9話 心の赴くままに
畑と家がまばらに見えるのどかな街の中を自転車は進んでいた。現在位置は剱崎灯台へと向かう道から県道215号に戻って、少し北に向かったところ。走っていてあまり風を感じないから、風向きはたぶん南風。斜め右カーブを曲がれば、下り坂。ペダルを動かす足を止めて、ただ「今」を楽しむ時間が訪れる。見下ろした先にはまた海。だんだんとそれが近づいてくる。
下り坂による速度がなくなったあたりで、車線をもう1つ越した先には小さな堤防と、砂浜、海だけになった。見下ろしながら見えたこの先の景色には坂が見えなかったから、きっとこれから長い間海沿いの道なのだろう。左側からは蝉の声。海、空、雲、葉、建物とその屋根の色、どれもが鮮やかなまま変わらない。
生暖かい空気がハンドルを持つ腕を滑る。髪を揺らす。肺へと入っていく。この自転車を停めてしまったら相当暑苦しい日なのだろうなと思う。東から流れてくる海風がそれを少し否定して。左カーブ。そのあとすぐに道は曲がりくねって、今度はまた右カーブを経てまっすぐの道へと戻った。
海を遮る堤防すらなくなって、道の隣に砂浜がある。その辺りに日本ではあまり見られないようなヤシの木が見えて、ここを南国と少し錯覚する。少し久しぶりに青い看板を見た。この道路はこの後国道134号線へと合流して、久里浜や横浜へと向かうらしい。
「えっと、自転車はどこで返せるんだっけ」
茉莉はふと我に返った。そういえば灯台を出てから、信号で1回しか止まっていないし、その間は地図を見られる機会がなかった。確か三浦半島の先端エリアでしか借りた自転車は返せないようなことがパンフレットに書いてあったような覚えがある。
「いったん止められる場所を探そうかな」
国道沿いでは自転車を停めづらくなりそうと予想した茉莉は、国道に合流せず次の信号を斜め左へと曲がることにした。すぐ近くに見える海岸ともそれでお別れ。
信号を待って、街中へと入っていった。ここは故郷でも何でもないのに、なんだか帰ってきたような感じがする。しばらく街中の道を進めば、右手に見慣れたコンビニの看板があった。自転車を停める。まずは先にコンビニに入って、飲み干した水を買い足した。
自転車のサドルに横から軽く座って、水を飲みながら地図を見た。来た時に通った三浦海岸駅がすぐ近くにあり、そこでも自転車は返せるらしい。三崎口駅まで戻って1周を完成させてから自転車を返してもいいと少し考えていたけれど。
「……ここで返しちゃおう、うん」
ここから三崎口駅までのルートを検索したら「上り坂」の文字が見えて、茉莉はすぐにここで自転車を返すことに決めた。1度自転車を停めたことで自分の体に疲労を実感したのも響いた。
コンビニから出発してわずか1分。三浦海岸駅に到着。レンタサイクルのポートは高架下の少しわかりづらい場所にあった。自転車から降りて、押してそこまで。電動自転車のバッテリー残量は大体半分くらい。ここまでかなり走ったのに、なかなかタフだ。気づけば少し愛着がわいていて、車体を見渡し「お疲れ様」と心の中で声をかけた。
自転車を返し終わった後、腕時計で時間を見た。今は14時くらい。帰ってもいいが、それにしては少し早い。
「よし、琴音ちゃんの言ってた猿島、行ってみよう」
今を楽しむ心の、それが赴くままに。茉莉は改札を通って、横須賀方面へと向かう電車を待った。




