第13話:新装開店、地上の汚泥
地上二十階。全面ガラス張りのオフィスビルの一角に、その「事務所」はあった。
地下街の湿った空気とは無縁の、過剰なまでに乾燥した空調の風。大理石の床には塵一つ落ちておらず、入り口の重厚なドアには、銀色の細いプレートが掲げられている。
『四ツ谷・負債管理事務所』
スチールデスクを捨て、黒い鏡面仕上げのデスクに座る冷泉は、傷一つない眼鏡を指で直した。彼女の背後には、最新のシュレッダーと、大量の機密保持契約書が並んでいる。
「……九十九さん。そのスプレー、もう一吹きしておいてください。四ツ谷さんの『穴』が吸い込む、あの独特の焦げ臭い匂いが、廊下まで漏れています」
九十九は、かつての作業着を脱ぎ捨て、仕立てのいい制服に身を包んでいた。だが、その手には相変わらず、絶縁処理された特殊な薬品と、盛り塩の代わりの高純度結晶が握られている。
「……ケッ、贅沢な注文だぜ。表向きは『環境管理』なんて言ってるが、要は四ツ谷が撒き散らす『死に損ないの匂い』を消せってんだろ。……より代を買い漁る手間が省けたのはいいが、このフロア全体がいつか異界にでもなっちまうんじゃねぇかと、冷や冷やするぜ」
部屋の最奥。防音壁で仕切られた応接室のソファに、四ツ谷は深く沈み込んでいた。
高級な黒のスーツを纏っているが、その右半身は依然として黒い包帯に幾重にも包まれている。胸元のタイピンは、彼の「穴」から漏れ出す磁力を抑えるための特殊合金製だ。
「……冷泉。……次が来たぞ。……エレベーターに乗った瞬間、このビルの『空気』が変わった」
四ツ谷が微かに唇を動かすと、喉の奥から砂利を噛んだような乾いた音が響いた。
直後、冷泉のデスクの電話が鳴る。
「……はい、四ツ谷事務所です。……ええ、ご予約の。……どうぞ、奥へお通しします」
入ってきたのは、初老の男だった。テレビのニュースで毎日のように顔を見る、巨大企業の会長だ。彼は周囲を警戒するように見回し、九十九が差し出した銀のトレイに、自身のスマートフォンを置いた。
「……ここなら、誰にも聞かれないと約束してくれたな。……私の身に起きている、この『不気味な現象』を止められると」
冷泉が立ち上がり、優雅な所作で応接室の扉を開いた。
「代表の四ツ谷が承ります。……会長、貴方の抱えているものは、もはやセキュリティ会社や弁護士では扱えない領域にあります。……『蓄積された不利益』です」
会長は、ソファに座る四ツ谷の姿を見て、一瞬息を呑んだ。四ツ谷の瞳には、かつての白濁はなく、ただ一点の光も通さない深い闇だけが宿っている。
「……誰かに恨まれているのか。……それとも、身に覚えがあるのか」
四ツ谷の声が、会長の脳を直接揺らした。
「……わ、私には覚えがない! 確かに、のし上がる過程で多少の無理はしたが、法を犯したわけではないんだ。なのに、先週から……家の中の鏡という鏡に、死んだはずの先代の顔が映る。社員たちの視線が、針のように刺さって痛いんだ。……頼む、これを消してくれ」
「消すのではありません。……私が、それを『預かる』のです」
四ツ谷がゆっくりと立ち上がり、包帯に包まれた右手を会長の眉間にかざした。
その瞬間、会長の背後から、無数の黒い影が噴き出した。それは彼が切り捨て、踏み台にしてきた人間たちの、行き場を失った執念の塊だった。それらは蛇のようにのたうち、四ツ谷の胸元へと吸い寄せられていく。
「あ、ぐ……っ、あああ!」
会長が絶叫し、のけ反る。
だが、四ツ谷の胸の「穴」が脈動すると、その黒い影たちは悲鳴を上げる間もなく、虚無の彼方へと吸い込まれ、消え失せた。
「……一回目、終了です」
冷泉が、スマートフォンのストップウォッチを止めた。
「不純物の除去、成功。……ですが会長、これで終わりではありません。貴方の周囲には、まだ膨大な『汚れ』が溜まっている。……これを完全に処理するには、弊社の『顧問契約』が必要となります」
会長は、汗だくになりながらも、信じられないほど体が軽くなったことを実感していた。
「……ああ、消えた。……あの視線が、消えたぞ。……いくらだ。いくら払えば、この平穏が続く?」
「……金ではありません」
四ツ谷が、冷たく言い放った。
「……貴方の企業の利権、その一部を……我々が指定する『清掃業者』の団体へ譲渡していただきます。……貴方が富を得れば得るほど、我々が新たな依頼を生み出すための、餌としてね」
会長は、四ツ谷の言葉に一瞬躊躇したが、目の前の「虚無」の安らぎには抗えなかった。彼は、冷泉が差し出した電子契約書に、震える指でサインをした。
男が去った後、九十九が床に除菌スプレーを撒き散らしながら毒づいた。
「……ケッ、地上のゴミは、地下のやつよりずっと脂ぎってやがる。……冷泉、あの『清掃業者』ってのは、あの会社が潰れた時の生き残りか?」
「ええ。彼らに呪いの『種』を蒔かせ、限界まで膨れ上がったところで、私たちが回収する。……完璧な循環です。……四ツ谷さん、食べ心地はいかがですか」
四ツ谷は、右胸の穴をさすりながら、暗闇の中で微かに口角を上げた。
「……悪くない。……地下のネズミの恨みよりも、ずっと重くて、甘い。……だが、冷泉。……この穴が、少しずつ広がっている。……いつか、このビルどころか、この街全てを飲み込んでも……足りなくなるぞ」
「その時は、また看板を架け替えるだけです」
冷泉は、次の予約客――かつての自分たちを使い潰した組織と繋がりのある、若き政治家の資料を開いた。
「……次のお客様、お入りください」
地上の汚泥は、地下よりも遥かに深く、そして豊かだった。
四ツ谷という穴は、新しい獲物を求めて、静かに拍動を強めていた。




