エピローグ 下から3列目の上から2番目
翌朝、茉莉は窓の外の蝉の音で目を覚ました。少し体を動かそうとしたら、体中のそこかしこに痛みが走った。ここ数回は無かったから忘れていたけれど、どうやら筋肉痛になってしまったらしい。しかもかなり重めの。
同じ階のトイレに行くのにもぎこちない足取りになってしまった。いつもなら1階で朝食を摂るけれども、とてもではないがこの状態では階段を下りるなんてことはしたくない。ベッドに腰かけた茉莉はやむを得ず自室から階下の母に電話を掛けた。
「茉莉?どうしたの?」
「ママごめん、筋肉痛、痛くて……」
「ふふっ、持っていけばいいのね」
「ありがとう」
その電話から数分もしないうちに階段を上る音が聞こえて、部屋のドアがノックされた。
「ごめん、ドアも開けて」
茉莉は気の抜けた、それでもドアの外まで聞こえるように声を出した。腰かけてからというもの、どの動きをしても体に痛みが入りそうで、身動きが取れない。
「はいはい」
少し呆れたような声がドアの外からして、そのあと部屋のドアが開けられた。母は部屋の机に手早く置いて、茉莉のほうへと近寄った。トーストの焼けた香ばしい香りがする。
「どこが痛いの?」
「全身くまなく……なぜか腕も……痛っ、ちょっとママ、やめて」
母が部屋に入ってきた時からほとんど石像のようになっていた茉莉は、母に少し触れられただけでも顔をしかめた。
「ママとパパ、これから出かけてしばらく戻らないけど、カギ閉めても大丈夫?確か今日、涼乃ちゃんたちが来るって言ってたよね」
「あんまり大丈夫じゃないかも……」
朝食に行けなくて母をここまで呼んでいるから、自分が玄関で涼乃を迎える姿を想像できずにいる。
「困ったね、ママたちも少しは待てるけど」
「涼乃だけでも先に呼べるか、聞いてみるね」
涼乃に電話を掛けた。午後集合という話だったので、もしかしたらそもそも繋がらないかもしれないという茉莉の不安を一瞬で断ち切るように、たった2コール聞いただけで涼乃の声がした。
『茉莉?どうしたの?』
「今からうちに来ない?その、助けてほしくて」
戸締りがされた後、筋肉痛で玄関まで友人を出迎えられない程度のことで、『助けて』なんて言葉を使うのはどうかと一瞬言葉に詰まったが、結局他の言葉は見つけられなかった。
『今日は午後からじゃなかったっけ?』
「それが……」
『まぁいいわ、ちょうどうちには誰もいないし、そっち行くね』
「ありがとう!部屋も涼しくしておくから」
「1日置いたカレーもあるよ~」
電話から母の声がして、困惑したような様子が電話越しにでも伝わってきたが、涼乃はそれ以上何か話すことなく、電話を切った。
「……で、こんな状況なわけだ」
部屋にはぎこちなく固まる茉莉とそれを見る涼乃。茉莉の母は涼乃としばらく玄関で話した後、父と外出に出かけた。
「うん、痛いけど……一人で留守はできないし……」
「でも、そんなに固まるほど?腕とかは大丈夫なんじゃないの?」
涼乃は茉莉の腕に手を伸ばした。
「~~~!!!」
茉莉は痛みで顔をしかめて言葉にならない声を上げた。その後、涼乃と自分の体を交互に見て抗議のジェスチャー。
「わかったごめんって、喋れはするでしょ」
呆れたように笑われた。
「でも涼乃が来て助かったよ、この状態、玄関でお出迎えするなんて考えらんない」
「相当動いたんだね」
「うん、なんかサイクリングで楽しくなっちゃって」
「その時にはこんなことになるなんて思わなかったんだ」
「えへへ」
頭を撫でるようなジェスチャーをしたいけど、当然筋肉痛で腕が動かない。
「事情は分かったし、ちょっと家から色々取ってくるわ。課題とか。」
「おっけー、待ってるね」
「その様子じゃあ待ってることしかできないもんね」
「あっひどい」
「けど、その間に着替えておいてよね、その恰好を結城と拓也に見せられないでしょ」
起きてから着替える余裕なんてなかったから、まだパジャマでいる。
「えー、痛いし……、涼乃が着替えさせてくれない?」
大真面目に言ったつもりが、涼乃は失笑していた。
「それくらいは自分でやって!」
そう言って、部屋を出て行ってしまった。
