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曹雪芹の波乱の生涯と『紅楼夢』との「同化」の謎

挿絵(By みてみん)

題:『柳夢憶』

江南の夢、柳は揺らぐ

帝の寵愛、花と散りて

富貴は過ぎ、今は独り坐す

筆に託すは、尽きせぬ紅の涙  


曹雪芹へのこの詩の意図:

「江南の夢、柳は揺らぐ」: 曹雪芹が幼少期に過ごした江南の栄華と、絵に描かれた柳の木を重ね合わせ、過去の「夢」のような日々を回想する情景。柳の揺らぎは時間の流れと人生の儚さも示唆します。

「帝の寵愛、花と散りて」: 康熙帝の寵愛を受けていた曹家の絶頂期が、花のように華やかに咲き、そして散っていった没落の運命を表現します。

「富貴は過ぎ、今は独り坐す」: 没落後、貧困の中で孤独に生きた晩年の曹雪芹の姿、そして絵の中で蓮の花と共に静かに座る彼の様子を重ねます。

「筆に託すは、尽きせぬ紅の涙」: 『紅楼夢』の執筆に込めた彼の情熱と、失われた栄華、愛する人々への追憶、そして作品全体を覆う無常観や悲哀を、「紅の涙」という言葉で象徴的に表現します。


【しおの】


『紅楼夢』が中華文学史上不朽の名作として輝くのは、その物語の深遠さだけでなく、作者・曹雪芹そうせつきん自身の波乱に満ちた生涯が、作品と分かちがたく結びついているからだと言われます。「曹雪芹イコール賈宝玉(賈家の御曹司)」、あるいは「曹雪芹の生涯そのものが『紅楼夢』である」とまで言われるその謎を、彼の生平を辿りながら詳しく解明していきましょう。


曹雪芹の生平と没落

曹雪芹は、清朝の康熙帝から雍正帝、乾隆帝の時代を生きた人物です。彼の家系である「曹家」は、実に栄華を極めた名門中の名門でした。

康熙帝の寵愛と江南での栄華(幼少期)

 曹家は、康熙帝の生母の縁戚にあたる「内務府包衣ないむふほうい」という特殊な身分でした。これは皇帝直属の奴僕(奴隷ではない)を意味し、皇帝に最も近い存在として絶大な信頼と権力を持っていました。

 彼の曾祖父・曹璽そうじ、祖父・曹寅そういんは、代々「江寧織造こうねいしょくぞう」という要職を担いました。これは清朝が江南に設置した三つの織造(その他に蘇州織造、杭州織造)の一つで、皇帝の衣料品や宮廷の調度品を管轄するだけでなく、皇帝の江南巡幸の際には行在所(あんざいしょ、仮の宮殿)を提供し、その費用を管理する役目も負っていました。さらには、各地の情報を直接皇帝に伝える密偵のような役割も担っていました。

 特に祖父の曹寅は、康熙帝が幼少期に書斎で学んでいた時の「伴読(ぱんどく、学友)」であり、康熙帝からは「この従兄弟」と呼ばれるほど深く寵愛されていました。康熙帝が江南に六度巡幸した際、すべて曹家が迎賓を担当したことからも、その絶大な信頼と財力がうかがえます。

 曹雪芹自身は、この祖父の時代か、あるいはその絶頂期を過ぎた後の、まだ繁栄を謳歌していた時期に生まれたと考えられています。彼は江南の豪奢な邸宅で、何不自由ない裕福な幼少時代を送りました。


雍正帝への代替わりと家の没落(青年期)

 しかし、康熙帝が崩御し、雍正帝が即位すると、曹家の運命は暗転します。雍正帝は先帝の時代の腐敗を一掃し、綱紀粛正を断行しました。

 曹家は、長年にわたる江寧織造としての職務の中で、巨額の負債を抱え込んでいました(巡幸費用の建て替えや、宮廷への貢ぎ物などで、多額の私財を費やしたと言われます)。

 雍正5年(1727年)、曹家は家産を没収され、一族は北京へ追放されます。これは「科差(かし、公金横領や不正行為)」を理由とされましたが、実際には康熙帝の遺産を巡る権力闘争や、雍正帝の改革の一環であったと考えられています。

 曹雪芹は、この没落の瞬間に立ち会うか、あるいはその直後に青年期を迎えたとされます。江南の華やかな生活から一転、貧しい北京の裏町での生活を余儀なくされ、この落差が彼の心に深い刻印を残しました。


貧困の中での執筆活動(晩年)

