第2話 鈴の導き
朝が来た。山の端から滲み出す光が杉の木々を透かし、鳥たちが囀り始める。冷えた空気が頬を撫でた。
ナギはいつの間にか姿を消していた。最後に残っていたのは、手の中の朱色の鈴だけ。朝の光の中でも鈴は仄かに温かく、時折ちりんと小さく鳴っては一方向を示すように揺れる。
山道は下りが続いていた。獣道のような細い道だが、鈴の導きに従えば迷うことはなかった。
一時間ほど歩くと、廃村に出た。錆びたバス停の時刻表は十年前のまま止まっている。
鈴がひときわ強く鳴り、そして静かになった。役目を終えたように。
天音ハルは鈴を握ったまま立ち尽くしていた。村は静まり返っている。朽ちた家屋が並ぶ通りに朝靄が漂い、どこかの軒先で雀が餌を啄んでいた。世界から取り残されたような風景。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。圏外だったはずの電波が一本だけ立っている。画面には不在着信が十二件。友人からのメッセージも溜まっていた。
「どこ行った」「警察に連絡した」「山で遭難とかやめてくれ」
日付を見ると、最後に山へ入ってから丸一日が経っていた。
ハルは山の方を振り返る。
あの神社は、もう見つからないのかもしれない。あるいは、最初から普通の人間が辿り着ける場所ではなかったのか。
鈴が、ちりん、と一度だけ鳴った。
――また来い、と言うように。
ハルはしばらく立ち尽くしていたが、やがて歩き出した。バスは来ない。来た道を戻るしかなかった。
山道に足を踏み入れた途端、空気が変わる。昨日と同じ山のはずなのに、どこか違う。同じ場所を歩いている気がしない。
三十分ほど登った頃、分かれ道に出た。
右に曲がれば廃村へ続く道。左には――昨日はなかったはずの、苔むした石段があった。
木漏れ日が斑に落ちる細い参道。石碑にはかすかに「鎮守」の文字。
鈴がちりちりと鳴り出す。導くように、急かすように。
ハルは石段を登り始めた。
一歩ごとに空気が澄んでいく。道の中央だけが不自然に綺麗に掃かれている。
やがて鳥居が見えた。
昨夜は倒れていたはずのそれが、傾きながらも立っている。
本殿の前に、ナギがいた。
白い衣は裂けたまま。だが、どこか昨日よりも色が戻っている。
「……本当に来たの」
朱い瞳が揺れる。
ハルは短く答えた。
「バスが来なかった」
ナギは一瞬黙り、それから呆れたように言う。
「……それだけ?」
けれど、その瞳はどこか嬉しそうだった。
「鈴、持ってきてる?」
「持ってる」
ナギは安堵したように息をつく。
「よかった。……捨てられたかと思った」
鈴がちりんと鳴り、ナギの首元の鈴と共鳴する。
その瞬間だった。
胸に鋭い痛みが走る。
ハルは思わず膝をついた。
「やっぱり……」
ナギの表情が変わる。
「言ったでしょう。神と人は結ばれないって」
かざした手から朱い光が滲むが、すぐに消えた。
「帰って。お願い。これ以上ここにいたら、本当に壊れる」
「……大丈夫」
「大丈夫じゃない!」
初めて声を荒げた。
だが次の瞬間、ハルの体が崩れ、ナギが支えきれずに二人とも地面に倒れ込む。
「なんで来たの……馬鹿」
涙が浮かぶ。
「ナギと離れるのは嫌だ。好きになったから」
ナギの動きが止まった。
「……ずるい」
小さく呟く。
「そんなこと言われたら、帰せなくなるじゃない……」
静かな沈黙。
やがてナギは言った。
「……ひとつだけ方法があるかもしれない」
真っ直ぐに見つめてくる。
「あなたが、私を祀るの」
小さな神社を直し、名前と居場所を与える。
それが、唯一の方法。
けれどそれは――人の人生を神に捧げることでもあった。
「それでも、いい?」
「いいよ」
迷いはなかった。
ナギは驚いたように目を見開き、それから小さく笑った。
その日、二人は壊れた神社の修復を始めた。
知識も道具も足りない。それでも、少しずつ。
夕暮れが山を赤く染める頃、ようやく一歩目を踏み出した。
「今日はもう帰ったほうがいい」
「……帰れない」
ナギは固まった。
「……帰れない?」
「どうやって来たかも分からない」
沈黙。
やがてナギは呟く。
「……呼ばれたんだ。私に」
罪悪感に満ちた表情。
「ごめんなさい。私が巻き込んだ」
「仕方ないよ」
その一言に、ナギは呆然とした。
「……変な人」
そう言って、小さく笑う。
やがて夜が来る。
即席の寝床を用意し、二人は同じ場所で夜を過ごすことになった。
「明日の朝、やっぱり怖いと思ったら帰してあげる」
「うん。冷静にならないようにする」
「なにそれ……」
ナギは小さく息を漏らした。
それが、初めての笑いだった。
夜は静かに更けていく。
やがてハルの意識が落ちる頃、鈴が一度だけ鳴った。
わずかな温もりが、夜の冷気を和らげる。
ナギは目を閉じたまま、動かない。
けれどその夜、確かにそこにいた。
消えかけた神様と、ひとりの人間が。
同じ場所で、同じ夜を過ごしていた。
――ちりん。
鈴の音が、静かに響いた。




