血刀[1]
アイのことは結局、霧の向こうに消えたままだ。
光の玉から出てきたのは自分ひとりだけだったと、左近たちは言っていた。ならば彼女は別の場所へ飛ばされたのか、それとも最初から拓真だけが時を越えたのか……その答えは闇の中だ。
青い畳の匂いが鼻先に漂う。拓真は部屋の真ん中で仰向けになり、天井の木目をぼんやり眺めながら、津波に呑まれる前の記憶をゆっくりとたぐり寄せた。
「そもそも、どうしてアイと一緒にいたんだっけ……」
──ああ、そうだ。あっちから声をかけてきたんだ。「話がある」とかなんとか……要領を得なかったけど、地震が起きて有耶無耶のまま……。
「……まさかとは思うけど、これアイの仕業だったりして?」
ぽつりと漏れた独り言が、自分でも馬鹿らしくて苦笑に変わる。
──いやいや、ないない。そんな魔法少女みたいな話。今期の深夜アニメじゃあるまいし。ヤッさんに勧められて録画してたけど、あれ子供向けって顔して全然子供向けじゃないよな……。
「そういや、あの日も放送あったはず……」
──家が無事ならレコーダーに残ってると思うけど、流されていたらレンタル待ちか……。
「違う違う! 今それ考えてどうすんだよ!」
ぱしん、と額に平手を当てる音が部屋に響く。
脱線した思考を強制的に引き戻しながら、拓真は深く息を吐いた。
「アイは……たぶん、気仙沼で泊まった旅館の娘か何かで、俺が忘れ物でもして、それを届けに来たんだ」
そう思うと、胸の奥がじくりと疼く。もしそうなら巻き込んでしまったのは自分だ。生きていてくれたらいいが──願いは祈りのように宙へ溶けるばかり。
この状況で答えが出るわけもない。考えても推測以上には進まない。
「……まあ、それは一旦置いとくか。アイが魔法少女でも旅館の娘でも、ここじゃ確かめようがないしな」
ぽつりと呟いて身体を起こすと、胡座を組んで外の光をうかがった。障子越しの日差しはまだ高く、温かい。
「それより……どうやって帰るか、だよな」
アイの正体探し以上に、とりとめのない思索だ。
そもそも、どんな力が働いて自分が“時を越えた”のかすらわからないのだ。帰還方法など見当がつくはずもない──そう頭では理解しているのに、心はどこかで答えを欲しがっている。
薄い障子越しに午後の光が柔らかく差し込み、畳の青い香りが静かに満ちている。拓真は胡座のまま指先を見つめ、ぽつりと口を開いた。
「津波とタイムスリップが関係してるってのは……あり得るかも。もしそうなら、同じ状況になればもう一度起こるかもしれない」
自分で言っておきながら、現実味の無さに苦い笑いが漏れた。
映画や小説でならよくある筋書きだが、現実の大津波を再現するなど人の手に負えるはずもない。自分が呑まれたあの巨大な黒い壁は、思い返すだけで背筋が冷たくなる。
「だとすると……いつ津波が起こるか、だよな。たしか……」
記憶を手繰りながら、拓真は眉間に皺を寄せた。
今回の取材で訪れた唐桑半島の津波体験館──展示されていた写真や解説が脳裏に浮かぶ。三陸沿岸は歴史的に津波が多い地域だと学んだばかりだ。
「慶長にも津波があったよな……大きいの。ええと、慶長十……五? 六? ……って、十年以上先じゃん……」
思い出した瞬間、肩の力が抜け、背中が丸くなる。
慶長三陸地震──仙台藩だけで五千名以上の死者を出した大災害。だが発生は慶長十六年。拓真のいる慶長三年から十三年後だ。
その年月を想像しただけで、胸の奥がずしりと重く、視界まで暗くなった。
「まあ……待ったところで上手くいくとは限らないしな」
再び津波に呑まれたところで、本当に元の時代へ戻れる保証などどこにもない。
別の時代へ飛ばされる可能性すらある。……それどころか、何も起こらずにただ死ぬだけの可能性が一番高い。
「帰還方法としては……現実的じゃないな、どう考えても」
とはいえ、挑戦するか否か決めるのは、まだ十三年も先の話だ。
焦る必要はない──そう自分に言い聞かせるが、胸の奥に残る不安のざわめきはなかなか消えない。
「どっちにしても……それまで生き延びる方法を考えないと」
衣食住の心配は今のところない。石田家に庇護されている限り、二年は安泰だろう。しかし、その先のアテはない。
歴史の大河のただ中で、俗世に関わらず静かに生きる。言うだけなら簡単だが、実際はほぼ不可能に近い。
「……ひっそり生きるって、よく考えたら無理ゲーだよな」
苦笑が漏れたあたりで、思考そのものに疲れが滲み出た。
拓真はそのまま畳にごろんと横になり、深く息を吐いて目を閉じる。
耳を澄ませると、外から鳥のさえずりが風に乗って聞こえてくる。その合間に、遠くから人々のざわめきが混じった。
伏見城の前に広がる城下町。普段は閑静な屋敷でも、風向きによっては市井の喧噪がかすかに流れ込んでくる。
「この時代のこと、知識はあっても……実際は何も知らないんだよな、俺」
畳の上でぽつりと漏らしたその言葉は、自嘲ともため息ともつかない響きを帯びていた。
歴史書の年号も、関ヶ原の布陣図も、三成の人物像も──知識としては頭に詰まっている。
だが、それらは所詮“図と文字の情報”でしかない。
いま自分がいる世界は、土の匂いがあり、風が吹き、人が暮らしている“現実の慶長三年”だ。
その実感が胸の奥でじわりと膨らむにつれ、ふと、ひとつの欲求が湧きあがってきた。
──城下町を、この目で見てみたい。
そう思った瞬間、胸が軽く跳ねた。
考えてみれば、四百年前の世界にいるというのに、自分が知っているのは豪勢な客間と、茶室だけ。
外の空気も、当時の町人の息遣いも、何ひとつ感じていない。
「……いや、その前にまず治部少丸だよな。俺、今ど真ん中にいるんだから」
歴史の本で何度も見たその名前。
政治の駆け引きも、陰謀も、三成の生活も──数々の事件の舞台となった場所。
そこに“自分がいる”という現実が、今さらながら背筋を震わせた。
本物の治部少丸。
現代人でこれを見た者など、誰ひとりとしていない。
常識ではあり得ない千載一遇の機会だ。
だが──。
「勝手に歩き回って……大丈夫なのかな」
先程、佐名に「しばしお部屋にてお休みください」と言われている。
どれくらいの強さで言ったのかはわからない。
“絶対に出るな”なのか、“できれば”なのか……。
拓真は天井を見上げ、考え込んだ。
だがすぐに、自分で自分に言い訳するように、半ば苦笑いで結論を出す。
「本気で閉じ込める気なら、座敷牢にでも入れるよな。左近さんも『ごゆるりと』って言ってたし……ちょっとくらいなら平気……かな?」
胸の奥で何かが決まり、迷いがすっと晴れた。
拓真は畳の上に投げ出していた裃を手に取り、身にまとった。
布が肌を滑る感触は、普段の洋服とは違い、どこか“非日常の幕が開く”ような気配がする。
障子に手をかける。
まだ見ぬ四百年前の景色が、その向こうで静かに息づいている。
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