追放[4]
「大納言様(前田利家)のご逝去とあらば、殿の居場所は誰の目にも明白。あの方々も、それを狙っての挙でございましょうな」
左近の声は押し殺されていたが、静かな緊迫が滲んでいた。
三成は奥歯を噛みしめ、ほんの一拍だけ目を伏せた。
利家という最後の楔が抜けた──その意味を、誰より理解していたのはほかならぬ三成だった。
「左近……お主の言う通りであったな。して、如何する」
問う声には、怒りでも動揺でもない。
己の無力を噛み砕いたあとの、乾いた決断があった。
「三十六計、走るを上と申します。ここは逃げの一手にござる。屋敷の裏手に、佐竹様より拝借した駕籠を待たせております。まずは右京大夫様のお屋敷へお退きくだされ」
左近は深く頭を下げたが、その背は剣のように真っ直ぐだった。
その用意周到さに、三成はふと息を漏らした。
「手回しが良いな……まったく。どうやら此度はお主の勝ちじゃ」
「なんの。殿を伏見にお連れするまで、左近に勝ちは付きませぬ」
短いやり取りだったが、二人の間に通う信頼は揺るぎなかった。
障子の外には夕刻の冷たい風が走り、前田屋敷の庭木をざわりと揺らしている。
そして三成の胸中には、もう戻れぬ境界を越えたという実感が重く染みていた。
*
佐竹右京大夫義宣──常陸水戸五十四万石の大大名。
平安以来の名家であり、諸将からの敬意は厚い。
その佐竹家の扇の紋が染め抜かれた駕籠は、まさに左近の計略通り“絶対の庇護”を象徴する盾となった。
駕籠の中で揺られながら、三成はかすかに拳を握る。
闇の中を駆ける駕籠の軋みが、不思議と心のざわつきを映しているようだった。
七将の目をかいくぐり、前田屋敷を落ち延びたという安堵と、これより先に待つであろう戦乱の影が、等しく胸を圧迫した。
佐竹屋敷に身を寄せたのち、三成一行は宇喜多秀家から兵を借り受け、闇を裂いて京街道を疾走した。
松明の赤が風に引きちぎられ、夜気はまるで冬の名残のように肌を刺した。
そして翌未明、伏見城治部少丸へと辿り着いた。
*
一方、三成が逃れたことを知った七将は、怒気を露わに三千の兵を率いて伏見へ雪崩れ込んだ。
だが時すでに遅く、治部少丸には左近が佐和山から密かに呼び寄せていた兵がすでに布陣していた。
城攻めをするにも兵力は心許なく、何より豊臣政権の象徴たる伏見城に刃を向けるなど、彼らとて本来はできることではない。
結局、両者は大手門前でにらみ合うほかなかった。
早朝の冷気を孕んだ風が、槍の穂先と旗指物の布を鳴らし、その音はまるで戦の足音そのもののようだった。
伏見城下はたちまち蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
家財を抱えて城下から逃げ出す者、逆に戦を一目見ようと押し寄せる野次馬、行き交う駕籠、人の怒号、馬の嘶き──昼日中なのに、城下はすでに薄闇が落ちたかのような混乱に沈んでいた。
*
それから数日、天下の耳目がすべて伏見へと集まり、城下の空気がひときわ重くなったその頃合いを見計らい、徳川家康はゆるりと調停役として入城した。春の気配が忍び寄る夕風が堀端を渡り、伏見城の白壁はどこか冷ややかに光っている。
本丸の廊には、召喚された三成と七将の気配がすれ違うことのないよう工夫され、襖の向こうでくぐもった足音だけが孤独に響いていた。互いの存在を感じながらも相まみえることはない──その仕掛け自体が、すでにこの騒動の根深さを物語っているようだった。
三成は案内を受け、家康の待つ一室へ入った。部屋は広いが、淡い灯りが隅に澱を落とし、緊張がかすかに肌を刺す。畳に膝をついた瞬間、家康の静かな眼差しがこちらを射抜くように感じられた。まるで何も語らずとも、その心中をすべて見透かされているかのようだった。
「此度の騒動は、加藤主計頭ら七名の自儘な振る舞い。大坂、伏見にて兵を挙げるなど──まさに上を恐れぬ悪行。断じて誅さねばなりませぬ!」