取り残された茉莉は深呼吸をして、痛みを感じながら立ち上がり、クローゼットの中の着やすそうな服を漁った。伸縮性の高い素材を使ったものがまだ着やすそうに見えたが、結局痛みを感じることには変わりなかった。着替えで疲れた体を休めるべく、楽な姿勢を探して、その末ベッドに横たわることになった。
涼乃はそれからすぐに帰ってきた。手には課題プリントの束。
「……もう座るのもやめたんだ」
茉莉を見るなり数秒固まってそう言った。
「うん、これが一番楽~」
痛くない部位のみを動かしてベッド上からサムズアップした。
「外はもうすごい暑かったよ、33℃あるって」
「うへ~」
この部屋は冷房で居心地がよくて想像がつかず、気の抜けた返事が出る。
「もう喉乾いちゃった、何か飲み物もらっていい?」
涼乃は少し外に出ただけでかなり暑さにやられているようだ。
「下の冷蔵庫の左の扉に麦茶があるから、それでいいなら持ってきて。コップは自由に使っていいから」
「はいはい」
涼乃はまた立ち上がって、部屋から出た。また部屋には少し静かな時間が流れる。ぜんまいで動く玩具みたいなセミの鳴き声が窓越しからかすかに聞こえる。そのまま彼女はすぐに麦茶のポットと氷の入ったタンブラーを2つお盆に乗せて戻ってきた。仰向けになっていて見れないけれど、タンブラーに注がれた麦茶が氷を解かす音がする。それがなんだか心地よくて、もう一度眠ってしまいそう。
そうやってうとうとしていたら、突然頬に冷たい感触が来た。驚いて目を覚ますと、涼乃がタンブラーを頬に当てていた。
「びっくりした」
「ふふ、これはここに置いておくね。たまには水分摂って」
驚いた茉莉の顔を見て少し満足げになっている。
「うん」
「このまま少し寝る?」
「そうしようかな、着替えたら疲れちゃった」
自分で言っていて、その言っていることの間抜けさに呆れる。
「わかった、お昼の時間になったら起こすから」
「なんだかどこかのお嬢様になったみたい」
「茉莉のカレーだけとびきり辛くしようかな」
「あぁ……ごめんってば」
体は動かしづらく、力なく謝った。
そのあと、涼乃はテーブルに戻って課題を始めたようだった。ペンを走らせる音、ページをめくる音、時折氷入りのタンブラーが持ち上げられて、麦茶を飲んでいると思しき音。目を瞑っているから、普段は感覚を割かないような音も聞こえて、そのどれもが茉莉を眠りといざなっていった。
次に目を覚ました時、鼻腔をカレーの匂いがくすぐった。先刻よりも日差しは強くなっているように見える。すぐに喉が渇いていることに気が付いて、ヘッドボードの上にあったタンブラーを手に取った。筋肉痛は確かにするものの、朝よりはよくなっていて、多少なら体を動かせる。そのまま起き上がって、部屋の中央のテーブルにタンブラーを置いて、床に座った。
何度かタンブラーを回して氷をカラカラ言わせていると、階段を登ってくる音がした。ドアが開いて、エプロンを着たまま涼乃が部屋に入ってきた。お盆にはカレー2皿。
「起きてたんだ」
「いいにおいがしたからかな、目が覚めたよ」
涼乃はてきぱきと配膳を済ませて、茉莉の対面になっているいつもの席に星座で腰掛けた。
「話が早くなって助かるわ、食べましょ」
「うん!いただきます」
「いただきます」
ふたりで手を合わせる。
タンブラーに麦茶の入れられる音が1つ。カレーの皿にカトラリーの当たる音が1つ。
「どう?美味しい?」
「おいしい~!涼乃、料理上手いね」
「ほとんど温めただけだって、それを言うなら茉莉のお母さんにね」
「ママには昨日言ったよ。それにほら、温めるだけでも失敗しちゃう人とか、多分いるし」
「鍋を火にかけるだけなのに?」
そこまで言って、涼乃はカレーを食べる手を止めて、茉莉を見た。
「まさかそうなの?」
「いやいや流石に、無いと、思うよ?」
言っていてだんだんと自信がなくなってきて、しまいには声が小さくなった。
「茉莉、今度料理するところ見せてね」
「えっと、お手柔らかにお願いします……」
簡単でかつ料理ができそうに見える料理は何だろうか、そんなことを考えながら、カレーライスを完食した。
