茶室[4]
拓真が身を寄せる治部少丸の主──石田三成。
名前だけなら歴史書で幾度となく見てきた人物だが、いま自分がその屋敷にいるという現実は、どうにも不思議な実感を伴って迫ってくる。
思い返すたび、あの男の歩んできた道が頭の中に像を結んだ。
三成は現在三十九歳。近江の寒村に生まれ、まだ少年だった頃、利発さを見抜いた秀吉に拾われた。
天才肌の主君は、軍事から行政、外交にいたるまで、まるで教師のように若い三成へあらゆる仕事を叩き込んだ。
その期待に三成は応え続け、兵站と財政管理にかけては秀吉軍団随一とも言われる存在にまで成長する。
秀吉が天下を統べたその時、三成の地位もまた一気に押し上げられた。
天下人の傍らで采配を振るい、大大名でさえ気を遣うほどの権勢。しかし、それほどの地位にありながら、彼は驕りを知らなかった。
有能、公明正大。
行政官僚としては理想に近い人物──だが、完璧さは別の傷も生んだ。
生真面目ゆえに愛想が悪く、悪事や怠慢には容赦ない。
情より規律を優先する姿勢は、見る者によっては冷酷で、権力を盾にした横暴にも映った。
そして本人は、己の評判になど頓着しない。
その無関心さは、気づけば敵意だけを積み上げ、味方を減らしていく結果につながった。
いま、その三成は死の淵にある主──豊臣秀吉の枕元を守るため、伏見城本丸に詰めきりだ。
治部少丸に戻ることはほとんどなく、屋敷は不在の主の息遣いすら感じられないほど静まり返っている。
その広い空白を埋めているのが家老、島左近である。
拓真が茶室で対面した、あの男だ。
左近は大和国の出で、畠山高政や筒井順慶の下で数々の武功をあげた猛将。
勇猛にして智謀に富み、その働きは当時の佐和山城と並び『治部少輔に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城』と謳われたほどだった。
だが名声に似合わず、左近の人生は決して順風とは言えなかった。
主君には恵まれず、筒井家を辞した後は、近江の地でひっそりと隠居生活。
器量を惜しむ声は多く、幾人もの大名が彼を求めたが、左近はすべて断った。
宮仕えに疲れ切った男は、静かに余生を閉じるつもりでいたのだ。
そんな折だ。
近江水口に四万石を与えられ、新たに大名へとのし上がったばかりの石田三成が、わざわざ左近を訪ねてきたのである。
あの二人がどう向き合い、どんな思いで主従の縁を結んだのか。
拓真はまだ知らない。
だが──茶室で向かい合った左近の眼差しを思い出すたび、その経緯を知りたくてたまらなくなる。
二人の出会いの先に、歴史を揺るがす運命が動き出したのだ。
*
余談だが、“石”という単位は米の量を示すものだ。一石は一升の百倍、一合の千倍にあたり、おおよそ大人が一年で食べる米の量とされた。
米が実質的な通貨として扱われていた当時、武士の収入はこの石高で数えられた。どれだけの石高を生み出す土地を持っているか——それが、その人物の力や格を示すもっともわかりやすい指標だった。
さらに豊臣政権では、石高が一万石を超えた武士を基本的に“大名”と呼ぶ。ただし、秀吉に直接仕える直臣でなければ、一万石を有していても大名とはみなされない。
*
秀吉お気に入りの若造が大名になったと浮かれ、暇つぶしにでも訪ねてきたのだろう──左近は最初、そんなふうに受け取った。
秋の光が傾き、庭の薄紅葉が障子越しにゆらめいている。静まり返った隠居宅に、若い家臣の足音だけがやけに軽やかに響いた。
適当にあしらって早々に帰らせよう。そう心に決めていた左近の前で、しかし三成は予想外の行動を取った。
部屋に入るなり、畳に両手をつき、左近が思わず身を引くほど深々と頭を下げたのである。若者の背中は震え、そこに軽薄さの影は一片もなかった。
「拙者、関白殿下にお仕えしておりますが……戦場で槍働きの機会は少のうござった。殿下の御厚情により大名に取り立てられ、恐懼に堪えぬ身にございます。この御恩に報いるため、戦場でこそ働きとう存じます。ゆえに、当代随一の名士──島左近殿を当家にお迎えしたい」
若さゆえの直情と、ひたむきな誠実さ。その両方がにじむ声だった。
天下人の寵臣ともなれば驕った物言いを覚悟していた左近は、むしろその謙虚さに面食らった。とはいえ考えを変えるほど甘くはない。
「まずはお顔をお上げ下され。お話は承りましたが……中々難しゅうございますな」
「そこを、どうか……」
静かな部屋に、三成の必死な息づかいだけが重く響く。
「侍とは『名こそ惜しけれ』。いかに因果な生業かは、ご存じでござろう。千石の者が五百石で手を打とうものなら、名を売り渡したと陰で嗤われる。面目を失えばこの道は立ちゆかぬ。拙者は陽舜房様(筒井順慶)にお仕えしていた折にはすでに一万石をいただいていた身。今は他家からその上の禄で誘いもある。治部少輔様では……さすがに無理でござろう」
