃんに甘えてばっかりだったから、絶対に嫌われてると思ってたっ……!」
「嫌うわけないだろ」
長い、本当に長い道のりだった。
三年間に及ぶ俺と小乃実、そして家族の絆は、ここにきてようやく結ばれた。
俺は小乃実の命を救えなかった。けど、小乃実の魂だけは救うことができた。幸運に見放された少女を守りたい、俺のそんな願いが伝わった瞬間だった。
黒い十字架が消え、歴史の終幕を証明する。指輪は蒸発して、俺は黒塗りの衣装に身を包んだ妹を強く抱きしめた。
運命の歯車が、過去から未来へと回り始めたんだ。
「小乃実、もうどこにも行かないでくれ……俺は」
分かりきった答えだった。しかし、俺は望んでいた。
もう一度、妹との明るい生活を。だが、小乃実は俺の側を離れた。その間に明確な線引きがあるんだと、少女の決意が伝えていた。
「ううん……これ以上お兄ちゃんに甘えちゃダメなんだって、ようやく分かったの。そんなことしたら小乃実、本当にお兄ちゃんに嫌われちゃうから」
少女は笑っていた。
「最後にさ、お兄ちゃんにお願いがあるの」
「おい馬鹿ぁ、最後なんていうなよっ! 俺はせっかく、小乃実に謝る機会ができたのにっ……!」
小乃実はもう戻ることはない。
俺の直感が現実を教えていた。だが、それを受け入れたくない。そんなことをしたら、もう小乃実に会えなくなってしまうから。
「お兄ちゃん。目を閉じて」
妹の頼みを聞いて、俺は溢れる涙を溜めた瞳を閉じた。
暗い視界から、近くに小乃実の暖かな呼吸を感じる。それがどんどん近くなっていって。
ぎりぎりのところで……止まった。
「小乃実?」
俺は尋ねるが返事はない。
ぼそっと、小乃実が不思議なことを言った。
「──お兄ちゃんのワイシャツ、小乃実の知らない洗剤の香りがするね」
小乃実はそのまま、俺の側から後ずさった。もう目を開いていいよというので、俺は視界から小乃実の姿を見つめる。
俺には分からなかった。小乃実が泣きながら笑う理由が。
「ごめん今のナシ。お願いはノーカウントねっ」
「…………?」
う~んと何かを見定めるような両腕を組んだ小乃実の仕草。
ひとしきり見終わった後、納得して頷いていた。
「あ~あ、あんなに頑張ったのに、小乃実はいち、にぃ……三番目かぁ……結構、イイ線行ってたと思ったんだけどなぁ……」
何でもない、と首を振って答える少女。
小乃実は魔剣を捨てて、俺に聖剣の存在をうながした。
「さぁ、お兄ちゃん。もうおしまいだよ。お兄ちゃんは次のステップに進まないといけない。これ以上の未来を望んだら、小乃実は魔剣の支配されるままにお兄ちゃんとの幸せを望んじゃう」
──だから、わたしを殺して。
小乃実が最後に呟いた言葉に、俺は枯れ果てそうなくらい号泣した。
俺もずっと、妹に甘えていたんだ。
俺ができることは、刻印に定められた運命のままに、彼女の救済をすること。魂を救うことで初めて、妹は運命に屈せずに人間の生をまっとうできる。
「お兄ちゃんの仕事は、もっと大きなものでしょ? お兄ちゃんは、もっとたくさんの人を救うことができる……そんな人だもん」
突き刺さっていた聖剣を握る。何故か手は震えなかった。
俺が綺麗な姿をした小乃実の前に聖剣を突きたてると、彼女は微笑んだ。
「小乃実……ごめんっ……俺はっ……!」
「お兄ちゃんが謝る必要なんてないんだよ。お兄ちゃんは必要なことをしてるだけ。だって小乃実は自分が死ぬより、お兄ちゃんが生きててくれる方がずっと嬉しいから」
聖剣が、小乃実の胴体を貫いた。
豆腐のように一瞬で剣が突き抜けて、小乃実の口から血が流れる。
あっさりとした幕引き。何かを叫ぶこともない、ただ結果だけがそこに残っていた。聖剣で今までの関係を絶たれた小乃実は、最初から存在しなかったかのように身体が七色の粒子をまとってゆっくりと消えていく。
小乃実の頭、肩、手、足……全てのパーツが細かい粒に分けられて、あるべき場所へ帰還する。
俺は言葉がだせなかった。代わりに妹が心情を代弁する。
「ありがとうお兄ちゃん……お兄ちゃんが、教えてくれたんだよ。本当に大切な、もの、は……近くにあるんだっ……てこと。本当の救世主になって……強くて、優しくて、かっこよくて、小乃実の、大好きな………………わたしの、おにい……ちゃん………………」
聖剣を埋めていた少女の身体が消えた。
地面には、効力を失った魔剣が横たわっている。俺はそれを拾いあげた。
そしてもうひとつ、地面に落ちていたハンカチを回収する。
「小乃実……俺は絶対に守ってみせる。お前と出会った、この世界を……」
俺はハンカチを強く握り締めた。




