(3)
数名の顔見知りに声を掛けられ、その度に笑顔で返しながら、萌は3階分の階段を昇る。
辿り着いた場は薄暗く埃っぽい。目の前に聳え立つ錆付いた屋上のドアを開けると、一気に心地よい風が流れ込んだ。
眩しさに思わず目を細める。恐る恐る開眼すると、広がる青空が飛び込んできた。
快晴。
干上がった屋上は上からも下からも萌の汗ばんだ肌をヒリヒリと焼く。構わず、萌は踏み込んだ。
歩く事数秒。壁の向こうへひょこっと顔を出すとすぐに、無造作に放り出された二本足が視界に飛び込んできた。相変わらずのその様子に苦笑しつつ歩み寄る。
ドアの開く音やら、足音なんかが聞こえただろうに、その人物は目を閉ざしたまま壁にだらしなく凭れ掛かっていた。
「……寝てるの?」
そっと声をかけてみたが返事がない。僅かな風に少し伸びた黒髪が揺れる。
少し考えてから、萌はその隣に腰を下ろした。
屋上唯一の日陰ゾーンであるこの場所は、想像よりもずっと居心地が良かった。冷んやりとした冷たい壁が心地よい。じっとしていると、やがてそよ風が吹いて萌の髪を攫った。成る程。ここは風の通り道なんだ。萌は少し感心する。中庭の木陰より校舎内より、この男が居る場所はどんなにか居心地がよかった。
相田純平は幼馴染みだ。
というより、正確には家族に等しい。
萌が幼い頃、外資系の会社に勤めている両親の短期の海外赴任が決定した。迷いに迷った挙句に両親は萌を隣の相田家に預けた。それから1年もの間、萌は相田家の一員――純平の姉として純平の面倒を看ていたのだ。
その後、純平の母が交通事故で亡くなり、萌は再び自宅で暮らすようになった。両親は一時帰国した後海外に戻り、当初短期となっていた海外赴任は延長が決定する。萌の面倒は田舎から出てきた祖父が看てくれるようになった。今でもそれは変わらず萌が帰宅すると出迎えてくれるのは萌の祖父一人だ。日本よりも海外生活の方が肌に合っているという両親はしきりに萌に渡米を薦めてきたがこれを萌は幾度となく突っぱねてきた。
元々萌は好奇心が強い。大好きな両親の誘いを断ったのは、海外生活に不安を感じたから、とか、友達と離れるのが嫌だったから、といったオーソドックスな理由ではなく――偏に、隣で寝ているこの男が危なっかしくて心配だったからである。
「……なんだよ」
ゆっくりと流れゆく雲を眺めていると、横から不機嫌極まりないといった感じの声がかかった。
男の子にしては高くて、なんだか耳に残る声。こいつにあのアーティストの歌なんかを歌わせたら、さぞかしうっとりするだろうな、……歌唱力さえ具わっていれば。
「起きてたの」
「起こされたんだよ。っつうか、おまえ。修二に会わなかったのか?」
「会ったよ。会ったから、純平に文句言いに来たの」
「………………は?」
ずっと閉じていた瞼が開く。純平は瞼をしばたたかせた後、半目で萌の姿を捉えた。ちゃんとすれば可愛い顔をしているのに、残念ながらこの男は四六時中面倒臭そうなしかめ面をしている。
立ち上がった萌はくるりと振り返ると腰に手を当て、キッと純平を睨んだ。
「修二君を、泣かせるな」
日頃純平を震え上がらせている輪花の真似をしたつもりなのだが、いまいち迫力が伴わない。
「…………っつうか。女のセリフかよそれ……」
「幼馴染みとしての忠告。あのね、純平。親友は大事にしなくちゃ駄目なんだから」
「親友なんかじゃない。修二が付きまとってくるだけだ」
「……それ。他の子――特に輪花ちゃんに言ったら殺されるよ?」
「………………う」
その光景がリアルに想像できたのだろう。萌の言葉に純平は僅かに顔を青くした。
「ったくもう……もう少し愛想ってものを身につければ純平だってきっとモテるのに。それこそ修二君に弟子入りすれば?」
「そんなの要るんならモテなくてもいい」
「…………もう〜」
純平ってばいつからこんな、歯がゆい程の無気力人間になってしまったんだろう。幼稚園の時の……泣き虫甘えっ子で可愛いかった頃とはまるで別人だ。
「っつうか、万一モテた所で。体質が治らなきゃしょうがないだろ」
日頃から異様な程運の良い自分とは正反対に、純平はどういう訳だか、ツイてない。
そのおかげで、特に恋愛方面において彼はまるでダメな男に成り下がってしまう。
というのも、運が悪すぎる。偶然が重なった不幸な事故に襲われる確立が驚く程に高いのだ。
スポーツで決めてかっこいいーと思った次の瞬間、他所のボールが飛んできて顔面強打したり。
告白しようと意気込めば当然の如く邪魔が入ったり。
いざデートに行くにも、植木鉢が振ってきたりマンホールに落ちたり、とにかく待ち合わせの場所まで無事に辿り着けないという有様。
やさぐれてしまうのも解る…………かな。少しは。
……でも。
風が吹き、揺れる栗色の髪が、俯いた萌の表情を隠す。
「…………純平がそんなんだから……」
とにかく。
なんでもいいから、早く、
しっかりしてもらわなきゃ……とても困る。
困るんだよ。本人より、誰より……わたしが。
「なんだよ?」
純平は不思議そうに呟くと、上半身を起こして胡坐をかいた。
じっと萌を見上げている。
その邪気のない表情に、僅かにざわついた心が鎮まるのを萌は感じた。
全く、らしくない。……人のせいにするなんて。
「なんでもないよ、純平の馬鹿」
「は? ……ちょっと待て。なんで今の会話の流れで、俺が馬鹿呼ばわりされなくちゃならないんだ?」
「馬鹿馬鹿ド馬鹿」
「どばかって……輪花の口癖だろそれ……。っつうか、おまえに言われる筋合いは……」
「あるの! ほら。もう予鈴鳴ったよ。次の授業ミキティなんだから。遅れたら恐いんだからっ もうフォローなんてしてあげないからね!」
「あ、もうそんな時間か……。って、ちょ……、待てよ……っ」
「待たないよーだ」
喧騒が遠ざかり、最後に錆付いた音が響いてドアがゆっくりと閉まる。
何事も無かったかのように風は吹き。日はゆっくりと……しかし一瞬たりとも止まらずに進んでゆく。
それぞれの思惑が絡まり、想いが集結する――
――あの刻に向かって。
end




