第89話 定着する渾名(中)
誤字報告ありがとうございます!
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緋威篤志がまだ、中学二年の頃だった。
『どうして辞めるなんて言うんだよっ!』
今でもその時の光景は鮮明に覚えている。
廃れた倉庫にしか見えない、八坪の工房。年季の入った作業台の前で、苦笑を浮かべて座る父親の姿。
いつもであれば、作業台の前に立てば見違えるほど活気に満ちていた。
しかし、今はどうだろうか。
弱弱しく椅子に体重を預け、心配をかけないようにと笑顔を繕っている……同一人物とは思えないほど、弱弱しい姿だった。
『前々から考えてきたことだ。……今時、こんな小さな個人経営では食べていくことさえできない。それに、俺ももう若くはないんだ。この辺りが潮時だろう』
言葉はしっかりと聞こえる。
だが、その意味が理解できず、何度も何度も脳内を反芻する。どれだけの時間が経ったのか分からない。
しばらくしてから、震える声で父親に尋ねた。
『だって、この前は大口の取引ができたって……』
『……』
返答はなかった。
ただ、視線を下げて首を横に振るだけ。
『そんなっ……そんなバカな話があるかよ!』
頭の中では、叫んでも無駄だと理解できる。
理解はできても、だからといって自制ができるほど大人ではなかった。
『お前にはまだ難しいことだが、それが社会というものだ。向こうだって、慈善事業じゃない。もっといい条件が見つかれば、そちらに行くのは当然だ』
『父さんは……。父さんは、それで満足なのかよ』
『……』
あぁ、なんでこの世界はこれほど理不尽なのだろうか。
自分にはどうしようもないことを要求され、それに答えなければすべてを失う。力がなければ、希望どころか夢さえも持たせてはもらえない。
父とて、この結果を受け入れているわけではない。
弱々しく座っているが、その握り締められた手がしきりに震えている。理不尽に対して怒りをこらえているのだと分かった。
怒り狂っているはずだが、それを表に出さず堪えている。自分よりもよほど悔しい思いをしているはずだ。
ただ理不尽に対して喚き散らすのは子供だ。大人であれば、それを飲み込んで次に何をするべきかを考える。
理屈では理解できる。
その次の行動こそが夢を諦めることなんだと。
だが、それを頭で理解できたとしても納得はできなかった。だからこそ、無駄だとは分かっていても幼い子供のように力の限り喚き散らした。
『いつも言ってただろ! いつか、この工房を広くして! それでもって、デバイスを一から作り上げるって! 店頭に自分の作ったデバイスが並んでいるのを見るのが、自分の夢なんだって! それを諦めるっていうのか!』
『そう、だな……』
勢いよく作業台に手を叩きつける。
そんなことをすれば、まるで鬼のような形相を浮かべたものだが、寂しそうに笑うだけだった。
(ふざけるなよ。なんなんだよ、その表情は。まるで、そんな馬鹿な話をしていたなとでも懐かしんでいるようではないか。父さんにとっては、それっぽちのことだったのかよ……)
行き場のない怒りが、沸々と沸き起こる。
『ふざけんなよ! 夢は諦めないから、夢なんじゃないのかよ! 一回躓いた程度で、諦めるのは馬鹿がすることだって、言ってたじゃないか!』
『……』
なんで、こんなに力がないんだろうか。
自分の無力さが、悔しくて、惨めで、怒りで発狂しそうになる。弱々しく視線を下げる父の姿を見ると、胸が締め付けられるように苦しい。
『もう良いっ!』
『おいっ、篤志! どこに行くつもりだ!』
父親の制止を聞かずに工房から飛び出した。
一刻も早くこの場から出たかった。それに、この現況を作り上げた元凶に対して、一言文句を言わなければ気が済まなかった。
このときほど、自分が馬鹿だと後悔した日はない。
無力な子供が、取引先に文句を言ったところで所詮は自己満足だ。
そこで知ったことだが、契約の破棄を条件に取引先と好条件で内定が決まっていたそうだ。
それも愚かな行動で水の泡になり、下げたくもない頭を下げさせた。
一番迷惑をかけた父は、「しょうがない奴だな、まったく」と苦笑して頭を小突くだけだった。
*****
「くそっ、嫌な夢を見た」
放課後のチャイムが鳴り響くと同時に、目が覚めた。
久しぶりに嫌なことを思い出した。忘れたくても、当時の光景は脳に焼き付いている。最悪の寝覚めだった。
首をこきりこきりと鳴らすと、周囲を見渡す。
「案の定、委員長は来なかったな」
ああいった真面目なタイプは、立ち入り禁止の札が付けられた屋上にはやってこないと睨んでいたが、やはり案の定当たったようだ。
「面倒な授業なんて受けてられるかっての。さて、見つかる前に帰るとするか」
枕代わりに使っていた鞄を持つと、屋上を後にする。
少し出遅れてしまったようだ。昇降口には、下校する生徒と部活動に励む生徒が入り混じっていた。
靴を履き替えて、昇降口から外に出ると……。
「なんだ、篤志じゃないか。今から帰りか?」
背後からかけられた声に、思わず舌打ちをしてしまう。
「なんすか、森崎先輩」
振り返ると、そこには案の定見知った顔があった。
中肉中背で金髪にしていることくらいしか特徴がない。だが、その背後には三人の取り巻きが立っていた。
森崎は近づいてくると、肩に手を回して話しかけてくる。
「なんでも、お前がSクラスに選ばれたって聞いてな。誉めてやろうかとおもっただけだ」
