第二十話、消えていく温度
第二十話です。
初デートの余韻が残る翌日から、物語は少しずつ不穏な方向へ動き始めます。
楽しかったはずの時間。
続いていたはずのやり取り。
けれど、画面越しの言葉から少しずつ温度が消えていきます。
ここから、蒼汰と結衣の関係は大きな転機を迎えます。
―――
「どうだった?映画」
彼と映画を観に行った翌日の昼休み。弁当の蓋を開けた瞬間の無防備なところを、同僚の佐伯さんに狙いすまされたかのように声をかけられた。
不意に向けられたその問いに、喉元まで出かかった情報を整理しようとして、一瞬だけ躊躇い、結局は言葉を飲み込んだ。
「……普通に、楽しかったよ」
嘘ではない。
けれど、昨夜のあの密度や、胸の奥に澱のように溜まっていたものが溶けていった感覚を、その一言で片付けてしまうのは、何かが致命的に足りていない気がした。
「へえ、いいじゃん。どんな感じだった?」
佐伯さんが身を乗り出し、軽い調子で問いを重ねる。
説明しようと思えば、いくらでもできる。
スクリーンの光に照らされた彼の横顔や、ぬいぐるみを抱きしめたときの指先の感触、車内を流れていったあの静かな沈黙。
でも――
どこから話せば、この手触りを汚さずに伝えられるのか分からなかった。
「すごく、落ち着く感じだったかな」
抽象的な答えを返すと、佐伯さんは少しだけ意外そうに目を丸くして笑った。
「へえ。今井さんって、そういうタイプなんだ」
佐伯さんは自分のストローを指先で弄りながら、記憶を辿るように言葉を継ぐ。
「真面目そうだし、仕事もちゃんとしてるし資格もいろいろ持ってるんでしょ?」
「聞いた話だと、現場関係の免許以外にも産業心理士の資格も持ってるらしいよ」
「職場の環境だけじゃなくて、人の性格とか背景まで見て支援する資格なんだって。それを一発で受かったって聞いたよ。そういう人、いいと思うけどなあ」
「ちゃんとしてる人って安心できるじゃん」
佐伯さんの言葉に、私は小さく頷く。
間違ったことは、何一つ言っていない。彼は誠実で、そして冷たい人ではないということを、私はもう知ってしまっている。
佐伯さんの言うとおり、今井さんはいい人だと思う。隣にいて、この上なく安心できるとも思う。
それでも――
その“安心”が、この先も続いていくことを想像した瞬間、ほんの少しだけ息が詰まる。
その先に自分がいることが、少しだけ怖かった。
「いい感じじゃん。ねえ、彼と付き合わないの?」
核心を突くような無邪気な問い。そう言われて、一瞬だけ答えに迷う。
安心できるはずなのにそれだけで決めてしまうことに、どこか違和感が残る。
「……そういう話じゃないんだよね」
ようやく絞り出したのは、それだけだった。
佐伯さんは一瞬だけきょとんとして、私の表情の奥を読み取ろうとするように首を傾げた。
「ああ、そういうのもいいよね」
と笑って、それ以上は踏み込まなかった。
その適度な距離感に救われながら、私は味の薄いサラダを咀嚼した。
昨夜、車を降りる瞬間のあの体温だけが、まだ現実味を持って私の指先に残っている。
――――
一緒に映画を観に行ったあの日からも、彼女とのやり取りは穏やかに続いていた。
交わされる内容は、取り立てて特別なものではない。
その日のささやかな出来事や、仕事の進捗。帰り道に見かけた新商品の話などの短い文章を送り合い、短いまま返ってくる。
『今日は少し寒いですね(+_+)』
『そうですね。帰り、気をつけてください(^_^)』
それだけで終わる日もあった。夜の決まった時間になると通知が届き、それに数行の返信を送る。
数分後、あるいは数十分後に、また一言だけ返ってくる。会話と呼ぶには少し足りないけれど、ただの連絡とも違っていた。
互いが今日もそこにいることを、短い言葉で確かめ合うような時間だった。
最初は、注意を払わなければ見落とすほどの違いだった。日付が変わる前に終わっていたやり取りが、翌朝の出勤時間へと持ち越されるようになる。
『すみません、寝てました(+_+)』
『おはようございます(^_^)』
きっと、一時的なものだろう。だから、何も聞かないことにした。
次に変化が表れたのは、言葉の端々だった。
