12.婚約者の役割
白い霧に包まれて、ゆっくりと歩いている。ここがどこかわからない。足もとの霧だけは虹色に光り、周りにはなにも見えない。
けれど、不思議と不安はない。一歩ずつ足を進めていく度に、道ができるように霧は左右へ広がっていく。少しずつ虹色の霧は白く薄くなっていく。
クリスティーナはそこではじめて、ここが真っ白でなにもない空間だと気がついた。虹色の霧が足もとにたゆたっているだけで、白い霧に見えたのは、延々と続くこの世界の色であった。
どうしたらいいのか、どこへ向かえばいいのか。
ふわりと優しい風が、クリスティーナの頬をかすめた。風が虹色の霧を柔らかくはらっていく。
真っ白な世界に風が通り過ぎると、きらきらと金の粉が舞うようになにかが光って見える。
微かな金色の輝きを見つめていると、クリスティーナの足もとに水が流れてきた。
いや、はじめから水の中にいたらしい。柔らかい水は、虹色の霧に包まれていたときと変わらず、ゆるく足にからんでいるが、濡れる気配はない。金色の風が霧を連れ去り、細波に光を与えていく。
――綺麗――
なのに、クリスティーナは泣き出したい気持ちになる。風が再び彼女を包み込む。
水は消えていった霧と同じようにゆらめいて、きらきらと白い世界を明るくする。
悲しいわけでも辛いわけでもない。優しく綺麗な世界に包まれている。でも、なぜか涙が流れてくる。
頬を伝い出した涙を、風が拾っていく。止まらなくなった涙を、おだやかな風が次々に吹き流していく。
涙が目の前に散っていく様を見て、さらに涙が流れる。クリスティーナは自らの手で、涙をぬぐおうとした。
その手になにかが触れて、彼女は目を覚ました。
「ああ、起こしてしまったか。……涙を……」
クリスティーナの手に触れたのは、ユリウスが持ったハンカチーフだった。夢の中で流した涙は、現実でも頬を濡らしていた。
ユリウスに手渡されたリネンで涙を拭くと、クリスティーナは体を起こした。
バレンシュテット辺境伯家本邸の、クリスティーナに用意された客間の寝室。
少し開けられた扉の向こうの部屋には人の気配がする。おそらくユリウスが信頼する侍女が控えているのだろう。
「ユリウス様、申し訳ありません。ずっとついていてくださったのですか?」
「謝ることはありません。気分は?」
ユリウスは、寝台の脇に置かれた水さしからグラスに水を注いで、クリスティーナの手に握らせる。
水を一口飲むと、喉が渇いていたことに気づいて、そのままグラスの半分まで一息に飲んだ。
「大丈夫です。ありがとうございます」
「いや……」
灯りをしぼった薄暗い部屋の中で、ユリウスの水色の瞳が揺らいでいる。口もとをゆがませて、発する言葉を慎重に選んでいるようすを見て、クリスティーナは先に口を開いた。
「わたくし、気を失ってしまったのですね。どれくらい経ったのでしょう?」
「……少し前に夜会は予定通りに終わりました。クリスティーナ嬢は、慣れない夜会で慣れない酒を口にして、めまいを起こした。婚約者が心配で私はずっとつき添っている、ということになっています。私については事実ですが」
「ご迷惑を……」
「恐ろしい思いをしたのですから」
クリスティーナの謝罪をさえぎって、ユリウスは彼女の手からグラスを引き取った。グラスを置くと寝台の側の椅子にかけて、クリスティーナの手をとる。
ユリウスは彼女の体温と脈を確認すると、手を握ったままほっと息を吐き出した。クリスティーナもされるがままに、ユリウスの手を見つめている。
「ワインによくないものが入っていると、気づいたのですね」
思わず顔を上げたクリスティーナは、眉根を寄せたユリウスにゆっくりうなずいた。
「ギーゼラ様が、ずっとわたくしに向けていた視線を、不自然に外されたのです。なにかを気にしているか、もしくはなにかを隠している、と思いました。だから」
「ワインに分析の魔法を使った」
「はい」
ユリウスは眉間に深いしわを刻み、両手でクリスティーナの華奢な手を包み込む。
