7話 今、この呆れかえるくらい美しい景色
何とか駐輪場に戻ってきた茉莉は、また自転車を走らせ始めた。もう一度城ヶ島大橋を渡る。一度通った橋でも車線が違うから見える景色も若干違う。できるだけ見える景色の隅々に目を配っていただけで、すぐに三浦半島まで戻ってきてしまった。橋まで登る道の途中まで戻ったら、まだ行っていない方角、東の方へとハンドルを切った。するとすぐに、住宅で阻まれていた景色は開けた。
かなり遠くのほうまで畑が見える。水田でいっぱいの景色なら埼玉でも見たことがあるけれど、ここまで一面が畑の景色は見たことが無い。それぞれが遮られることのない日差しに照らされて、青々と輝いている。少し進めば、右手に海も見えてきた。ちょうどいい温度の風とすれ違い続けている。
「これも大根なのかな」
通っている道は車通りも少なく、畑のほうへと目をやる余裕もある。葉の形と、うらりマルシェでの推され方を見るに、ここ一面が大根畑のようだ。海も畑も、こうやって視界一面を埋め尽くすほど広大だと、その美しさに心が動く。
カーブを曲がると目の前には白いフェンスで挟まれた橋が現れた。その奥にはさっき城ヶ島の展望台から見た巨大な風力発電の風車と、背の高いそう電灯が見えた。右手には空をそのまま映したような青の海、左手には緑豊かな畑。橋を照らすために整列した街灯は眠りについている。どこにでも漂っているはずなのに、今が一番澄んでいると気道が錯覚する空気に、蝉の音色、真下と遠くから聞こえる、ゴムタイヤとアスファルトが接したときの音。そのすべてが心をくすぐって、掻き立てられた衝動をペダルを踏むことでしか発散できないのが悔しいくらいの景色だ。
「——はは」
目の前の景色に何か言葉を吐きたいのに、息は言葉にならず出ていってしまう。かろうじて発音できた言葉すら、うわずって消えていく。ペダルを踏み込む足は止まらないまま、いつかはあれだけ遠く見えていたはずの風力発電機の横を通り過ぎて、ただ緩やかに曲がりくねった道を進んでいく。最後のカーブを曲がったら、今までで一番まっすぐ長い下り坂にすぐ差し掛かった。速度が乗り過ぎないようにかけていたブレーキを、坂の中間あたり、左のフェンスから景色が見えるようになった場所で強くかけて停車した。そのままほかの車の邪魔にならないことを確認したら、自転車と一緒に行ったん歩道へ避難した。自分が来た方角からは車の来る気配がほとんどないし、対向車線を走る車も数少なく見える。
「先の道がこんなに見えているのにね」
下り坂の先、海沿いをなぞるようにカーブした道路は、その後海沿いを離れ、上り坂となって、どこかへとつながっていた。その一連の道およそ八百メートルを、この上から一望できる。
「今度結城に会ったら、ありがとうって言わなくちゃ」
あの時結城から出たとっさの一言に思いをはせた。あの紹介が無かったら、ここまで来れなかったかも。あいつの『な?言ったろ?』とでも言いたげな自信のある顔を、なんだか近くにいるみたいにイメージできる。
大きく深呼吸をして、口角を少し上げた。心が爆ぜてしまいそう!「綺麗」とか「美しい」、そう思うのに、その言葉が陳腐だとすら感じる。
この先の写真を撮って大きく伸びをした。急かすような夏風が髪を揺らして。
「よし、行こっか」
車道の後ろから自動車が来ないことを確認してから、自転車を車道に戻して、また走り始めた。
「あの上り坂、長くてキツそう」
坂を下り、カーブを曲がりながらこの先の道を見続ける。わずかな躊躇が生まれて、足が竦む。ここで最初に自転車に乗ったときと同じ類のものを感じた。それでも。
「今なら、これでどこまででも行ける気がする」
勢いよくペダルを踏みこんだ。この道の先がどこにつながっているかとか、この坂を上る苦労とか、『心の穴』の痛みとか、いつか来る終わりとか。そんなの今に比べたら、どうだっていい。今、この呆れかえるくらい美しい景色と、ペダルを踏んでいればどこへだって行けるような、この体験に比べたら。
坂を上った先はトンネルになっていた。左ハンドルにある操作盤のボタンを押せば、簡単にライトがつく。トンネルの中は少しひんやりしていて、この高揚の熱が中和されて心地いい。自転車のチェーンの音が反響して聞こえる。トンネルの出口からわずかに見えるのは緑と空。トンネルを越えて少しすると、また下り坂。本当に起伏の多い道路だ。カーブを曲がっていくと、また海沿いに続いていき、最後は上り坂で見えなくなる道が見えた。いつまでも見ていたい景色なのに、もうハンドルから手を離せない。道端に見える少し赤錆た知らないバス停を見かけた瞬間すら愛おしくて。もう夏休みに入っているであろう、静かな小学校にも思いを馳せた。少し前に見た七里ヶ浜高校のように砂浜があるわけではないけれど、道路を挟んでその向こうは海だ。この小学校での生活はどんなものなのだろう。どこにいっても、そこでの生活を考えるのは少し楽しい。この起伏の多い土地を、子供たちはどう思っているのだろう。大宮から北に行ったら見られる、一面田んぼの平野を見たら自分では抱かないような感動を抱くのだろうか。そうやって考えながら進んでいたら、少し遠くに見えていたはずの上り坂が目の前にあった。電動の出力を坂に合わせると同時に、少し足に力を入れる。
両側にはただ深い緑の木々が生えているだけだったが、それが海風に乗って揺れていて、退屈はしない。登っていくと坂は緩やかになって、体への負担は軽くなった。その坂の最後の方には場所を示す青い看板。このまま道なりにいくと横須賀、国道134号線。右に曲がると剱崎。青矢印はこの道路に沿っていたから、このままいけば直進。北へといくのだろう。
「剱崎……ちょっと気になる。確か灯台もあるんじゃなかったっけ」
茉莉は腕時計を見た。時間にはまだまだ余裕がある。
「行ってみよう!」
今の好奇心と高揚のままに、茉莉はハンドルを右へと向けた。




