追放[5]
家康が三成との面談を終えて襖をそっと閉じたとき、廊下にはひんやりとした夕気が漂っていた。本丸の静けさは、まるで嵐の直前のように不自然なほど澄んでいる。足音を忍ばせながら別の間へ向かうと、そこでは七将たちが苛立ちを抑えきれず、座してなお武気が立ちのぼっている。
家康が七将に事の次第を伝えると、張り詰めていた空気が破裂した。
「内府様、それでは得心いきませぬ! 治部の素首を叩き落とさねば、我らは何のために兵を挙げたか!」
加藤清正が吠えるように叫んだ。
その声に煽られ、福島正則ら七将が口々に訴え始める。怒声が渦巻き、座敷の畳さえ震えるかのようだった。
しかし、次の瞬間、家康の怒号が空気を叩き斬った。
「黙れ小童共!」
その一言で場が凍りつく。
普段の柔和な面影は影もなく、家康の瞳には四十余年の戦場を生き抜いた修羅の気配が宿っていた。
炭火の赤が、その険しい輪郭をさらに深く照らし出す。
「太閤殿下が築かれた泰平の御代を乱すのか! 裁きに納得できぬと言うなら──オノレらは豊家の敵じゃ」
七将たちの喉が一斉に鳴る。
怒りではない。
戦場で初めて死を意識した兵のような、原初的な恐怖だった。
「二位様に代わってワシが成敗してくれる。即刻下がって戦支度をせい! 徳川の槍を──たっぷりと味わせてくれるわ!」
家康がわずかに身を乗り出しただけで、七人の猛将が肩を震わせた。
この男の背後には、幾千幾万の修羅場を踏んできた歴戦の累積がある──それを誰もが本能で悟ったのだ。
怒号の余韻だけが座敷に落ち、七将たちはようやく口を閉ざした。
その後の家康は静かだった。
しかし、その静けさこそが恐ろしい。
脅しが十分に効いた頃合いを見計らい、家康は淡々と命じた。
「撤兵の起請文を書け」
七将たちは忌々しく筆を取ったが、加藤清正や福島正則は、家康が思いのほか“豊臣のために怒った”事実に、むしろ感激すら覚えていた。
彼らの胸中には、家康の忠義を見誤っていたという驚きがあった。
だが──ただ一人。
黒田長政だけは、筆を置いた後も目の奥に澱んだ怒りを残していた。
面談が終わるや否や、長政は立ち上がる。
夜の気配が濃くなり始めた廊下を、まるで火がついたような勢いで進む。
向かった先は、本多正信の詰所。
部屋の戸を荒々しく開け放った瞬間、黒田長政の肩からは怒気がほとばしっていた。
燭台の揺れる炎が長政の険しい表情を照らし、影は壁に鬼のような形を描く。
正信は、その対極のように静かだった。手元の湯呑に口をつけ、落ち着いたまま長政の激昂を受け止める。
「佐渡殿、話が違うではござらぬか! 内府様は我らにお味方くださるはず!」
声は低く震えている。怒りだけではない。
裏切られたという思い、見通しが外れた羞恥、そして“三成を逃した”という敗北感が胸の奥で混ざり合っていた。
本多正信は湯呑を置き、ほとんど感情の色を見せずに言った。
「甲州殿。──抜かりましたな」
ひやりとした声音だった。
その言葉は、刃物より鋭く長政の胸に突き刺さる。
「よもや治部殿を取り逃がすとは思いませなんだ。大坂で速やかに討っておれば良かったものを……事がここまで大きくなれば、上様もああするより他はありませぬ」
「……ぐっ」
言い返そうとした長政の喉は、悔しさで詰まった。
その指摘は、すべて正しい。
それが余計に堪える。
正信は長政を見上げるでもなく、しかし語尾にだけわずかな皮肉を滲ませ続ける。
「されど甲州殿──」
静かに、しかし確実に長政の逃げ場を塞ぐような声だった。
「治部殿は御役を解かれ、貴殿らはお咎め無しとなった。まずはこの結果……落とし所として、満足なさるべきではござらぬか」
その言葉に、長政の拳は無意識に震えた。
納得などできるはずがない。
しかし、これ以上食い下がれば、自分が“浅慮の若造”として笑われるだけだ。
悔しさを噛み殺しながら、長政は深く頭を垂れた。
畳に落ちた影が、その肩の重さを何倍にも引き伸ばしていた。
*
かくして事件の幕は、すべて家康と正信が描いた絵図のとおりに下ろされた。
大坂の町を駆け巡った「七将が治部少輔を襲撃する」という凶報。
あれは偶然でも、過度な誇張でもない。
正信が水面下で火をつけ、必要な場所に必要な分だけ煙を流し込んだ結果だ。
島左近が異変に気づき、鋭い勘で三成の身辺に警戒を敷いたのも──。
秀頼の侍従、桑島治右衛門が最速で決起の報せを持ち込み、三成を前田屋敷の広間から引きずり出すように動いたのも──。
すべては正信が、誰にも悟られることなく張り巡らせた“見えざる糸”が引き寄せた反応にすぎない。
表向きはただの老人。
しかし、その手の内には乱世を生き抜いてきた百戦錬磨の策謀が息づいている。
そして事件当日──。
もし三成の脱出に万が一があった時のため、正信はさらに別の手段まで講じていた。
家康の股肱であり、伊賀衆を統べる影の頭目、服部半蔵正就。
その男に密命を下し、三成の逃走経路を遠巻きに警護させていたのである。
誰にも気づかれず、誰の名にも残らず、しかし確実に“事は家康の望む地点へ落ちるように”。
正信は、すべてを盤面の上で静かに動かしていた。
その冷徹さは、まるで闇夜で糸を織り続ける蜘蛛のようであった。
*
長政には、騒動の裏に潜んでいる家康の真意など嗅ぎ取ることも出来なかった。
だが三成は違った。駕籠に揺られ、佐和山へ帰るその道すがら、胸の奥に刺さる小さな棘が徐々に形を成していくのを感じていた。
逢坂山の峠を越え、夕靄の落ちかかる瀬田の川音が遠くでざわめく頃──その棘は、疑念ではなく確信へと変わった。
──いくら猪武者揃いとはいえ、あれほどの騒ぎを“ただの思い付き”で起こすはずがない。見込みが無ければ奴らはあそこまで動かぬ。……ならば、裏で糸を引いた者がいる。
脳裏に、あの老獪な男の面影がちらついた。
──あの老賊が糸を引いたとしか思えぬ。だが、そこまで周到に仕組んでいようとは……。
駕籠の外は、晚春の風が湿り気を帯びて吹き抜け、琵琶湖の水面を青磁のように揺らしている。
しかし三成の胸の奥では、冷たい鉛のような不安がひたひたと広がっていった。
今回の騒動で得をした者は、ただ一人。
中央での三成の影響力を根こそぎ奪い、尾張衆に恩を売り、血を流さずに大乱の芽を刈り取って名声まで得た男──徳川家康。
これを放置すればどうなるか。
家康が寿命を迎えるより先に、天下の実権は静かに、しかし確実に徳川の掌に落ちる。
その未来が、闇の中から形を成して迫ってくるようだった。
湖面をそよぐ風に乗り、駕籠の小窓から淡い陽光が差し込む。
琵琶湖は穏やかに波を立てて輝いていたが、三成の胸中には、晴れる気配が一片もなかった。
彼はその光をしばし無言で眺め、ぽつりと落とした。
「与六は下策と言うておったが……な」
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