口火を切った三成の声は、抑えた怒りと自負が入り混じり、部屋の空気を鋭く震わせた。自らの正義に一点の曇りもないという確信。その裏にある、尾張衆の横暴を野放しにすれば豊臣政権の秩序が崩れるという焦燥。それらが渦を巻き、彼の言葉は次第に熱を帯びてゆく。
家康は黙したまま、わずかに頷くことすらしない。
冷たく透き通った湖面のような沈黙が、三成の熱を静かに呑み込んでいく。
語っても語っても、家康の表情は微動だにしない。
三成はそれでも言葉を止めなかった。止めてしまえば、その沈黙に自分が呑まれる──そんな不安が、背筋の奥でじわりと疼いていたからだ。
しかし―─怒涛の言葉も尽き果てた。
部屋の空気には、語りきった熱だけが薄く残り、障子越しの光はすでに黄昏の色を帯びている。炭火の赤がかすかに揺れ、二人の影を畳に長く落としていた。三成は深く息を吸い、ついに家康の見解を問うため口を閉じた。
静寂は、刃の背でそっと首筋をなでられるような冷たさを含んでいた。
家康はここでようやく口を開く。
「それで、治部殿はこの騒動をいかに収めると言うのか?」
問いの響きは淡々としている。だがその奥には、三成の返答を測ろうとする深い水底の気配があった。
「それは、かの七名に即刻陣を解かせ、しかるのち蟄居謹慎を命じ──」
三成が答えかけたその瞬間、家康の手がふいに宙を切り、言葉が遮られた。
その声音は一段落ち、重みを帯びる。
「そうではない。“いかに収めるか”という事じゃ」
膝の間に流れ込むような、低く重たい響きだった。
「太閤殿下ならいざ知らず、ワシやお主の命に素直に従うならここまでの騒ぎにはなっておらん。もはや、常時のやり方では収められんぞ」
その瞬間、三成の胸にざらりとした焦りが走る。
反論が喉元までせり上がるが、言葉にした途端に足元が崩れそうな感覚があった。
「ならば──どうなされるのですか!」
声が思わず荒くなる。家康はその動揺を見逃さず、淡々と追い詰める。
「七将のやり方はたしかに問題だが、昨日今日の話ではない。こうなる前に、その方なら打つ手はいくらでもあったはず。そもそも御城下の安寧を守る責務は誰にある?」
家康はわずかに身を乗り出した。
その眼差しは、鋼のように冷たい。
「奉行として、お主はこの事態を招いた責任をどう取る積もりじゃ」
「そ、それは……」
三成の口が渇いた。
胸の奥に鈍い衝撃が走る。
まさか自分の過失を突かれるとは思っていなかった──自分は被害者であるはずなのに。
返答を失った沈黙を、家康は逃さない。
畳に置かれた大きな影が、ゆっくりと三成の上へ覆いかぶさるようだった。
「石田治部少輔三成」
呼びかけは儀式のように厳かで、そして容赦がなかった。
「二位様に成り代わって申し渡す──隠居せい」
「なっ……!」
心臓の奥が熱く跳ねる。
自分の名が、断罪とともに読み上げられた現実が信じられなかった。
「彼奴らはお主の首を刎ねよと言っている。無論、そんなことはワシが許さん。じゃが──お主に何の咎めも無しでは、もはや事は収まらん」
「……!?」
息が詰まる。
まるで床が静かに落ちていくような感覚だった。
「後はワシに任せて、お主は佐和山に帰れ。それと引き替えに、何とか話を付けてやる」
静かな声音なのに、拒める気配が一つもない。
三成は、拳を握りしめても震えが止まらなかった。
筋道から言えば、自分こそが理不尽な被害者だ。
それなのに──奉行職の解任。隠居の勧告。
あまりに重すぎる処分。
だが、家康の言葉には“逃げ道”すら用意されていない。
調停役がここまで断言する以上、従う以外の選択肢など存在しなかった。
その現実が、静かに三成の胸を締め上げていった。
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