そのあと涼乃と同じことをすることにした。タスクが積んである状態が嫌いな彼女の課題の処理スピードはすさまじいもので、見慣れているはずの親友が見ても少し驚くほどであった。昔彼女が「やらなきゃいけないことが残っているのに遊んでも、あんまり楽しめなくない?」といった時、同意する拓也を横目に結城と2人で首をかしげたことがあったのを思い出していた。
「今日呼ばれてよかった、茉莉の部屋、なんだかいつもより集中できる」
課題をしながら、手が早くない?と聞かれた彼女は一切その手を止めないまま、そう言った。
「こっちこそお礼を言わなきゃ。今日は突然呼んじゃったのに」
「いいよ、うちの冷房代浮くし。私だって突然呼ぶこともあるでしょ?それに、ここ以上に集中できる環境はそんなにないわ」
「そうだけど……」
両手の指先を合わせて少し遊ばせる。
「どうしたの」
「あたし、涼乃がそこまでしてくれるくらいの見合った人になれてるかな」
「え?」
涼乃は面食らったような表情をしている。そこでようやく、自分がおかしなことを口走ったのだと悟った。そこで口をついて出た言葉は「ごめん」だった。
「謝ることないわ、ただその、そうね、茉莉が言わなさそうなことだったから、驚いた」
言葉を選ぶように話してくれているのが伝わってくる。
「自分でも初めて思って、初めて口にしたって感覚はあるよ。でもどうしても、皆はあたしと一緒にいて、つまらないとか思わせちゃったかなって考えることがあるんだ」
そんなこと、今まで本当に考えたこともなかった。
「つまらなかったらそもそもここにいないわ」
「「へへへへへへへ」」
流れが完全にいつか2人で見た漫才のそれで、涼乃も同じように思っていたようだった。
「でも、思っていることは本当。恥ずかしいから、何回も言わせないでほしいけど。」
涼乃と目が合わない。
「うん。もう大丈夫。きっと、今日みたいなことは思わなくなる、と、思う」
言い切ってしまおうとすると確証が持てず不安になって、喋れば喋るほどたじたじになってしまった。
「そう?それならもっと私たちのこと、気兼ねなく頼ってよ。今日だって、頼ってくれて、あなたが私に『助けて』って言ってくれてうれしかった。」
「やっぱりちょっと言葉にすると恥ずかしいね」と、涼乃はいったんこれ以上口を開きたくなさそうにタンブラーを口にした。咄嗟にとった行動だったのだろう。タンブラーにはお茶が入っていなくて、急いで追加のお茶を淹れていた。
部屋には気恥ずかしさで満ちた少し居心地の悪い空気が漂ってしまった。振り払おうと別の話題を振ろうとしたけれど、三浦に行った時のことは四人そろってから話したいから、気の利いた話題が見つからない。話題探しをすればするほど、頭の中で考え事だけが増えていった。そういえば、こうして本音で言葉を交わすことなんていつぶりのことだろうか。涼乃と結城と拓也相手ならなんでも本気で話せると信じて疑ったことなどなかったけれど、いつの間にかこんなにも気恥ずかしさが生まれてしまっていた。ふと思い返せば、なかなか『心の穴』のことを切り出せなかったのもこの気恥ずかしさが理由の1つになっていたような気がする。とすると、『心の穴』はこうして自分を遠慮がちにさせるような悪影響も及ぼしていたのだろうか。でも、今目の前で少し目を合わせずらくなっている涼乃とも、同じ気恥ずかしさを共有しているという自信に似た何かがある。ならこれは皆が共通して抱えているもので、「もう大丈夫」って言ったのに、皆と本音で喋れる機会はこれからも減っていってしまうのではないか。別の話題を考えようとすればするほど、この空気に対しての考え事が止まらなくなってしまう。『心の穴』が、少し痛んだ。
「もうすぐ結城達来るって。私、玄関の鍵開けてくるね」
沈黙を破ったのは涼乃、正確には彼女のスマホに届いた通知音だった。
「うん、お願いね」
なぜか引き留めたいと少し思ったが、このまま静かな空間にずっといてもらうのも変だから、茉莉はそのまま鳴ったインターホンのほうへと向かう彼女を見送った。
一瞬部屋が静かになって、玄関の開く音が聞こえる。聞き覚えのある声が交わされているのが聞こえているけれど、何を喋っているのかまでは聞き取れない。すぐに階段を登ってくる3人分の振動と音がした。
「よ、茉莉。大丈夫か?」
結城の目はいつもより心配そうだ。
「はろ~今日はちょっと大丈夫じゃないかも」
自分の動かせる部位だけを使って、安心できるよう平気そうに手を振った。
