エピローグ 次の旅へ
ゴールデンウィーク最終日、日光の旅を終えた翌日を茉莉は暗い気分で過ごしていた。計画的に終わらせていた甲斐あってゴールデンウィーク中に出ていた課題は難なく終えることが出来そうだったが、そんな暗い気分の中勧めている分ペンの進みが遅く、上手く集中もできない。最中軽く出ていた咳も邪魔だった。
一番に頭を悩ませていたのは琴音についての事だった。「日光の旅の土産話をいっぱい聞かせてあげる」と言ってしまったが、今回の旅の事をどうやって楽しんで聞いてもらえるか考えても、全く何も思い浮かばない。
「そういえば、いつもなら感じてた『あの感覚』も、今回は無かったな」
現状ある『心の穴』を埋めるための唯一の手掛かり、旅先で突発的に感じることのできた、『心の穴』の痛みが少し和らぐような、暖かい心地よさを感じることは日光の旅では全くなかった。
「これからどうしたら……」
そんなことばかり考えて、その日を終えた。
翌日、とてつもない気だるさとともに目が覚めた。自分を見掛けた母が血相を変えるまでは、茉莉は一昨日の疲れがだいぶ出てしまっているなとのんきに考えていた。
「ママ、おはよー……」
「おはよう、茉莉、顔色悪くない?」
すぐさま母は茉莉の額に手を当てた。
「やっぱり、熱がありそう。体温計持ってくるから、そこで座って待ってて」
母が持ってきた体温計が示した茉莉の体温は、38.4℃だった。ここ三年は見かけなかったような、ひどい高熱。
「日光に行ったときにうつされたのかもね、とりあえず今日は学校お休みして、あとで病院ね」
「うん……」
朦朧とした意識の中朝食を摂り終えたら、ベッドに戻って休むことになった。いつもよりも拍動を強く感じて、そのせいかさっきまで眠っていたせいか、簡単に眠りにつくことができず、こんなことになってまで日光に行った意味を考えては高熱にうなされた。
しばらくしたら母が病院へと連れて行ってくれた。ここまでの熱だと、待ち時間を座って待っているだけでもかなりつらい。
「そうだ、みんなにお土産……賞味期限切れちゃう」
「涼乃ちゃんに渡してこようか?」
「いいの?ありがとう」
診察待ち時間の間、そんな会話をしていた。
軽い検査と診察の末、ただの風邪だと診察された。解熱剤と風邪薬が処方されて、割と早く病院から帰ることができた。体力が限界だった茉莉は、そのままベッドの中へ。熱のせいで体のいたるところが痛む。
いったいどのタイミングで風邪をうつされたのだろうかと今更なことを考えていたら、いつの間にか眠りにつけていた。目が覚めるとすでに午後2時になっていた。午前の時点からもっと熱が上がっているような気がして、体温計を下の階に取りに行こうとしたけど、ひどい眩暈で取りに行けそうもない。結局、茉莉は母に連絡して体温計を取りに来てもらうことにした。母は程なくしてきた。
「ご飯も持ってきたよ……大丈夫!?」
うどんが入れられた器を机に置いた母は、ベッドの横に力なく座っていた茉莉に駆け寄って声をかけた。
「うぅん、あたま、いたい」
体温計からは、今まで見たこともない39.2という数字が映し出されていた。もう驚く余裕もない。
「とりあえず食べれるだけ食べて、すぐ薬飲んで休んで。ママは買い物に行ってくるから……何か食べたいものがあるなら買ってくるよ」
「たぶん、ないよ」
本当は何か食べたいものがあったような気もするが、それを考えるのも、それを言葉にして伝えるのも体力が要りそうで、そう答えた。力なくうどんを口にする。そのたび喉が痛んで、ため息が出た。
食欲があまりなかったのと、のどの痛みで食事もほどほどほどのところで諦めた後、薬を飲んでまた横になった
「どうしてこんなことになっちゃったんだろう」
体力が底を尽きて眠りに着くまで、そんなことばかり考えていた。