本当は仕官する意志など毛頭ない。だが禄高を持ち出せば、四万石しか持たない三成は諦めるほかない──左近は、そう踏んでいた。
自分でも少々意地が悪い言い方だと思う。しかし婉曲に退けるには、これくらいがちょうどよいはずだった。
ところが。
「拙者の禄高は確かに四万石。しかし、左近殿がおいで下さるならば……二万石、お渡しいたす。それに、今後拙者に御加増あらば、禄はそのつど左近殿と折半いたす」
「──なんと……!!」
頭を殴られたような衝撃が走り、左近はしばし言葉を失った。
畳の上の三成は、見栄も損得も捨て、ただ「秀吉公の恩に報いたい」という一心だけで自分を求めている。
自分より二十も若い男が、常識外れの厚遇まで差し出し、まっすぐに頭を垂れている。
胸の奥が熱くなる。
長く仕えた主を失い、隠居し、余生を静かに終えるつもりでいた。その心に、再び烈火が宿った。
──士は己を知る者のために死す。
古い故事が、まるで目前で形を持ったかのように左近の胸に響いた。
この若者なら。
この誠意と真情に満ちた主君なら。
残り少ない命を預けても悔いはない。
左近は姿勢を正し、畳に手をつく。高鳴る鼓動を抑えきれぬまま、深く深く頭を垂れた。
「……承知つかまつった。拙者、この刻より治部少輔様を主君と仰ぎ、犬馬の労も厭いませぬ。この老骨、どうぞ存分にお使い下され!」
その声は、震えながらも力強く、部屋の静寂を切り裂くように響いた。
*
三成が島左近を家臣に迎え入れた──その報は、秀吉のみならず天下の耳目を大いに驚かせた。
以後、三成は冷静無比の文吏としてだけでなく、実戦でこそ真価を発揮する武将としても名を挙げていく。四万石の身代は幾度かの加増で膨れあがり、今では十九万四千石。近江における威勢はもはや一大勢力と言ってよかった。
しかも三成は、かつて「加増分は折半する」という前代未聞の約束を本気で果たそうとした。
だが左近は、その真情あふれる申し出を固辞している。
──その石は、家臣団のためにお使いくだされ。
その一言が、どれほど三成の胸に響いたことか。家中の者は皆この逸話を知り、主従の義に胸を熱くしていた。垣屋勘兵衛も例外ではない。
しかし、その勘兵衛が今、深い困惑を覚えている。
拓真が退出したばかりの静まり返った茶室には、まだ湯気の余韻がたゆたっていた。障子越しに射す冬の陽が、左近の皺を深く照らしている。
「御家老様。あの者、いかが取り計らわれまするか」
勘兵衛は膝を正し、低く、しかし闘志の火を隠さぬ声で問うた。
「お命じいただければ、拙者が詰問いたしまする。もしや当家に災いをなす狐狸の類であれば、その場で斬り捨てとうございます」
左近は若い勘兵衛を見やり、ふっと目尻を緩ませた。
血気は盛んだが、誠実で正道を外れぬ男。その資質を左近は誰より買っている。
「……儂もな、勘兵衛」
顎髭を指先で軽く梳きながら、左近はゆっくりと言葉を紡いだ。
「この齢になるまで、幾多の戦場を歩き、数えきれぬ死地を潜ってきた。鬼神のごとき猛者にも会ったし、人の業の深さも嫌というほど見てきた。──じゃが、妖怪や神仙とやらの不思議は、ついぞ見なんだ。所詮は世迷い言よ。この世にはおらぬ、と長らく思うておった」
そこでひと息置き、自ら点てた茶を静かにすすった。
その眼差しは先ほど見た“玉”を思い返しているようで、どこか常ならぬ揺らぎを湛えている。
「だが……お主も見たであろう」
左近の声が低く沈む。
「あれは尋常の理ではない。玉も、人の出現も。儂らの眼前で起きたことには、何か天の意思すら感じる。ひょっとすれば……当家にとっての奇貨となるやもしれぬ」
茶室の空気がわずかに動いた。勘兵衛の背筋に冷たいものが走る。
左近ほどの男が“天意”という言葉を口にする。それだけで、目の前の事象が常識を越えていると知れた。
「ゆえに、軽々しく斬ることも、利用することも決められぬ」
左近は静かに結論を下した。
「しばらく囲い置き、様子を見る。確かにあの御仁は臆病で、嘘もつけぬ。腹に一物ある者の目ではなかった」
勘兵衛は深く頷いた。だが、任務の重さを悟り、胸の奥がそわつく。
自分が探るべきは“人ならざる縁”を持つ謎の男だ。軽挙妄動は許されぬ。
「勘兵衛」
左近の声は落ち着いていたが、その眼光には鋭さが宿っていた。
「これは言わば物見よ。あの御仁と懇意になり、正体を探れ。……どうも隠し事は不得手のようじゃ」
「はっ」
「それと、この件はまだ家中に漏らすな。殿には儂から折を見て話す。皆には工藤殿は儂の遠縁ということにしておく」
茶室の外では、秋の風が庭の竹を揺らしていた。
その音はまるで、嵐の前触れを告げているようでもあった。
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