「そうみたいだな」
少しは安心できたみたいだ。
「筋肉痛なんだって?」
そう聞きながら拓也は折り畳みの日傘をしまって、今度は冷房除けの薄いカーディガンを取り出した。暑がりでもあり寒がりでもある拓也にとっては、この季節は辛そうだ。
「うん、痛くて今日一日ほとんど部屋から出てないの」
広げた課題をこれまた筋肉が痛まないように片付けていく。
「それで涼乃が出迎えてくれたんだね」
「今日一日涼乃には世話になりっぱなしだよ」
「お世話しっぱなしだね」
涼乃はそう言いながらもすでに皆の分の冷えた緑茶をてきぱきと用意していく。
「それで涼乃、悪いんだけど、下の冷蔵庫に今日のプリンが入ってて……」
「はいはい、取りに行けばいいのね。わかりましたよ、『お嬢様』。」
親友に対してするにはあまりにも高尚なお辞儀をしてプリンを取りに行った。
「あ、ちょっと、今それ言うのずるい!」
「今日は『お嬢様』なのか」
皆が聞き流すことに賭けたが、結城が聞き逃すはずもなかった。
「それ触れないで、冗談で言っただけだから……」
「でも実際人を遣わしたりしてるし、お嬢様って感じだよね」
拓也まで乗ってきた。こうなったら止められない。
「様付けすると遠い人みたいだし、『お嬢』って呼ぶのはどうだ?」
「アリだね、『お嬢』」
拓也と結城が2人で盛り上がり始めてしまった。
「受け取り方に困るってば」
「持ってきたよ。結構重いね」手提げ袋を持って涼乃が戻ってきた。手提げ袋の中から、プリンの入っているビーカーが当たる音が聞こえる。
「ありがとう。持って帰ってきたときも結構重かったんだよ」
プリンをバッグに背負った時の肩の重さが、微かに茉莉の記憶の中に残っている。
「この重さなら確かに大変かもね。さ、食べましょう」
それぞれが選んだ味のプリンがそれぞれの目の前に出された。今日の緑茶はあらかじめ涼乃が作って持ってきたポットに入っていて、最初に淹れた1杯以外はセルフサービスで各自が飲みたいだけコップに淹れるという形。4人は「いただきます」と手を合わせた。
「今年の夏は何する?」
結城は夏休みがこれから始まることを心底楽しみにしているようだ。
「来年の夏は暇じゃないかもしれないから色々したいけど、そういう結城が一番忙しくて時間合わないんじゃないの?」
茉莉もすべてを知っているわけではないが、校内の結城は色々なことを掛け持ちしていて、いつも忙しそうに見える。毎日4人で集まって昼食を摂っている時間すら、こちらに無理して合わせているんじゃないかと思うくらいには。実際、校内での昼食の時間が終わると、大体結城は足早にどこかへと行ってしまう。
「先に日程が決まるならいくらでも空けられるさ。部活も休もうと思えばいつでも休めるし、夏の間は生徒会も無いし。文化祭に向けたバンド練習も、言えば向こうが時間空けてくれると思う。このプリン美味いな」
そう言いながら、多忙の彼の指が掌のほうへと折られていく。
「あなた本当に忙しそうね」
涼乃が「聞いているだけで忙しさが伝わって、少し疲れる」みたいな表情をしている。
「そうか?高校生なんてこんなもんだろ。拓也、一口シェアしないか?」
当の本人は吞気なものだ。
「ちょうど僕もそれしたかった。これも美味しいよ」
「黒蜜で味が奥深くなるな」
「シンプルでいい味だね」
そのやりとりを見ていた茉莉は、ふと3人のプリンの味も気になってきた。ここは思い切って。
「あたしもみんなの、一口づつ食べていい?ほんのちょっとだけ!」
他の3人が目を見合わせたあと、涼乃が切り出した。
「せっかくだし、みんなでみんなのプリン一口ずつシェアしましょうか」
「いいなそれ」
「賛成」
まずは抹茶プリンから口にした。買う時から抹茶とプリンは本当に会うのだろうかと少し疑問に思っていたけれど、これが予想に反してかなりあっている。驚くことに、その後飲むお茶まで美味しい。黒蜜プリンは結城が言っていた通り、黒蜜の存在が味の奥行きを広げている。カスタードプリンはシンプルな美味しさ。けれどそのシンプルさが突き詰められていて、市販のそれとは桁違いの美味しさ。
「どれも美味しい!ありがと」
「茉莉が選んで買ってきてくれたんだし、こっちがお礼を言わなきゃ」