「貴女の魔法を甘くみていたようです」
「そのようなことは」
「いや、ワインに混入された毒物を認知できるほどだとは、思っていませんでした」
クリスティーナの手が震えて、ユリウスが顔を上げる。
「毒物だったのですか?」
「なにか、まではわからなかった?」
「ええ、わたくしの魔力ではわたくし自身が知らないものを、認識することはできません。ただ、対象のものを知る人が側にいれば、そのイメージを借りることはできます。ギーゼラ様が気にしていたワインの中身は、よくないものだとわかりました。でも、それがなにか考える時間はありませんでした。ただ、ユリウス様が口にされては、と。……ご存知でいらしたのですね」
ユリウスもまた、動揺を隠せない。明らかに喋り過ぎた、と顔に出てしまっている。
「わたくしが婚約者に選ばれた本当の理由は、今夜のようなことが起こる、とわかっていたからですね?」
うなだれるユリウスにクリスティーナは、言葉を重ねた。
「怒っているわけではありません。ユリウス様とわたくしの縁談は、普通ではありえません。加護のことは確かに難しい事情でしょうけれど、ほかにもなにかあるのでは、と思っておりました」
「申し訳ありません。話しておくべきでした」
「わたくし、いえ、ユリウス様の婚約者の命が狙われると?」
ユリウスが水色の瞳をゆがませる。微かに震え続けるクリスティーナの手を握ったまま。
「面倒な高位貴族との婚姻を避けたかった、という理由も嘘ではありません」
「高位貴族のご令嬢を、危険にさらすわけにはいきませんものね」
クリスティーナの口調は、決してユリウスを責めるものではなかった。淡々と、自身の置かれた状況を理解し、その理由に納得していた。事実を事実として受け入れている、それだけであった。
だが、ユリウスは怒るでも、詰るでもないその態度にむしろ打ちのめされていた。
「陛下と父が、貴女との見合いを持ち出してきた理由はその通りです」
はじめて耳にしたユリウスの頼りなくか細い声に、クリスティーナは驚いて、彼の水色の瞳を見つめた。
「言い訳になります。私は弱い立場の人を、囮にするような方法を取りたくはなかった。何度か会って断るか、断ってもらうように進める間に、別の方法を考えようと思っていたのです」
ユリウスは大きく息を吐くと、クリスティーナの濃い琥珀色の瞳を見つめる。
「私は欲をかいてしまったのです」
「欲?」
「この件が上手く片づけば、本当に貴女を妻にすることができるかもしれない、と」
クリスティーナはまばたきをして、ユリウスの言葉を待つ。
「父は叔父のことが解決したら、王家に連なる家か公爵家あたりの姫とあらためて、と考えているようでした。……私はこの話を利用すれば、そのまま婚約を継続して、貴女と結婚できるかもしれない、と」
クリスティーナも詰めた息を吐き出した。たくさんの話が、頭の中でぐるぐると渦を巻いている。
バレンシュテット辺境伯や国王は、ユリウスの婚約者が害されたなら、ノルトガウ子爵を糾弾する材料にするつもりだった。
そのためには、危害を加えられると問題になる令嬢を婚約者にはできない。
しがない下級官吏の娘、万一があっても泣き寝入りするしかないアンハルト男爵家のクリスティーナは、適任であった。
「貴女のことを調べて興味を持ち、とても大切に愛されているご令嬢だとわかりました。私は貴女がご家族のことを話す笑顔がまぶしく、うらやましかった。そして貴女がその笑顔を、私にも向けてくれればどれほど幸せだろう、と考えてしまったのです」
ユリウスは、真っ直ぐにクリスティーナを見つめる。
昨日までなら、クリスティーナは真っ赤になって喜んでいたかもしれない。それとも、素直に信じることはできなかっただろうか。
今、ユリウスの言葉はクリスティーナの心に届いたが、純粋に喜ぶことはもうできない。そして、彼女自身の想いを伝えることも、できなくなってしまった。
