最終話 奥日光探訪、揚げ饅頭を添えて
華厳の滝は茨城の袋田の滝、和歌山の那智の滝と並んで日本三大名瀑の1つに数えられており、滝壺までの落差は97mと高く、観瀑台までは有料のエレベーターで向かうことができる。もともとは男体山の噴火で流れ出した溶岩が川をせき止めて中禅寺湖が作られたことがこの滝の始まりとされており、発見されたのは今から約八百年前。名前の由来については、諸説あるとされている。
有料観瀑台の料金を払ってエレベーターを待っていた茉莉は、疲労の中でも楽しみにそれを待っていた。日光旅行の計画をほとんど知識のない中立てた彼女でも、その名前くらいは知っているほどだった。ここまで計画が押していても、何とか華厳の滝まではたどり着こうとするほどには。
下ったエレベーターから出て、華厳の滝の解説や本日の落水量を示した電光掲示板が設置されている通路を足早に歩きぬけて、有料観瀑台へとたどり着いた。エレベーターが一度に数十人しか運べないからか、はたまたもう夕方に差し掛かった時間帯だからかはわからないが、東照宮や観光バスのようなどうしようもないくらいの混雑はしていない。
しかし、いざ華厳の滝とご対面した茉莉の表情は曇っていた。
「うーん……」
反応も薄い。
「なんか……思っていたよりも……」
その先の言葉をなんとか取り繕ってみようと試みたが、その尽くが失敗に終わって、ついにその言葉が頭の中に浮かんでしまった。
「しょぼい……」
その日の華厳の滝は、日光の観光パンフレットや観光サイトに載っているような雄大な水量を流しておらず、落ちていく水はひどく細い白糸のように力なく降っているだけだった。展望台から滝までの距離がかなりあるので、その物寂しさは展望台隣の水流に迫力負けしているほど。
ここまで来てこの滝にがっかりして帰りたくなかった茉莉は、なるべくそれっぽい写真だけ撮って帰ろうとズームや広角を駆使して何枚か奮闘して、そのほとんどが失敗に終わって、ため息とともにその場を後にした。エレベーターで上がった後、無料展望台も一応覗いて、結局さほど変わりない光景を目にした茉莉は、もう華厳の滝を去ることにした。
この先、戦場ヶ原や光徳牧場へと向かう余力も時間も無くしてしまった茉莉は、中禅寺湖を少し見て帰りのバスの時間まで待つことにした。華厳の滝から中禅寺湖までは徒歩10分も無いくらいで到着した。道路を股の下に入れた大きな鳥居が見える。
中禅寺湖は先程も述べたように男体山の噴火の溶岩によってせき止められた川で作られた湖で、周囲は25km、水深は125m。四季折々にその景色を変え、そのどれもが美しいことが有名で、日本人のみならず、湖畔にはイギリスやイタリアの大使館別荘跡地があるなど、外国人にとっての避暑地として古くから有名な湖である。湖畔には、様々なタイプの宿泊施設もある。
ボート乗り場も見かけたが、バスを待つ時間はあれどボートを楽しむような時間でもない。その上夕方のこの時間は、五月と言えど日光。少し冷える。
「帰りはまたあの混んでるバスか……」
先程のいろは坂を超えたバスの事を考える。帰りのバスも同じように混んでいるなら、またバスの中で立って日光駅までの到着を待つ必要がある。それを憂鬱に考えていたら、ふとアイデアを思い付いた。
「もしかして、中禅寺温泉バス停より一個前のバス停でバスに乗れば、座って帰れる?」
調べ始めると、その一個前のバス停はちょうどこの中禅寺湖畔の近くにあることが判明した。
「もうちょっとここを散歩したら、もうバス停に行っちゃおう」
と、思いついたアイデアにちょっとだけ浮かれていた時だった。突如茉莉の視界は突如として傾き、そのあとは地面しか映らなくなった。体勢を立て直して辺りを見れば、足元にあった少し大きな石に躓いて転倒したことはすぐにわかった。
「いたた……」
掌には擦り傷がついて、着てきたお気に入りの上着とズボンにもそれぞれ修復が難しそうな穴や傷がついてしまっている。ここまでしてきたことのほとんどが上手く行かなかったことも相まって、口からはため息だけが出ていく。太陽はすでに西の山に隠れて、傷口には冷たい風が吹いた。
もう中禅寺湖にすら近づきたくなくなったから、中禅寺温泉バス停のひとつ手前、立木観音バス停でバスを待った。アイデア通り、到着したバスにはさほど乗客がおらず、バスには簡単に乗車できたうえ、窓際の席にも座れた。
中禅寺温泉バス停で多くの乗客を乗せたバスは、来た道とは違ういろは坂を下っていった。先程のいろは坂とは違い渋滞もさほどしておらず、バスはスムーズに坂を下る。茉莉はまた、カーブに割り振られたひらがなを探していたが、「け」の次を見失ってからは、それを辞めてしまった。先程の転倒でできた掌の傷が、激しく痛んだ。
そこから先、さほど何の印象もないままバスは東照宮も通り過ぎ、終点の東武日光駅バス停で停車した。下車した後猛烈な空腹に襲われた茉莉は、駅前で何か食べれるものが無いかを探した。
「そういえばあたし、時間に振り回されてばっかりでお昼ごはん食べてなかったな」
今日食べた最後のご飯は、出発前に食べた軽い朝ご飯のみだった。