「いいよ、いつもついでで買ってきてるだけだし。涼乃は、今年の夏何したい?」
「私はいつも通り、花火大会と夏祭りに行ければいいなって思ってる。こういうの、茉莉のほうが思いつくんじゃないの?」
「あたしはね、プールと、海と、ハイキングと、流しそうめんと、それから……スイカ割りもしたい!」
「それはこの夏じゃ足りないかも……」
思っていたよりも大量に列挙されたやりたいことを前に、聞いた本人が少し引いている。
「プールと海って別枠なんだ」
拓也は砂浜の暑さを心配していた。
「それから、みんなが良ければ、呼べる日は琴音ちゃんも呼んで、一緒に過ごしたいんだけど、どうかな」
この勢いで切り出しづらかった提案も一緒に出してしまうことにした。
「琴音ちゃんって、茉莉が前に言ってた入院している子よね、退院のめどがついたの?」
「うん!今週には退院だって」
「いいんじゃないか?楽しくなりそうだ」
「僕もいいと思うよ」
結城と拓也の2人ともがすんなりと受け入れてくれるような雰囲気でいてくれて、茉莉は胸をなでおろすような気分でいた。もしかしたら、この四人の仲を重んじて受け入れてもらえないかもしれない。そうなっても仕方ない。いつかの時に一瞬だけ思っていたことが、心のどこかにつっかえる不安として残っていて、この話題を出すのも少し勇気が必要だったから。
「ありがとう」
まっすぐな感謝の言葉が出た。それが恥ずかしくて、慌ててプリンを一口。
「それなら確かに、その琴音って子に色々楽しんでほしいよな」
花火、プール、流しそうめん……さっき挙げられた「やりたいこと」を結城が数えながら何か考え事をしている。
「どれもやった事あるし、できなくはなさそうだよね」
涼乃と目が合った。確かに覚えはある。
「スイカ割りなんてしたっけ?」
一方拓也には覚えのないことがあったようだ。
「多分そん時俺らいないな、流しそうめんはしたことあるけど」
「そうだっけ」
ほとんど物覚えのついたころには四人で何かする癖がついていたせいで、大抵のものは皆と一緒に何かしていただろうという思い込みをしていたようだ。
「じゃあ今度は5人での挑戦だね」
なら尚更、今度はみんなでやってみたい。
「スイカ、1つじゃ足りないかもな」
何せ食える形に留めるなら少ししか叩けないしと、結城。
「うちから持ってくるよ。最近茉莉からお土産もらってばっかりな気がするし」
昔から拓也とその家族は、たまに皆の家族に野菜をおすそ分けすることがあった。
「別に気にしなくてもいいのに。でも、ありがと」
今年のスイカには塩をかけようか、そんなことを考えながら他愛ない会話を続けていく。この時間がずっと続けばいいのに、もうすでに2人が来てから40分が経っている。そこで嫌気がさして、そうしていても時間が止まるわけでもないのに、時計を見るのをやめてしまった。
「三浦はどうだった?」
「楽しかったよ!自転車に乗ってると風が気持ちよくてさ、思っていたよりもたくさん走っちゃった」
「それで、その筋肉痛ってわけだ」
「そうなの。写真もいっぱい撮ってきたけど、あの地図にどれを貼ろうか迷っちゃって。みんなにも決めるの手伝って欲しいんだ」
茉莉は仕舞っていたタブレット端末を取り出して皆が囲んでいる机に置いた。ぶれていたりして失敗している写真を除いて、あらかじめ皆にも見えやすいよう、これに写真を転送してある。
「わ」
自分で撮った写真を、さらに自分で転送までしているからこの写真たちに見覚えがあるはずなのに、カメラロールに表示された青空一色にまた圧倒される。もうあの青空が、海風が、少し恋しい。
「水族館にも行ったんだ」
拓也の目を引いたのは青は青でも水族館の青の方だった。イルカショーを見た劇場型のプールは底面の青をそのまま映し出している。
「そう!油壷マリンパークっていうところ。9月末で閉館しちゃうんだって」
「こんなに立派な水槽があるのにね」
写真の中でイルカがジャンプをしたまま止まっている。我ながらよくこんな躍動感のある瞬間を切り取れたものだと思う。
「施設の老朽化なんだって、建物も老いには勝てないみたい」
「建物が一番老いに勝てなくね?」
「一理あるかも」
