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第十八話、あざらしのぬいぐるみ

第十八話です。


夕食を終えた二人は、もう少しだけ一緒にいるためにショッピングフロアへ向かいます。


今回は、結衣がふと目を留めた小さなぬいぐるみと、それを見逃さなかった蒼汰の不器用な優しさの回です。

 ショッピングフロアに入る。外はもう夜の色をしているはずなのに、そこだけは明るかった。


 白い照明が床に薄く広がり、店ごとに違う音楽と、誰かの笑い声と、袋の擦れる音が重なっている。


 騒がしい、というほどではない。ただ、静かだった夕食のあとには、その明るさが少しだけ眩しく感じられた。

  

 いくつかの店の前を通り過ぎたあたりで、彼女の歩幅がわずかに緩んだ。

 彼女の視線の先には棚の上に、ぬいぐるみが並んでいる小さな雑貨店があった。


 彼女は立ち止まらない。ただ、その中のひとつに視線を置いたまま、数歩だけ歩みを遅くする。 


 ——あざらしのぬいぐるみ。

 丸みのある形。手のひらに収まりそうな大きさ。

 

 彼女の視線が、そこでほんの少しだけ止まった。

 けれど、彼女は立ち止まらなかった。そのまま視線を外し、何事もなかったように再び歩き出す。


 欲しいのですか、と聞くことはできたが、その聞き方は少し違う気がした。

 そう聞けば、彼女はたぶん笑って否定する。

 何でもないことにしてしまうだろうから、声はかけなかった。 

 

 人の流れが少しだけ途切れたところで足を止めて、振り返らずに雑貨店へ戻った。

 店に入ると、同じ棚に並んでいたそれを手に取る。

 ――軽い。

 表面は思っていたより柔らかかった。

 指先に残る感触を確かめるように、少しだけ持ち直す。

 

 大きすぎるものではない。高価なものでもない。

 ただ、彼女の視線が一度だけ止まったものだった。

 そのまま会計を済ませる。

 店を出ると、彼女は少し先で立ち止まっていた。

 こちらに気づくと、わずかに視線を向ける。

 

 何も言わずに近づき、手に持っていたものを彼女に差し出す。

 彼女は一瞬だけ目を見開く。

「……いいんですか?」

「さっき、目が止まっていたので」

 欲しそうだったから、とは言わなかった。

 だからといって、無理に決めつける必要もなかった。

「もし困るようなら、車に置いておきます」

 そう付け足すと、彼女は少しだけ目を伏せた。

 

 ショッピングフロアの喧騒が、その一瞬だけ遠のいたような気がした。

 戸惑っているのか、それとも形を与えられた好意の重さを指先で測りかねているのか、すぐには手を伸ばさなかった。 

 やがて、彼女はゆっくりと手を伸ばして、その両手にぬいぐるみを迎え入れた。

「ありがとうございます」


 ―――

 差し出されたぬいぐるみを、両手で包み込むようにして受け取る。

 指先が柔らかな毛並みに沈み込み、その奥にある確かな弾力を確かめる。

 

 落とさないように、あるいは自分の中から逃げてしまわないように、胸元へ引き寄せる腕に少しだけ力が入った。


 ――普通は違う。

 どうしてそれが欲しいのかと理由を尋ねられるか。

 これを買ってあげたら喜ぶだろうか、と顔色を窺われるか。

 あるいは、気を遣ったことそのものを、恩着せがましく言葉にされる。


 ――けれど、彼は何も言わなかった。

 私が見ていたものを、私が必要としていた瞬間に、ただそのまま差し出す。


「欲しい」と言わせる負担も、「ありがとう」と過剰に言わせる空気も作らず、ただ、私の自由を侵さない距離でそこにいてくれる。


 抱きしめたぬいぐるみの隙間から、ほんの少しだけ、夜の空気が漏れ出した。

 鼻をかすめたその温度は、さっきの店で感じたものと同じ、嘘のない優しさの味がした。 

 ―――

  

 再び、並んで歩き出す。人の流れは変わらない。照明も音も、絶え間なくフロアを埋め尽くしている。

 けれどその喧騒の中で、彼女はときどき、眩しい光を避けるように視線を足元へ落とし、手の中にある「それ」を確かめるように見つめていた。

 

 歩幅は乱れていない。隣を歩くこちらの速度に、彼女の呼吸が穏やかに重なっていた。

 ただ——

 抱きかかえたぬいぐるみの腕や、柔らかい胴体のあたりを、彼女は無意識に、けれど片時も離さないように指先で強く掴んでいた。


 駐車場に戻ると、外の空気はさっきよりもわずかに冷えていた。

 ドアを開けて彼女が助手席に乗り込み、シートに身体を預ける動きは、店を出たときよりも少し軽く見えた。


 エンジンをかけると、低い振動が静かな車内に戻ってきた。

 ゆっくりとタイヤを転がし、そのまま夜の一般道へと車を滑らせた。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


今回は、夕食後のショッピングフロアで、結衣が目を留めたあざらしのぬいぐるみを蒼汰が買う回でした。


「欲しいですか」と聞けば、結衣はきっと何でもないことにしてしまう。

だから蒼汰は、理由を求めず、押しつけず、ただ彼女が見ていたものを差し出します。


欲しいと言わせない。

恩着せがましくしない。

受け取るかどうかの自由も残しておく。


そういう距離感が、結衣にとっては何より優しいものとして届いています。


この小さなぬいぐるみは、二人の時間の中でまた少し意味を持っていきます。


次回は、帰り道の車内へ進みます。

引き続き読んでいただけると嬉しいです。

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