「父には、貴女を守ることができたら、本当に結婚を申し込みたい、と話して許可はもらいました。ですが、こんなことになってしまった」
「わたくしが、余計なことをしてしまったから……」
ユリウスは力なく首を横に振った。
「そうではないのです。私はギーゼラの器も侮っていました。己の器を過信していたのです」
ユリウスの手はクリスティーナを離さない。クリスティーナもまた、ユリウスの手を握り返す。
「あれが転移の魔法を使えるとは、思ってもみませんでした」
転移の魔法は、精霊術士や魔術士が組んだ魔法陣に魔力を注ぎ、陣に載せた物質を転移させる術である。ただし、その方法で人を送ることはできない。
通常、魔法陣に乗った生き物は、空間を転移することなくその場で命を失うか、転移先の魔法陣に現れることなく消え失せる。
ただし、アンティリアの王族に限っては魔法陣を使うことなく、身ひとつで望む場所に転移することができる。また、『王家の精霊石』を用いれば、人が魔法陣で転移することも可能である。
王族以外の貴族では、物質を転移する魔法を使えるだけの器をもつ者すら多くはない。
しかし、ギーゼラは隠し持った魔法陣を用いて、毒味の済んだワインに、毒薬を転移させたのである。
「貴女が見たギーゼラの不審な動きは、転移の魔法を使っていたときのものでしょう。あれの器では、視認できる範囲での転移がせいぜいだと思います。ですが」
「ドレスの隠しから、手元のグラスまでなら充分ですわね」
クリスティーナは声を震わせて、なにが起きていたのか理解した。
「私の甘さで貴女を危険な目にあわせてしまった。本当に申し訳ありません」
「でも、どうしてそこまで。わたくしは貴族社会とは無縁の家に生まれましたから、難しいことはわかりませんけれど……」
「叔父がバレンシュテットを手に入れるには、私とギーゼラを結婚させるしかないからです。以前、叔父は私を廃嫡させるように動いていました。しかし、それは王家の怒りを買う。その上、叔父の子はギーゼラだけです」
ロイドルフ自身が、バレンシュテット辺境伯となることは、もう叶わない。ギーゼラがユリウスに嫁いだとしても、それは同じなのではないか。クリスティーナは疑問を口にする。
「でも、ユリウス様がバレンシュテットを継ぐことは、変わらないでしょう? 子爵様のなさりたいことがわかりません」
ユリウスはうなずくが、クリスティーナの言葉を肯定するものではない。
「叔父は私がユリウスとアーダルベルト、ふたつの人格に分かれていると思っています。私がそう仕向けたことではありますが。そして、アーダルベルトの方が御しやすいと考えている。金の瞳であるときに言われたことがあります。『お前がバレンシュテットを手に入れればよい』と」
クリスティーナの琥珀の瞳が、揺らぐ水色の瞳を捕らえ、ユリウスの表情からなにかを探そうとする。
「私が面倒なことは嫌いだから、ユリウスにすべて押しつけているのだとこたえると、面倒は自分が引き受けてやるから、自由にすればよいと言われました。ユリウスを表に出さず、アーダルベルトとして、と」
ユリウスの顔色が白く、儚げにみえる。苦しそうな表情がクリスティーナの心も締めつける。
「アーダルベルトとしては、その話に興味がある態度でいました。叔父は、ユリウスがそれを避けるために、貴女との婚約を進めた、と思ったはずです。貴女を害し、アーダルベルトを己の駒として、ユリウスを封じるように仕向けたかったのでしょう」
「少なくとも子爵様にとっては、人を殺めるほどのことなのですね。わたくしには、とても理解できません」
ユリウスは一度手を離すと、左手だけをまたクリスティーナの手に重ねて、右手で栗色の前髪をかき上げた。
「叔父は、二十年前に私の母を毒殺しています。おそらく今回と同じ毒を使って。あの男はもうすでに人を殺めることに、躊躇はないのです」
クリスティーナの目が大きく見開き、琥珀の瞳があらわになった。




