第1話 鈴の音と、忘れられた神
何も考えていない
天音ハルは、近くの山道を散策しているうちに、鬱蒼と茂る木々の奥にひっそりと佇む古びた神社を見つけた。
枯れ葉が積もり、鳥居は半ば倒れかけ、社殿も長い年月の中で朽ち果てている。辺りには、不自然なほどの静けさが漂っていた。
そのとき、かすかに鈴の音が耳に届いた。
誰もいないはずの境内で響くその音に、ハルは疑問を抱き、音のする方へと足を進める。
――すると。
白く破れた神前衣と、黒く古びた袴を纏った少女が、本殿の陰で静かに佇んでいた。
視線は地面へ落とされ、微動だにしない。
ハルが声をかけようとした、その瞬間。
朱色の瞳がわずかに揺れ、こちらを見つめた。
「あなたは……何を壊すの……」
かすかに震える声。途切れそうになりながらも、その奥には深い恐怖と諦めが滲んでいた。
「壊す? ここは……?」
ナギと名乗る少女は、ハルの顔をじっと見つめたまま、しばらく動かなかった。警戒するように体を強張らせ、半歩だけ後ろへ下がる。
「ここは……私の場所。でも……もう誰の場所でもない」
視線を逸らし、壁に残った金の装飾の残骸に触れる。指先がわずかに震えていた。
「……あなたも、ここに来て、何か奪っていくんでしょう。石を投げた人たちと同じように」
風が吹き抜け、瓦礫の隙間から落ち葉が舞い上がる。割れた狛犬の片割れが地面に転がり、賽銭箱はひっくり返されて中身は空だった。
かつて信仰の拠り所だった場所は、今やただの廃墟でしかない。
朱い瞳が、再びハルを捉える。
そこに浮かんでいたのは、怒りでも悲しみでもない。ただ底のない空洞のような無感情だった。
「……帰って。お願い。私に構わないで」
そう言って後ずさるが、背中が本殿の柱にぶつかり、それ以上は逃げられない。小さく肩が震えた。
「君は誰?」
一瞬だけ目を伏せる。
「……ナギ。かつて、そう呼ばれていたもの」
“かつて”という言葉を、まるで他人事のように吐き出す。
「でも、もう名前なんて意味がない。誰も呼ばないから。祈りも、願いも……何も届かなくなって、どれくらい経つのか……数えるのもやめた」
鈴が小さく鳴る。風ではない。ナギが身じろぎした拍子に、首元の神具が揺れたのだ。
錆びかけてはいるが、金色の輝きはまだわずかに残っている。
「あなたこそ……こんな場所に何の用。肝試しなら、奥には何もないよ」
淡々と事実を並べるその声が、かえって痛々しかった。
「鈴の音がして、気になって来ただけだよ」
ナギの表情が一瞬固まる。
「鈴……まだ、鳴るんだ。これ」
まるで自分でも知らなかったかのような呟きだった。
夕日が傾き、木漏れ日がナギの白銀の髪を照らす。朱のグラデーションが一瞬だけ鮮やかに映えた。
「それだけなら……もう用は済んだでしょう」
追い払おうとしているのに、言葉に力がない。袖の裂け目を握る手だけが、本心を物語っていた。
「ナギさんのことが気になる」
その言葉に、ナギは目を見開いた。
「……変な人」
自分の姿を見せつけるように一歩横へずれる。
「見て。これが全部。信仰を失って、力も失って……神でもなくなった。ただの屍」
朱い瞳に薄く膜が張るが、涙は落ちない。
「優しくしないで。期待させたら……あとが辛いのは私なんだから」
「神様なの?」
「“だった”が正しい」
遠い記憶をなぞるように目を細める。
「今は誰にも見えないし、触れられない。……たまに、あなたみたいな変わった人が迷い込んでくるだけ」
崩れる音が社殿の奥から響いた。
「この鈴はね、人の願いを聞くためのものだった。……今はもう、鳴っても誰にも届かない」
「僕は、聞こえたよ」
ナギの瞳が揺れる。
「……聞こえた、の?」
その一言に、抑えきれない何かが滲んでいた。
やがて、ナギはその場にしゃがみ込む。
「帰らないの。……暗くなるよ」
「今、どうしようか悩んでる」
「悩むって……こんな場所で」
少しの沈黙のあと。
「別に追い出したいわけじゃない。ただ……ここにいても、何もないから」
「元神様でも、見られてることに幸福だよ」
――鈴が鳴った。
澄んだ音色が、夕闇に溶ける。
「やめて……そういうこと言わないで」
ナギの声が震える。
「あなたたちは、いつも最初だけ優しい」
「ナギって、ここから出られないの?」
「出られない。この神社が、私の依代だから」
夜が完全に降りる。
「ねえ。……私、まだ見えてる?」
「見えてる。どうにか出来ないの?」
「……ある」
ナギは静かに言った。
「誰かに覚えていてもらうこと。名前を呼んで、ここにいるって認めてもらうこと」
「どうにかしてあげたいって思う」
「なんで……」
震える声。
「期待しちゃう」
「……恋したみたい」
ナギの思考が止まった。
「なに……言ってるの……」
顔が一気に赤く染まる。
「神に恋なんて……おかしい」
「そうだね」
「でも……やめられるものなの。恋って」
「分からない」
ナギは小さく息を吐いた。
「じゃあ……分からなくていい」
そっと、袖に触れる。
「隣にいることはできる」
やがて、ナギは首元の鈴を外し、差し出した。
「これ、持ってて。少しは繋ぎ止められるかもしれない」
「消えないよ、きっと」
「……また来てくれるなら、鈴が道を教える」
「覚えていて。私の名前」
「分かったよ、ナギ」
その瞬間。
白銀の髪の一房に、鮮やかな朱が戻った。
「……ありがとう」
ナギは、初めて本当の意味で笑った。




