第12話:それでも、看板は下ろさない
地下街のどん詰まりは、音のない爆発が起きた後のような、奇妙な静寂に支配されていた。
引き戸は枠ごと外れ、積み上げられていた段ボールは黒い灰となって床を埋め尽くしている。中央に横たわる四ツ谷の肉体からは、あれほど猛威を振るっていた黒い澱みが消え失せていた。代わりに、彼の右胸には直径十センチほどの、光を一切反射しない「穴」が、ただ静かに口を開けていた。
九十九は、自身の腕から流れる血を止めることもせず、空になったケージの残骸を見つめていた。
「……全部、消えちまったな。インコも、ドジョウも、ネズミも。……四ツ谷、お前、自分が今、何になってるか分かってんのか」
四ツ谷は、ゆっくりと上体を起こした。
右半身はもはや石のように硬直してはいない。だが、生きた人間の肌の質感も失われていた。それは磨き抜かれた黒曜石のように滑らかで、それでいて生命の熱を一切感じさせない、異質な物質へと変質していた。
「……ああ。……軽くなったよ、九十九さん。……脳の配線が、どこにも繋がっていない。……俺は、空っぽだ」
四ツ谷の声は、もはや壊れた時計の音ではなかった。それは深い洞窟の奥から響いてくるような、無機質で透明な響きを帯びていた。
冷泉は、粉々に砕けたスチールデスクの残骸から、唯一奇跡的に無傷だった一冊の顧客台帳を拾い上げた。眼鏡は片方のレンズが割れ、額からは一筋の血が流れていたが、その瞳に宿る光は、以前よりも一層鋭さを増していた。
「……空っぽになったのではありません、四ツ谷さん。貴方は完成したのです。……フィルターとしての容量を超え、自分自身が因果を吸い込む穴そのものになった。……これまでは溜めるだけでしたが、これからは、貴方の胸の穴に触れた呪いは、この世のどこにも存在しなくなる」
冷泉は、四ツ谷の右胸を、躊躇いもなく指先でなぞった。
「……冷たい。物理的な温度ではありませんね。存在の不在が放つ、絶対的な拒絶です」
九十九が、力なく笑い声を上げた。
「……ヘッ、ゴミ処理場から、ゴミ消却炉に昇進したってわけか。……めでてぇな。これで、より代を買い漁る手間が省けるぜ」
「いいえ、九十九さん。仕事はこれからが本番です」
冷泉が、事務的に台帳を閉じた。
「第一段階は終わりました。四ツ谷さんが単なる蓋として機能しなくなった以上、この店をこの場所に留めておく意味はありません。……ここを拠点にするのは、もう限界です。因果の連鎖が、物理的な空間を侵食し始めています」
冷泉が指差した壁の隅では、現実の壁紙を突き破って、見たこともない色のカビが異常な速さで増殖し、何者かの叫び声のような模様を形成していた。それは四ツ谷が処理しきれなかった澱ではなく、四ツ谷という穴に向かって、街中から引き寄せられてきた新しい悪意の先触れだった。
「……場所を、変えるのか」
四ツ谷は、感覚のない右腕で、新しい黒い包帯を巻き直した。今度の包帯は、呪いを封じ込めるためではない。彼の中から溢れ出す「無」が、世界を削り取ってしまわないための、防護服のようなものだ。
「ええ。地上へ出ます」
冷泉の言葉に、九十九が目を見開いた。
「地上だと? 正気かよ、冷泉。こんな化け物同然の四ツ谷を連れて、白日の下を歩くってのか」
「化け物だからこそ、利用価値があるのです。……地下で細々と代行をしているだけでは、いずれ組織の残党に見つかり、再びフィルターとして使い潰されるだけです。……それなら、こちらから仕掛けましょう。……表向きは経営コンサルティング、あるいは心理療法所。……成功者の顔をした、呪いに怯える金持ちたちを、我々の顧客にするのです」
冷泉は、四ツ谷の前に立った。
「四ツ谷さん。貴方の穴は、今やこの街最大の兵器です。……貴方が一歩歩けば、周囲の呪詛は吸い寄せられ、消滅する。……それを商売にしない手はありません。……呪いを売るのではなく、呪いを食い、その見返りに、より巨大な負債を客に背負わせる。……これこそが、真の代行屋の姿です」
四ツ谷は、底なしの闇のような色に変わった瞳で、冷泉を見つめた。
「……九十九さん。……俺は、もう救いたいなんて思っちゃいない。……ただ、この穴が、もっと欲しがっているんだ。……他人の汚れた想いを。……身勝手な殺意を。……全部食い尽くして、俺が、この街そのものになってやろうか」
「……へっ、言ってくれるぜ」
九十九は、自身の腕の傷に塩を塗り込み、痛みに顔を歪めながらも、満足げに笑った。
「……俺も、ここ以外に死に場所はねぇ。……あんたが街になるなら、俺はその街の掃除屋として、最後まで付き合ってやるよ」
数時間後。地下街のどん詰まりから、三人の姿は消えていた。
残されたのは、真っ白に漂白されたような無機質な空間と、どこにも繋がっていないはずの固定電話から響く、絶え間ない呼び出し音だけだった。
翌日。街の中心部、高級ビルが立ち並ぶエリアの一角に、新しい看板が掲げられた。
漆黒の板に、鋭い銀の文字。
『四ツ谷・因果マネジメント事務所』
その下には、以前よりもずっと傲慢で、それでいて抗いがたい誘惑に満ちた一文が添えられていた。
『―― 貴方の負債、全てお引き受けいたします(※対価は命以外で)』
店内に、カウベルの乾いた音が響く。
最初に入ってきたのは、完璧なスーツに身を包んだ、だが目の下に深い隈を作った政界の大物だった。
「……ここが、どんな悩みも解決してくれるという……?」
スチールデスクの向こう側で、冷泉が完璧な事務的微笑を浮かべた。
「ええ。ようこそ。……まずは、こちらの契約書に。……四ツ谷、お客様です」
奥の革張りのソファから、四ツ谷がゆっくりと立ち上がった。
右胸の穴は、包帯とスーツの下で、歓喜に震えるように脈動していた。