文章そのものはまだ返ってくるけれど、そこに添えられていた柔らかさが少しずつ薄くなっていく。
多用されていた顔文字が消え、句読点だけの無機質な構成が増える。
それまでなら一言だけ添えられていた、取るに足らないはずの近況報告が、音もなく姿を消した。
『今日は少し疲れました』
そう送られてきていたものが、
『今日は疲れました』になり、
やがては、『お疲れ様です』という、
定型文のような労いだけが残る。
どれも文法的に間違いではない。不自然だと声を荒らげるほどのものでもない。
ただ、以前の彼女と同じではないということだけが、画面越しに伝わってきた。
そして、その少しずつ積み重なっていく不自然さが日常となっていった。
送信ボタンをタップしてから、既読のマークが灯るまでの時間。画面をスクロールせずに見渡せる、やり取りの密度の希薄さ。そして、彼女の方から新しい話題を提示した最後の日付。
あえて確認しようと思って遡ったわけではない。ただ、指を動かしているうちに目に入ってしまう。
数えようとしなくても、空白の期間が輪郭を持って迫ってくる。
理由は、いくつも思い浮かべることができた。季節の変わり目の体調不良、仕事の重圧、それとも家庭の問題か。
『何かありましたか』
入力欄に、そこまで打ちかけて止まる。
送れば、答えは返ってくるかもしれない。少なくとも、何らかの反応はある。
それを確認したいと思っている自分がいる。
――確認したい。
その時点で、目的が少しずれている気がした。
色々と聞きたいことはあったが、そのどれもが彼女の沈黙をこちらの都合で破る言葉に見えた。
それらの問いは、彼女に説明する役割を渡すことになる。
返ってきた答えに対して、こちらがさらに理由を求めれば、彼女はまた何かを言葉にしなければならない。
彼女の変化には気づいている、彼女のことを心配してはいる。だからといって踏み込んでいいとは限らない。
――他者の内面に踏み込み過ぎない。
その一線だけは、出会った頃から何も変わっていない。
今のままでも、関係はかろうじて成立している。だとしたら、こちらの不安を処理するためだけに、その形を崩すべきではない。
そう結論づけて、彼女の領域へ踏み込むことをやめた。
――――
何度も送信画面を閉じた。
このまま何も言わなければ、もう少しだけ続けられる。たぶん、このままでも嫌われることはない。
返信が遅くなっても、言葉が少なくなっても、彼は理由を問い詰めたりしない。
こちらが黙れば、黙った分だけの距離を残してくれる。そういう人だと、分かってしまっている。
だから、安心していた。安心していることが、怖かった。
このまま続ければ、私はきっと彼の優しさに甘えてしまう。
彼に会いたいと思う。彼の声を聞きたいと思う。あの日みたいに、ただ隣にいたいと思う。
けれどそう思えば思うほど、胸の奥に小さな痛みが残る。そのたびに申し訳なさだけが増えていく。
彼は何も求めていない。だからこそ、こちらだけが寄りかかっているような気がした。
このまま続ければ、いつかきっと、彼の優しさを当たり前のものとして受け取ってしまう。
そして、それに応えられない自分だけが少しずつ重くなっていく。
――これ以上進む前に止めなければならない。
そう決めて、文字を打った。そう決めたはずなのに、指はすぐには動かなかった。
画面の中には、まだ何も書かれていない。それなのに、もう何かを失ったような気がした。
――――
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回から、物語の空気が少し変わっていきます。
初デートは、蒼汰と結衣にとって確かに大切な時間でした。
けれど、大切になったからこそ、結衣の中には別の不安も生まれていきます。
優しい人だからこそ、甘えてしまうのが怖い。
踏み込んでこない人だからこそ、自分から終わらせなければならない気がする。
そんな結衣の葛藤と、変化に気づきながらも踏み込まない蒼汰の誠実さが、ここからすれ違いを生んでいきます。
次回、二人の関係は急展開を迎えます。
静かに続いていた時間が、ここから大きく揺らぎます。