 その後、曹雪芹の足取りは史料が少なく不明瞭ですが、北京郊外の西山(現在の北京植物園の近く)の貧しい借家に住み、生涯の大半を不遇の中で過ごしたと伝えられています。

 彼は、かつての栄華の記憶と、没落後の苦難、そしてそれらを見つめる中で培われた人間観察の眼差しを土台に、不朽の長編小説『紅楼夢』の執筆に没頭しました。

 しかし、生前に完成させることはできず、親しい友人たちが手稿を回し読みする中で、物語は一部加筆されたり、流布したりしました。

 彼は『紅楼夢』の大部分を完成させた後、貧困と病気の中で、志半ばで世を去ったと言われています。その死没年も明確ではありませんが、乾隆27年(1762年)頃と推測されています。


『紅楼夢』との「同化」の謎解明

曹雪芹のこの波乱の生涯が、『紅楼夢』と「同化」していると言われる理由は、物語の随所に作者自身の経験や感情が色濃く反映されているからです。


賈家の栄華と没落の描写

 『紅楼夢』の物語は、賈府という名門貴族の栄華から没落までを克明に描いています。これは、まさに曹家自身の盛衰と完全に重なります。

 特に、康熙帝の巡幸を思わせる「元妃省親(げんひしょうしん、賈元春が実家へ里帰りする場面)」や、賈家の贅沢な生活様式、複雑な親族関係などは、曹家が経験した江南の豪奢な生活と宮廷との繋がりを彷彿とさせます。

 物語後半の賈家の没落、家産の没収、一族の離散は、曹家が雍正帝によって経験した悲劇そのものです。曹雪芹は、自らの体験を通じて、その喜びと悲しみを肌身で知っていたからこそ、これほどまでに説得力のある描写ができたのです。

賈宝玉の自己像との重なり

 主人公の賈宝玉は、裕福な環境で育ちながらも、世俗的な出世や功名に興味を持たず、女性たちとの精神的な交流を尊ぶ人物として描かれています。これは、没落後の曹雪芹が、かつての栄華を振り返り、その虚しさや無常を感じた心情と重なります。

 宝玉の周囲には多くの美しい女性たちがいて、彼を愛し、彼もまた彼女たちを愛しますが、最終的には皆離散していきます。これは、曹雪芹が幼少期を過ごした曹家の広大な邸宅で、多くの親族や侍女たちに囲まれて育った記憶が反映されていると考えられます。その華やかな日々が失われた後の喪失感は、宝玉が味わう苦悩と通底するでしょう。

 宝玉が作中で詩を詠む才能を持つことや、女性たちの繊細な感情を理解する点は、作者自身の文学的才能や感受性の表れと見ることができます。


無常観と仏教・道教思想

 『紅楼夢』全体を貫くのは、栄華は必ず衰え、人生は儚いという「無常観」です。これは、曹雪芹が経験した劇的な人生の落差から必然的に生まれた思想です。

 物語の冒頭と結末に登場する「跛足の道士」や「瘋癲ふうてんの僧」といった超越的な存在は、曹雪芹自身が人生の苦難の中で得た悟りや、世俗を超越した視点を象徴しています。彼らは、世俗の栄華や執着の虚しさを説き、宝玉を「太虚幻境たいきょげんきょう」へと導きます。これは、作者が現実の苦難から逃れ、精神的な世界へと傾倒していった心境を表していると解釈できます。

「真事隠去、假語存焉(真事を隠して、仮語を存す)」

 『紅楼夢』の冒頭には、「真事隠去、假語存焉」という言葉があります。「真実を隠し、仮の言葉を存する」という意味で、作者自身の人生経験が物語の根底にあることを示唆しています。

 物語の舞台である「金陵十二釵きんりょうじゅうにさ」の女性たちの運命は、華やかな外見とは裏腹に、悲劇的な結末を迎えます。これは、曹雪芹が実際に目にしたであろう、没落する名門の女性たちの悲哀を昇華させたものと考えられます。

 曹雪芹は、自らの壮絶な人生経験を土台に、『紅楼夢』という虚構の物語を紡ぎ出しました。しかし、その虚構の中には、彼自身の血と涙が染み込んでおり、登場人物たちの感情や運命は、作者自身の魂の叫びと深く共鳴しています。だからこそ、『紅楼夢』は単なる物語に留まらず、作者の魂そのもの、つまり彼の「生涯が同化した」作品として、現代に至るまで多くの人々を魅了し続けているのです。彼の波乱の生涯を知ることは、『紅楼夢』の真髄に触れるための不可欠な鍵となります。