服薬の効果がなかなか現れず、その日のうちに熱が下がることは無かった。食事もさほど喉を通らなかったが、これが風邪のせいなのか気分が落ち込んでいるせいなのかよくわからない。
熱が37℃台まで落ち着いたのは、翌日の午後の事だった。返信の事などさほど考えられなかったスマホには、友人からのメッセージが溜まっていた。
『風邪大丈夫?』
『お菓子、茉莉ママからもらったよ とっても美味しかった』
『ノートはコピーして取ってあるから、学校来たら渡すね』
涼乃からはちょっとずつ時間を空けてそう送られてきていた。可愛いウサギのスタンプが、そのメッセージの後に『おだいじに』と言っている。
『心配ありがとう~!』
『熱も下がったし、明後日には学校行けそう』
『ノートもありがとう、とっても助かるよ』
自分でもびっくりするくらい元気そうな文章を返すことができた。それに既読はすぐついて、『無理はしないでね』と返ってきた。そのあと、涼乃とは茉莉がいない間の学校の出来事について会話した。
その会話の合間に結城からのメッセージにも目を通した。こちらは涼乃よりも心配の度合いがうかがえる。
『風邪、大丈夫か?』
『珍しすぎて驚いてた』
『して欲しいことがあったら頼ってくれ、力になるから』
その数時間後に、未読の時間に耐えかねたのか『本当に大丈夫か?』というメッセージが続けて送られてきている。熱にうなされていたとはいえ、今までスマホを見れていなかったことがちょっぴり申し訳なくなってくる。
『大丈夫、ただの風邪だよ 熱ももう引いた』
『明後日には学校行けると思うから、なにか困ったら相談するね』
メッセージの最後には、『ありがとですよ!』と何かのキャラがお辞儀をしているスタンプを送った。こんなスタンプ、いつ買ったのだろう。
結城もそのメッセージにすぐ既読を付けた。
『熱が出る風邪って、ただの風邪じゃないぞ』
『とにかく、無理せずゆっくり休んでくれ』
結城には心配をかけてばっかりだ、なんて思いながら、そのあとは結城とも会話をつづけた。人形焼きを何と呼ぶかとか、そう言う他愛のない会話が、なんとなく茉莉をほっとさせる。
「でも、頼ってって言ったって、何を頼ればいいんだろう」
結城とはもうクラスも別れてしまったし、『心の穴』の問題も頼りようがない。そんな考えがふと頭をよぎって、それに嫌な予感がして、それ以上考えるのをやめた。
ふと思い出して、茜とのメッセージ画面を開いた。
『ごめんなさい、風邪を引いて熱が出ちゃって、当分琴音ちゃんに会いに行けそうにないです』
『琴音ちゃんにもごめんねって伝えてください』
心を痛めながらその二件を送った。病み上がりでも会うことは控えた方が良いだろうし、今は合わせる顔がない。
『ゆっくり休めてる?』
『休めてそうだね。人形焼き、美味しかったよ。』
時間をおいてその二件のメッセージを送ってきていたのは拓也。メッセージに彼らしい簡潔さが表れていて何となく安心する。
『休めたよ!もしかしたらゴールデンウィークよりも休めたかも』
『今度またどこかに行くことがあったらまたお土産買ってくるから、そしたらまたみんなでお茶しよ』
そこまで送信したら、晩御飯の時間になっていた。熱も下がって、食欲も多少取り戻せてはいる。
家族にうつすわけにはいかないので、今日の晩御飯も部屋で一人で食べた。いつも見ているテレビの代わりにスマホで動画を見ていたけれど、それでも家族との会話がないから、食事片手に考え事が進む。
「拓也には『今度』なんて言ったけど、もう出かけたいなんて思えないな」
「もうどうしたらいいかわかんない」
「こんな時、今までどうしていたっけ」
頭の中で暗いことばかり思いついては消えてゆく。これほど落ち込んだことを、茉莉は経験したことが無かった。ため息が1つ、口から出ていく。
