第11話:最初の呪い
地下街のどん詰まり。もはやこの店の引き戸を開ける者は、この世の人間ではないのかもしれなかった。
四ツ谷の喉はすでに石灰化し、呼吸のたびに「カチ、カチ」と、壊れた時計の歯車が噛み合うような異音を立てている。右半身から溢れ出した黒い澱みは、包帯を突き破って床を侵食し、逃げ場のない影が店内の天井を埋め尽くしていた。
「……九十九さん、離れてください。……もう、そこは汚染区域です」
冷泉の声には、もはや感情の一片も残っていない。彼女は自らの手を「絶縁」の塩水に浸しながら、四ツ谷の右胸に浮き上がった一際どす黒い「傷跡」を見つめていた。
その傷跡が、四ツ谷の拍動に合わせて、生き物のように蠢き始める。
「……あ、が……はぁ……、冷泉……見えている、か……」
四ツ谷の瞳が、白濁した膜の向こう側で、過去の泥濘を映し出した。
「……貴方の、最初の『願い』ですね」
四ツ谷の意識は、二十年以上前の、白く眩しい――そして、それゆえに残酷な光景へと引き戻されていた。
そこには、壊れる前の「配線」を持つ、幼い四ツ谷がいた。
彼は、生まれつき「他人の痛みが自分のものとして響く」性質を持っていた。隣の子が膝を擦りむけば自分の膝が痛み、母親が悲しめば自分の心臓が凍りつく。それは優しさではなく、脳の回路が剥き出しになっているような、欠陥だった。
ある日、彼の唯一の友人が、重い病に倒れた。
死を待つだけの少年を前に、幼い四ツ谷は、その「回路」を自ら繋ぎ変えてしまったのだ。
『君の病気を、全部僕にちょうだい。代わりに、僕の元気なところを、全部あげるから』
それは、純粋無垢な「救い」の願いだった。
だが、この世界の理にとって、それは等価交換という名の「最初の呪い」として受理された。
少年の病は、四ツ谷の右半身へと転移した。
少年は翌日奇跡的に回復し、四ツ谷を「不気味な病人」として忘れ、去っていった。
後に残されたのは、他人の不幸を無尽蔵に吸い込み、自分の生命力と引き換えに中和し続ける、異形の「器」としての肉体だけだった。
「……ケッ、笑えねぇな」
九十九が、四ツ谷の足元で溶け出した影を塩で叩きながら、震える声で言った。
「……自分から『ゴミ箱』に志願したってのか。……お前、そんなことのために、二十年もこの泥水を啜ってきたのかよ」
「……違うんだ、九十九さん……」
四ツ谷の口から、どろりとした黒い体液が溢れる。
「……俺は、救いたかったんじゃない。……俺は、誰の記憶にも残らない『穴』になりたかっただけなんだ。……誰もが、自分の罪を捨てて、笑って過ごせるための……ただの、穴に……」
その時、店内の「回収箱」の蓋が、内側からの圧力で弾け飛んだ。
中から溢れ出したのは、これまでの十話で処理してきた、あの依頼人たちの「身勝手な後悔」だった。
『……死ななくていいから、惨めになればいい……』
『……あいつさえ、いなければ……』
『……そんなつもりじゃなかったのに……』
数万、数十万の「声」が、四ツ谷の右半身に向かって一斉に雪崩れ込む。
四ツ谷の肉体が、ミシミシと音を立てて膨れ上がり、彼の「最初の傷跡」が、街全体の悪意を吸い込む巨大な「渦」へと変貌した。
「……四ツ谷さん、もう、器の限界です!」
冷泉が叫び、デスクの脚を掴んだ。
「フィルターが焼き切れます! 今すぐ、その『願い』を捨ててください! 貴方が『自分一人で背負う』という意志を捨てれば、この呪いは霧散します!」
「……できないよ、冷泉」
四ツ谷は、白濁した目で冷泉を見つめた。
「……俺が捨てれば、このゴミは、また街に溢れ出す。……また、あの子みたいな犠牲者が出る。……俺が、蓋なんだ。……俺が、この街の『汚れ』そのものなんだから……」
四ツ谷の背中から、黒い翼のような影が噴き出した。
それはかつて彼が身代わりに殺してきたインコたちの、怨念に満ちた羽ばたきだった。
店内の空気が、絶対零度まで冷え切る。
「……九十九さん、最後の『より代』を」
冷泉が、懐から一振りの、真っ黒な短刀を取り出した。
「……四ツ谷さんの『脳の配線』を、物理的に断ち切ります。……失敗すれば、私たちは全員、この渦に飲み込まれて消滅します」
「……ああ。……上等だ。……どうせ、ここ以外に居場所なんてねぇんだ」
九十九は、自身の腕をナイフで切り裂き、その血を四ツ谷の右半身に浴びせかけた。
「……四ツ谷! 最初の願いなんて、もう忘ねろ! お前は、ただの『呪い代行屋』だ! ……仕事、完遂させやがれ!」
店内に、目を開けていられないほどの暗黒の閃光が走った。
四ツ谷の絶叫が、地下街の奥深くまで響き渡り、そして――。
……すべてが、静止した。
床に倒れ伏した四ツ谷の右半身からは、もはや何も漏れ出していなかった。
ただ、彼の右胸にあった「最初の傷跡」だけが、深い、深い、穴のように、ぽっかりと開いていた。
「……終わった、んですか」
冷泉が、震える指で眼鏡を直した。
四ツ谷は、動かない。
ただ、その白濁していた瞳に、わずかばかりの「人としての光」が、泥の中に沈んだ真珠のように、小さく瞬いていた。
地下街のどん詰まり。
看板の文字は、今や完全に消え失せ、ただの汚れた木の板へと戻っていた。
三人の物語は、始まりの場所へ、そして最後の審判へと、音もなく収束していく。