「そうっすか。じゃあ、俺は急いでるんで」
森崎の手を払いのけるが、話はここで終わりではないようだ。
相手にするのもめんどくさい。だが、相手は父親の勤めている会社の社長令息だ……無下に扱うこともできない。
「まぁ、待てって。少し話があるから、呼び止めたんだろう。少しは、頭が悪いのはその髪型だけにしとけって」
こいつの顔を見るだけで腹が立つ。
声を聴くだけで、耳が腐り落ちそうだ。顔面に拳を叩き込んだら、さぞかし気持ちがいいことだろう。
「んで、お前はどんな不正をしたわけ?」
「はぁ?」
「惚けんなよ。普通に考えて、お前みたいな一般人がSクラスに選ばれるわけがないだろ」
こいつはいったい何を言っているんだ。
日本語を話しているはずが、同じ言語を話しているように感じない。
「普通に実力で選ばれただけだろ」
「はっ、それこそあり得ないな。そもそも、実力ってなんだよ? 金もねぇし、コネもねぇ……そんな奴が、この月宮で選ばれるわけがないだろう」
内心笑ってしまう。
森崎の言う金やコネの方が、よっぽど実力からかけ離れている。恵まれた環境で育ったお坊ちゃまには、親の力を実力だと勘違いしているのだろう。
「俺は、二年かけてようやくあの月宮大和様に顔つなぎできる機会が巡ってきたんだよ」
それはすごい。
三年の月宮大和については、正直なところ良い噂は聞かない。親の七光りで、不作の世代の筆頭とも呼ばれるほどの愚物と噂されている。
だが、そんな人物でも月宮だ。
同じ学園に通っていたとしても、顔つなぎできる機会を得るのは困難だ。無駄な方向に、無駄な努力をしたものだと感心してしまう。
「なのにさぁ、お前ときたら何の努力もしてないのに、Sクラスに選ばれて、顔つなぎの機会があるんだろ。不公平だと思わないか」
「世の中そう言うものだからな。用件がそれだけなら、もう先行っていいか」
そう言って、校門へと向かって歩き始める。
だが、取り巻きの男たちがその歩みを妨げると、背後から肩を力強くつかまれた。思わず苦悶の声を上げる。
「待てよ、何勝手に帰ろうとしてやがる」
「いつ帰ろうが俺の勝手だろ! 邪魔すんじゃねぇよ」
「なんだ、その口の利き方は? 仕方がない、上級生に対する口の利き方ってもんを教えてやるよ」
森崎がポケットから取り出したのは、スマホ型のデバイスだ。
背後を囲う取り巻き立ちもまた、同じようにデバイスを取り出す。一台数十万円すると言われるデバイスだが、月宮学園では携帯しているものが多い。
親がデバイス開発メーカーの社長であれば、当然のように持っている。
「お前、正気か……」
授業でも魔法を使うため、月宮学園内の規制レベルは低い。
だが、人に危害を加えるレベルとなれば私的な理由で使ったとすれば、まず処分は免れないだろう。
「気を疑われるとは心外だ。もちろん、校則に触れない程度に加減はしてある……尤も、運が悪ければ骨の一本くらい折れてもおかしくないがね。まぁ、口の利き方がなっていない後輩に対する指導ってやつだ」
「くっ」
その余裕の表情から、本気だと悟る。
月宮学園も一枚岩ではないということだ。仮に、骨折などの重傷を負わされたところで、処分されない方法があるということなのだろう。
自己防衛のために、自分の鞄からデバイスを取り出す。
「くはっ! なんだ、そのデバイス! 随分と不格好だな、自作か?」
すると、唐突に森崎が笑い出す。
父親が一から作り上げたデバイス……それを自分なりに改良したものだ。当然、正規品に比べて形も悪ければ、使い勝手も悪い。
「だったらなんだよ」
だが、そんなものであっても自分にとっては掛け替えのないものだ。
笑われて面白いはずもなく、ぶっきらぼうに言い返す。
「あぁ、そういえばお前の父親もデバイスを作るとか何とか言っていたみたいだな。尤も、無駄なことを」
「なんだと……?」
「聞こえなかったか。無駄な努力って言ったんだよ。まったく、自分の身の丈ってものを知らない馬鹿は本当に困る」
冷静に努めようとした。
だが、目の前でニヤニヤと笑う男……こんな屑野郎に、自分のそして父親の夢を笑われるのが我慢できなかった。
「なんだと、てめぇ! もう一回言ってみやがれ!」
自分は馬鹿だと思う。
頭の中では分かっている。だが、どうしても堪えることができなかった。激高する篤志を見て、森崎はさらに笑みを深めた。
言い争っているのだと気づき始めて、周囲の生徒たちが騒ぎ始める。
「何度だって言うさ。お前の父親は大馬鹿野郎だ」
「てめぇ」
「そういうお前も馬鹿だろう。そんなガラクタを作って遊んでるってことは、お前自身その夢を諦められていないってことだろ。……あぁ、くだらない。くだらなすぎて、笑えて来るよ」
何も言い返せない。
自分でもこれが未練なのだと分かっている。分かっていても、諦められないのだ。だが、それをこの男のように笑われるのは我慢ならなかった。
「先輩として教えてやるよ。そういうのを高望みって言うんだよ。これで一つ利口になれたな」
確かに高望みだろう。
言われなくても痛いほど理解している。身の丈に合った選択をすることの方が正しくて、身の丈に合わない夢は捨てるべきだ。
マグマのような怒りが、急速に冷めていくのを感じる。だが、続く言葉に、再び熱を帯び始めた。
「あぁ、それと。お前の父親もさ、諦めきれていなかったみたいだぜ。まぁ、あの取引がご破算になったときの表情ときたら……まぁ、ご破算になったのは俺がパパに言ったからだけどな」
「なん、だと……」
こいつは今なんて言った?