水族館の写真を選び終わった後、皆が「映りが良い」と選んでくれた、迷う要素の少ない城ヶ島とその周辺の港町や剱崎灯台、猿島などの写真を先に決めた。問題はここから。
「残りが一番選ぶの難しい~」
残ったものは茉莉が自転車を漕いでいる間に立ち止まって撮った写真の数々。ただの道の途中の景色なのに、わざわざ自転車を止めてまで撮ったまであって、どれも良い写真で、選ぶときに切り捨てがたい。
「もうさ、それぞれがこれは外せないって思ったものを選んで、それを全部採用するってのはどう?」
「お願いしていい?このままだとあたしこれから2時間は悩めるよ」
タブレット端末を一人ずつ回していって、カメラロールの下から数えて何段目の左右から何個目の写真が良いかをそれぞれがメモして一斉に発表する形式をとった。
「じゃあ、みんなの見てもいい?」
「いや、茉莉がまだだろ」
「え、あたしも?」
「当然だろ?撮影者が選んでるのが地図に無くてどうするんだよ」
「ええ……じゃあ……」
少し悩むが、皆を悩ませるわけにもいかない。ここまでかなりスムーズに選んだ皆の写真が知りたいけれども、これを選ばなければそれはわからない。一度これだと思ったものを決めて、もう一度撮ったすべての写真をざっと見返してから、結局最初に選んだ写真に決めて、「あたしも決めたよ」と知らせた。目の前には、そのあと海沿いをカーブして走り、上り坂がどこかへと向かって行っている写真。澄んだ青空には入道雲。写真の中でも海は輝いている。下から3列、右から2番目の写真。
「じゃあ、せーので指差そっか」
茉莉の提案に異論のある人はいなかった。タブレットのカメラロールに今回のすべての写真が写っている。
「「「「せーの」」」」
人差し指で自分の選んだ写真を選んだあと、驚いて顔を見上げた。どうやらほかの3人もほとんど同じ行動を取って——同じ写真を指差している。
「マジか」
結城は信じられないという顔でいた。
「こんなとこまで一緒?賄賂とかなかったよね?」
あまりにも出来すぎた結果で、涼乃は少し呆れたような笑顔を見せている。
「でも、これで本当に迷う必要がなくなったのかもね」
拓也はそう言って写真を拡大して、まじまじとその写真の青を見て、「綺麗だなぁ」と言葉を漏らす。
「満場一致なんて、こんなにうれしいことないよ」
その写真を端末のお気に入り登録にした。それから満場一致の記念にこの端末の背景画面になるようにも設定した。きっとこの写真が部屋の地図に飾られたら、今日のことを何回でも思い出せるだろう。
写真を選び終えたあとはいつもと変わらない4人の時間を過ごした。他の場所でそうではないと言い切れないけれど、ここにいるときだけは本当に自然体になれる。安心する。会話に、心に負担のかかるような気遣いが必要ないことがどれだけ大事かを、今日を含めた日常でよく感じる。
「あれ、もうこんな時間。私帰らないと」
涼乃が手元の腕時計を見ている。つられて茉莉も部屋の上にある時計を見た。日没が遅いので明るさでは判断できなかったけれど、ずいぶん長い時間が経っていた。ここに四人がそろったときだけ部屋に魔法がかかっているかのように、時間が早く過ぎていく。
「なら今日はお開きだね」
拓也が体育座りを崩し始めている。
「続きはまたチャットか通話か、時間が合うなら普通に会ってもいいな」
「本当に結城と合う時間なんてあるの?とにかく、今度琴音ちゃんとも会うから、その時にやりたいこと聞いてみるね」
「俺ならいくらでも空けれるって。その子のことは頼んだ。それじゃあまたな」
この後も用事があるのだろう、門扉を出た後足早に去っていく結城を見送っていると、なかなかその発言を本当だと思うのは難しい。
その後、まだ帰ってきていない父の書斎のプリンターで、今日選んだ写真をプリントアウトした。前までは直接言って父にプリントアウトしてもらっていたが、ある日使い方を教わって、「勝手に使っていい」と言われるようになっていた。プリントアウトして一人になった部屋に戻る。まだ茶の香りと皆の気配が少し残っている。
「今年の夏もいい思い出が作れたらいいな、琴音ちゃんと一緒に」
写真を貼り終えた地図を見ながら、これから増える思い出と写真に思いを馳せた。8月は、もうすぐそこまで来ている。
1か月程度休載します。




