13.二十年前
ユリウスの母ジークリンデ・ベルタはその頃、体調を崩しがちになっていた。第二子を懐妊したのである。
食欲がなくなり、口にしたものをもどしてしまう。悪阻でつらそうな母を、幼いユリウスも心配していた。
ある日、ジークリンデの実家であるヘルスフェルト伯爵家から、焼き菓子が届けられた。伯爵家の料理長の作るその菓子が、彼女の好物であることは皆が知っていた。
届けた者は確かにヘルスフェルト伯爵家のメイドで、ジークリンデの侍女もよく知っている娘だった。
伯爵夫人がジークリンデを心配して、料理長につくらせたのだ、という話を誰も疑わなかった。
侍女はお茶を用意して、ジークリンデとユリウスの前にその菓子とともに並べた。母と息子は笑顔で皿に手をのばした。
久しぶりに母と過ごすお茶の時間を、ユリウスはとても喜んだ。なによりジークリンデが嬉しそうに好物を口にする姿を見て、子どもながらに安心したのである。そして、ユリウスも手にもった菓子を口に運んだ。
ほんの少しの時間が、母子の運命を分けた。ユリウスが小さな一口を飲み込んだとき、先にひとつを食べ終わったジークリンデの顔から血の気が失せた。
血を吐きながら、ジークリンデはユリウスの手から菓子をはたき落とした。ユリウスは母にすがりつくように倒れた。
侍女の悲鳴が邸に響き渡り、すぐに医師が呼ばれたが原因はわからなかった。
毒の正体は、西の森に住む魔術士によって判明した。ジークリンデとユリウスを救うべく、オットーが呼び出したその魔術士は、日頃は人とかかわることを避けて暮らしている。
だが、このときはオットーの召喚に応じて、バレンシュテットの本邸に駆けつけた。しかしながら、ジークリンデと赤子の命をつなぎ止めることは叶わなかった。
毒はヴラジエン王国にしか生息しない植物から生成される、アンティリア王国には存在しないものであった。
一定の時間が経つと毒性を失う性質があり、魔術士がそれと気づかなければ、判明することはなかっただろう。しかし、それでも証拠は得られなかった。残った菓子からは、毒物を抽出できなかったのである。
菓子を届けたメイドは姿を消し、彼女の実家の両親も行方不明となっていた。ヘルスフェルト伯爵家の料理長は、メイドからジークリンデに頼まれたと言われて、菓子を焼いて渡したと証言した。
オットーは、ロイドルフがヴラジエン旧王家の残党に取り込まれたことを理解した。
当時、ノルトガウ子爵夫人も懐妊していた。ヴラジエンの正統な後継者が生まれることを望む者たちが、ロイドルフをそそのかしたのだ。
ユリウスは五日間、生死の境をさまよったが、一命をとりとめた。目覚めてからもしばらくは、意識が朦朧とした状態が続いた。
その間、瞳の色は水色にも金色にも変わり、その度にうわ言を繰り返すようすは、人が変わったようにも見えた。
それまで、ユリウスにふたつの加護があることは、アンティリア王家の命令により秘されていた。
瞳の色はジークリンデの魔法によって、常に水色に見えるよう装われていた。
ジークリンデが亡くなり、魔法は解けたがユリウスの命も危険な状態が続いていたため、あらたに魔法をかけることはできなかった。
見舞いの体であらわれ、寝室に乱入したロイドルフは、そのときはじめてユリウスの器が、特殊な加護を受けるものだと知った。
その場で、不可解な加護をもつことを非難しはじめたロイドルフに、オットーは怒りをあらわに殴りかかったが、家令が身をていして押し留めた。
ロイドルフが仕組んだのだと誰もがわかっていたが、それを証明するものはなにもなかった。
かろうじて理性を取り戻したオットーは、そのときできうる限りの牽制をした。
「ユリウスの加護については、国王陛下もご存知のことだ。その上で、バレンシュテットの後継者はユリウスだと決まっている。覚えておけ!」
次になにかあれば、ロイドルフが疑われるだけにとどまらず、バレンシュテット辺境伯家の存立にかかわる可能性がある。
少なくとも、国境の要衝で不祥事が起こることを国王は許さない。
国王がユリウスの器について承知の上で、秘匿するよう命じたのは、王家の手駒とするためである。
ロイドルフの欲するものが別のところにあろうとも、アンティリア王家と事を構える覚悟はなかったらしく、このときは引き下がった。
結局、ノルトガウ子爵家には男子が生まれなかったこともあり、ロイドルフはその後、アーダルベルトを懐柔する策へと切り替えたのであった。
「表向きはユリウスは相応しくない、と言いながらアーダルベルトにはお前が継ぐべきだ、とけしかけてきた。ユリウスを封じ、アーダルベルトとギーゼラを結婚させる。そのときには父上も亡き者とするつもりだろう。そしてバレンシュテットを手にして、ヴラジエン旧王家を復興するのかな。そのような夢物語を描いている」
あまりのことに、クリスティーナは言葉を失う。物語を聞かされているように、現実味がない。
だが、ワインから感じたおぞましい気配。毒物だといわれれば、あの嫌悪感にも納得がいく。
「申し訳ありません、わたくしにはとても現実のお話とは思えなくて」
「謝るのはこちらのほうだ。貴女はこのように、醜悪な場所とは無縁であったのに」
ユリウスの苦い表情には、クリスティーナに対する申し訳ない気持ちと、つらい過去を思い出した苦悩が含まれている。
「人目のある場で、あのような蛮行に及ぶとは思わなかった。しかも、ギーゼラにさせるとは。焦ってのことか、あるいはキッテルやアルンシュタット卿に罪をきせるつもりであったのか……。そこまで愚かな人間ではなかったはずなのだがな。なにに狂わされてしまったのだろうか」
ユリウスは、両手でクリスティーナの右手を持ち上げた。
「貴女を守るという、父との約束を果たせませんでした。私には、貴女に結婚を申し込む資格はありません。すぐに婚約を解消することはできませんが、貴女にこれ以上の危険が及ばないようにします、必ず」
「そのようなこと……、わたくしは大丈夫ですわ。ユリウス様に守っていただきました」
クリスティーナの本心だった。しかし、ユリウスはもう心を決めてしまったようである。静かに首を横に振った。
「貴女を恐ろしい目にあわせてしまった己を、許せないのです。ありがとう。短い間でしたが貴女が婚約者でいてくださって、うれしかった」
ユリウスの唇が、クリスティーナの手に寄せられる。ほんの一瞬触れたそれは、驚くほど冷たかった。
ユリウスは手を離すと、クリスティーナの背に腕をまわして寝台に横たえた。
「休んでください。思っている以上に負担がかかっているはずです。心にも体にも」
ユリウスはクリスティーナの額を撫でるように、しかし実際には触れずに、手を動かした。
淡い水色に、きらきらと金色の砂が舞い散る景色が視界を覆い、クリスティーナは眠りに落ちた。
ユリウスは眠った彼女の額に、今度は直接触れ、クリスティーナのくすんだ金髪をなでた。手から滑り落ちた髪をしばらくながめると、ユリウスは静かに部屋を後にした。
翌日から、ユリウスはクリスティーナの前に姿を見せなくなった。