ご飯を食べ終わっても、熱が下がって、のどの痛みが取れたその次の日も、光の指さない深海のような気分でいた。ちょっと前は友人の前でこの気分をどう取り繕おうか考えていたが、もうそんなことを気にしている余裕すらない。結局、暗い気分のまま茉莉にとってゴールデンウィーク明け初めての登校日がやってきた。
最近友人たちとは時間が合うことが少なく、その日も茉莉一人で学校へと向かった。
「今は逆にラッキーかも」
昼休みにはどちらにせよ顔を合わせることになるけれど、落ち込んでいる自分を見せる時間はなるべく短い方がいい。そう考えながら、駅を超えて、高校の方へと歩いていった。
教室はちょっとした歓迎ムードになっていた。荷物を置いている間にも、「風邪、大丈夫だった?」「熱もあったって聞いたよ」「みんなで『茉莉ちゃんが休むなんて意外』って話してたんだ」「風見さんがノートをコピーしてくれてるみたいだよ」と、聞き取れる範囲だけでもクラスメイトが次々と話しかけてきた。
そんなクラスメイトと「なんてことのない、ただの風邪だったよ」と愛想笑いで返しながら、茉莉は涼乃の席の方を見やった。どうやら今は席を外しているらしい。ただ気分がちょっと落ち込んでいるだけなのに、涼乃と会ったらどういう会話をすればいいかわからなくて、今いない事に少しほっとした。その涼乃はホームルーム直前に戻ってきて、茉莉に今週分のノートの写しを渡してくれた。「これとこれが現代文で、こっちは英語……」「ほんとうにありがとう」そんな軽い会話をしていたら、ホームルームの時間になって、二人はそれぞれの席に戻った。
その後の授業は、ちょっと上の空な気分で聞いていた。喫緊の課題というほど困ってはいないけれど、心の中に穴がずっと空いていて、それがどうして空いたのか、どうやって埋めればいいのかわからないまま半年も経って、何とか手がかりをつかめそうなところまで来たはずだった。それなのに数日前にそれを台無しにしてしまって、病室にいる友達との約束まで反故にしてしまいそうな状況にまでなっている。そんなことはないはずなのに、「今は何をやっても上手く行かなさそう」というイメージが、脳裏からこびりついて離れない。これからするであろう友人との何気ない会話を想像しても、そう思えてしまう。
そんな上の空の状態で、昼休みまでの時間もただぼんやりと過ごした。昼休み、病み上がりの感覚があって皆に風邪をうつしたら申し訳ないという建前で、いつも空き教室で友人としている昼食にも行かないことを涼乃に伝えた。皆が自分が少し風邪っぽいことなどさほど気にしないということもわかっているので、少し心が痛む。
「いつか話さないといけないのかな、日光のこと」
「気が進まないなあ」
そんなことを考えながら昼ごはんを一人で食べれば、日光で付いた傷がヒリと痛んだ。
その日のそのあとも、日を改めても、風邪が完全に過ぎ去って、空き教室で昼ごはんを食べる日々が戻ってきても、茉莉は同じような沈んだ気分で日々を過ごした。幸い友人たちはさほど日光の話を聞いてこなかったし、関わる機会も減っていたので、落ち込んでいる姿はさほど見せずに済んでいた。それでもこの気分の落ち込みも、『心の穴』への対抗策も見つからないから、この現状を変えることができず、いつの間にか五月は過ぎ去って、梅雨入りの話題が上がるころになっていた。
「『心の穴』をどうにかするのは、梅雨が明けてからかな……」
毎年梅雨になると比較的元気の出なくなる茉莉は、落ち込んだ気分を梅雨の間は解決できないだろうと思って、学校の無い日は大体家から出ない生活を送っていた。雨の多い日和が続くから、「外に出たら濡れて風邪ひくかもしれないし」と自分に言い聞かせて、窓から雨を見ていた。
そんな梅雨の雨が降る休日のある日の朝、いつものように陰鬱とした日を過ごすのだろうと考えていた茉莉の元に、一人の来客があった。
「茉莉、今日空いてる?」
「空いてるけど……急にどうしたの?」
「紫陽花見に行こう!今から!」
傘を差した涼乃が、玄関前に立っていた。