そこにふと、おいしそうな香りが漂ってきた。体が勝手にそっちの方を向く。見れば「あげまんじゅう」なるものを売っている店だった。とにかく何かをお腹に入れたかったから、その店に立ち寄ることにした。幸いなことに、乗る予定の帰りの電車が出発するまであと20分ほどの余裕があった。
あげまんじゅうはゆばと豆乳でできた皮の饅頭をてんぷらのように揚げたものであり、日光でもかなりの人気を持つグルメである。塩を振りかけて食べれば、餡と塩味が程よく合わさったシンプルな美味しさが口の中を満たす。今日は散々だった茉莉も、この時ばかりは少々口元がほころんで、「おいしい」という言葉が口をついて出た。
そのあとはお土産屋で家族と友人、それと琴音に渡すお土産を見繕った。電車が発車するまでという限られた時間の中ではさほど悩むことができず、自分を含めた家族には湯葉、友人にはお茶とともに食べるであろう三猿の人形焼き、そしてギリギリまで悩んだうえで、琴音には眠り猫のストラップを買うことにした。
お土産を買い終わって駅に戻ると、あと数分で電車が発車するちょうどよい時間になっていた。後悔ばかりでその電車に乗るのには後ろ髪を引かれる思いではあったが、もう何もできることは無いので、おとなしくその電車に乗った。クロスシートの窓際席が空いていたから、そこに腰掛けた。
「これは南栗橋行きだから……終点の一個前で降りなきゃ……」
東武日光駅を出た後、疲れで瞼が重くなっていた茉莉は、降りなければいけない時間帯だけを確認して、瞼の重みに抵抗するのを辞めた。
『心の穴』がチクリと痛んで、目を覚ます。確か「栗橋」とか言ってたから、もう降りなきゃ……。
「間もなく終点、南栗橋、南栗橋です。お出口は左側です」
どうやらこの旅は最後まで上手く行かないらしい。一駅ではあるが、見事に終点まで寝過ごしてしまったようだ。
「やばっ」
寝起きというのも相まって、茉莉の頭の中はちょっとしたパニック状態になった。ここからどうやって帰ればいいのか、家族にちょっと連絡しなきゃ、次の電車はどれくらいで来て、今持ってる切符は確か栗橋までだから、越した分の料金も払わないと……。そうやって考えているうちに、電車のドアは空いた。
どうやらここから大宮まで帰るには、電車の本数の関係上栗橋に戻るよりももっと南に行って乗り換えた方が早いようだ。ちょうどホームの反対側にその南へと向かう電車が止まっていたので、半ば勢いで飛び乗った。
寝過ごしたとは言えど、比較的家の近くまで帰ってきているので、一旦落ち着ければすんなりと帰るルートと時間を割り出せたのが唯一の救いだった。この後1回だけ乗り換えを済ませれば、大宮まで帰れる。もう1回寝過ごさないよう、空いている車内でもドアの近くで立って到着を待っていた。
途中春日部駅で乗り換えて、東武野田線で田んぼの景色を見ながらそのまま大宮駅まで戻ってきた。風景はあっという間にいつも見ているようなものへと戻っていく。ボロボロになってしまった服を一瞥したら、乗り越した金額を生産して改札を出て、大宮駅からとぼとぼと家へと歩いた。冷たい風が、どこかの家の夕食の匂いを運んでくる。
「ただいま」
「おかえり。……服大丈夫!?怪我は?」
出迎えた母は、その様子を見るなり血相を変えた。
「手のひらをちょっとすりむいちゃった、それ以外は大丈夫そう。服は……もうダメかも」
自分の手のひら、それから服に空いた穴を見るそぶりをした。
「後で手当てしないと。とりあえず服、着替えてきなさい」
「うん」
二階の自室に戻った茉莉は、安心感からため息をついて、気に入っていた服から部屋着へと着替えた。いまだに、掌はヒリヒリと痛んでいる。破れてしまった服を見て、もう一度ため息。
夕飯にはオムライスが振舞われた。朝、昼と軽い食事だったから、食事そのものを一日ぶりに食べた感覚になる。
「で、どうしてそんなことになっちゃったの?」
「中禅寺湖を散歩してたら……何かの石に躓いちゃって……」
声に力が入らない。
「そう、本当に気を付けてね。出先で大けがしたら大変だから」
「うん……」
左手ほどではないが、右手の傷に当たらないようにスプーンを持つことに神経をすり減らされた。
食べ終わったら、そのあとは入浴。ここでも傷が染みる。手の痛みで気づかなかったが、膝も若干傷がついていて、そこも染みて痛みがあった。
やっとの思いで入浴を済ませたら、母が救急箱を用意して待っていた。
「ごめんね、ちょっと染みる」
そういって消毒液を傷口に。ここでも染みる。その傷跡に絆創膏が貼られた。
「そうだ、湯葉買ってきたよ。パパも呼んで一緒に食べない?」
「そうね、ありがとう」
ほどなくして食卓には再度茉莉の家族が集まって、皿に湯葉が取り出された。茉莉も一口口にする。
「……豆腐?」
茉莉にとっては豆腐とさほど変わらない味にしか感じられず、もう一度食べたいとは思えなかった。両親が「おいしいよ」と喜んでくれているのが彼女とって唯一の救いだったが、何よりも苦労して日光まで行って購入した湯葉に満足感を得られなかったショックが大きい。
両親が湯葉を楽しんでいるのを見届けたら、茉莉はもう自室で寝る準備を始めた。
「今日はなにも上手く行かなかったな」
意識していなくても、体が勝手に縮こまってしまう。
電気を消して、ベッドにいるグレイを抱き寄せた。
「ねぇグレイ、あたし……」
「あたしは、何がしたかったんだっけ」