脳が言葉の意味を理解することを拒む。だが、理解するのは一瞬だった。
「いや、傑作だったよ。ほんと写真でも撮ってお前に見せたかった。見苦しく頭下げて、必死になって「お願いします、お願いします」ってさ」
何が面白いのかゲラゲラと笑う森崎。
それにつられるようにして、取り巻き立ちも笑い始める。その瞬間、篤志の中の理性のタガが音を立てて壊れるのが分かった。
「てめぇ!」
父親が作ったのは花火の魔法だ。
普通の火球と違って、演出がされている分魔素の消費量が多い。しかし、不幸にも篤志には魔法の才能があった。
水平に打ち出される紅い色の火球。
森崎はそれを見た瞬間、ニヤリと笑った。
「馬鹿が」
森崎に当たる。
そう思ったが、次の瞬間篤志が放った火球が明後日の方向に弾かれてしまう。音を立てて爆音が響き渡る。
「「「「「きゃあああああああ!!」」」」」
そんな悲鳴が聞こえてくる。
「……」
火球が飛んで行った方角を慌ててみる。
渡り廊下の窓ガラスは割れ、遠目に白い何かが見える。けが人が出ていないか不安に思っていると、森崎が忍び笑いを浮かべて近づいてくる。
「とてもじゃないが、人に向けていいようなレベルの魔法じゃないな。想像以上に威力があって弾いてしまったけど、他に被害が出てないと良いな」
やられた。
今になってようやく気が付いた。森崎はデバイスを取り出した時点で、これを狙っていたのだと。
自分は愚かにも、森崎が描いた三流の脚本に踊らされていたのだ。
「貴様ら、何をやっている!」
そんなときだった。状況を見計らったかのように、成人男性の野太い声が響き渡った。
「ちょうどいいタイミングで教師が来たみたいだ。まぁ、正当防衛ってやつだ……本当に思ったとおりに動いてくれる」
「くっ……」
ポンポンと肩を叩く森崎に、何も言い返せないことが悔しい。
どうして、こんなにも自分は愚かで短気なのだろう。後悔しても、後悔しきれない。怒りで暴れまわりたい衝動に駆られるが、何もする気力が起きなかった。
ただ、おとなしく教師たちに取り押さえられるだけ……そう思った瞬間だった。
――魔界の扉が開かれた。
誰もが動けなかった。
取り押さえようとした教師も、軽薄な笑みを浮かべていた森崎も。野次馬たちの悲鳴さえも消えてしまった。
突如現れるのは、漆黒の大門。
芸術家を唸らせるような豪華な装飾。すぐに、それが魔法なのだと気が付く。だが、とてもではないが個人で使えるような魔法ではない。
すると、大門が静かに開かれる。
悪魔が出てきたとしてもおかしくはない。誰もが、その門に注視していると、一人の少女が現れた。
「田辺、美琴……」
見間違えるはずがない。
老若男女問わず見とれてしまいそうな人間離れした美貌。暗闇の中でも決して飲み込まれることがない、漆黒の髪を靡かせる。
初めて見たときは深窓の令嬢かと思った。
だが、目の前の少女が深窓の令嬢など何の冗談だと思う。空間そのものを歪めてしまうような暴力的な魔素。
少しでも気を抜けば、膝を折ってしまいそうになる。
「お取込み中申し訳ありません」
魔界の門が姿を変える。
漆黒の魔素が再び再構築され、獣の姿を形作る。靄のような不安定な姿だが、狼のような頭部を持ち尻尾は蛇……まるでマルコシアスのような姿ではないか。
全長三メートルの巨体が、この場にいる全員を睥睨している。
「少々お話がありますが、よろしいですよね?」
有無を言わさぬ口調で、にっこりと笑う美琴。
背後に控える悪魔よりも、さらに恐ろしい。それが、この場にいる者全員の総意だった。
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