科挙かきょは、中華文化の根幹をなす重要な制度であり、中華歴代朝廷の歴史、社会、文化に計り知れない影響を与えました。

以下に、科挙の詳細について、その歴史、制度、および文化的意義を掘り下げて解説します。


中華文化の根幹:科挙かきょ制度の詳細


I. 科挙の歴史と意義

 1. 歴史的背景

| 時代 | 期間 | 概要 |

| 起源(隋) | 587年頃 隋の文帝もんていが九品中正法を廃止し、秀才・明経などの科目(学科試験)で人材を登用する制度を始めました。これが科挙の原型とされます。

| 確立(唐) | 618年~907年 | 制度が整い始め、進士しんし科が最も権威ある科目となります。詩賦(詩や散文)の才能が重視されました。

| 全盛と完成(宋・明・清) | 960年~1905年 | 庶民に開かれた官僚登用制度として確立。四書五経に基づく儒学の知識を問う形式に統一され、八股文はっこぶんという厳格な作文形式が導入されました。

| 廃止 | 1905年 清の光緒こうしょ帝により、近代化の一環として廃止されました。約1,300年続いた歴史に幕を下ろしました。

 2. 科挙の意義

 平等な機会の提供: 門閥貴族による独占を打破し、理論上はすべての庶民に、学問を通じて高位高官になる機会を与えました。

 社会の流動性の維持: 貧しい農民の子でも、科挙に合格すれば家族・一族ごと社会的地位を向上させることができました(士大夫階級の誕生)。

 儒教思想の確立: 儒教(特に朱子学)が国家の正統なイデオロギーとして定着しました。


II. 科挙の試験制度(明・清代)

科挙は、地方から中央へと進む段階的なピラミッド構造になっていました。

 1. 予備試験(童試と府試・県試)

| 試験名 | 受験資格 | 合格者 |

童試どうし | 制限なし 生員せいいん または 秀才しゅうさい と呼ばれ、初めて士大夫(知識人階級)の末席に加えられます。

 2. 地方試験(郷試)

| 試験名 | 実施場所 | 合格者 |

郷試きょうし | 各省の省都 挙人きょじん と呼ばれ、正式な官僚候補となります。「進士」に合格するまでの間、地方の役職に就くこともありました。

| 補足 | - | 3年に一度、旧暦の秋に実施されたため、「秋闈しゅうい」とも呼ばれました。

 3. 中央試験(会試)

| 試験名 | 実施場所 | 合格者 |

会試かいし | 京城(北京) 貢士こうし と呼ばれ、最終試験である殿試への参加資格を得ます。

| 補足 | - | 郷試の翌年の春に実施されたため、「春闈しゅんい」とも呼ばれました。

 4. 最終試験(殿試)

| 試験名 | 実施場所 | 概要 |

殿試でんし | 皇居(宮廷) | 皇帝自らが最終面接・採点を行う試験。順位を決定するのみで、落第者はいません。

| 最終順位 | - 状元じょうげん(1位)、榜眼ぼうがん(2位)、探花たんか(3位)が特に名誉とされ、合わせて「三鼎甲さんていこう」と呼ばれました。


III. 試験の内容と特徴

 1. 八股文はっこぶん

科挙の合格に最も重要視されたのが、この「八股文」という特殊な作文形式です。

 定義: 儒教経典(四書五経)の一節を題材とし、起承転結、対句など、八つの段落構成が厳密に定められた論説文。

 目的: 受験者の知識、理解力、論理的思考力、そして形式に従う厳格な規律性を評価するために用いられました。

 2. 厳格な公正性

科挙は公平性を保つための厳格な措置が取られました。

 糊名こめい: 受験者の名前を塗りつぶし、代わりに番号を振って採点する匿名制度。

 謄録とうろく: 受験者が提出した答案を、清書係が別の紙に書き写す制度。これにより、筆跡による不正や、採点官が受験者を特定するのを防ぎました。

 隔離: 試験期間中、受験生は貢院(こういん、試験場)に閉じ込められ、外界との接触が一切遮断されました。


IV. 科挙が中華文化に与えた影響

 価値観の形成: 「万般下等、唯有読書高(すべての職業は劣るが、ただ読書のみが尊い)」という価値観が浸透し、教育が貧困からの脱出の唯一最大の手段となりました。

 文学・芸術: 多くの文人官僚が科挙を通じて輩出され、詩、書、画、戯曲などの文学・芸術が発展する基盤となりました。

 『紅楼夢』の背景: 貴族階級の賈家でさえ、賈政が息子(賈宝玉)に科挙での立身出世を強く望むなど、科挙の価値観が社会全体を支配していたことが物語の背景となっています。

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