表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
あの日、泣き虫だった君は隣のクラスで「高嶺の花」と呼ばれている  作者: 風莉


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

33/35

29話

 悠真の問いが落ちた瞬間、凛華の中で何かが止まった。


 動けない。


 泣けない。


 怒れない。


 笑顔さえ、作れない。


 ただ、視界の端がじわりと暗くなっていく。胸の奥に、冷たい水が満ちていくみたいに。


 ――触れられた。


 ずっと、見ないふりをしてきた場所に。


 凛華はゆっくり瞬きをした。悠真の指先が自分の肩を掴んでいるのが分かる。体温がある。今ここにいる。手が震えていない。問いかける声も、逃げずに自分を見つめる目も。


 なのに、その存在が、ふっと薄くなる錯覚がある。


 消える。


 目を離したら消える。


 あの時みたいに。


 凛華の喉が、ひゅっと鳴った。


 そして、音もなく、記憶の底へ沈んでいく。


 悠真がいなくなってからの日々は、彩度が落ちた。


 空は青い。季節は巡る。花は咲く。笑い声も聞こえる。けれど凛華の中だけ、色が薄いままだった。


 最初のうちは、まだ「そのうち戻ってくる」と思っていた。


 幼馴染だ。


 いなくなるはずがない。


 連絡が取れなくなっても、何か事情があるだけだと、どこかで信じていた。


 でも、時間は容赦なく積み重なった。


 一週間。


 一ヶ月。


 半年。


 「そのうち」が、いつの間にか「もう無い」に変わっていく。


 凛華は、学校で普通に笑った。


 親の前でも、普通に笑った。


 家は平和だった。両親は仲が良く、食卓には温かいご飯が並ぶ。くだらないテレビの話で笑い合う夜もある。凛華は恵まれている。


 だからこそ、言えなかった。


 外で孤独だなんて。


 心が空っぽだなんて。


 「悠真がいなくなって苦しい」なんて。


 そんなことを口にした瞬間、自分が贅沢を言っているみたいに見える気がした。恵まれているのに、まだ足りないと言っているみたいに聞こえる気がした。


 凛華は“完璧な娘”の仮面を厚くした。


 成績は落とさない。身だしなみは崩さない。誰とでもそれなりに話す。先生にも、友達にも、親にも、優等生の顔を見せる。


 その仮面の内側で、凛華はずっと同じことを繰り返していた。


 「悠真なら、こう言ってくれたのに」


 誰かが冗談を言って笑わせようとしても、凛華の中では比較が始まる。


 その冗談は、悠真の冗談より優しくない。


 その気遣いは、悠真の気遣いより遅い。


 その距離感は、悠真の距離感より遠い。


 そんなふうに比べて、そして、勝手に疲れていく。


 疲れていくくせに、比べるのをやめられない。


 悠真が“唯一の基準”だった。


 そこから外れるものは全部、どこか違う。


 凛華は何度も、誰かと仲良くしようとした。


 昼休みに一緒に食べる。放課後に寄り道する。写真を撮って笑う。


 できる。上手にできる。周りから見れば、ちゃんと友達がいる。


 でも、深いところで繋がれない。


 言葉の奥に、いつも一枚ガラスがあるみたいだった。


 踏み込むと割れる。


 割れたら痛い。


 だから、浅いまま笑う。


 その浅さが、凛華を守る代わりに、凛華を冷やしていった。


 決定的だったのは、男子たちの“からかい”だった。


 最初は本当に、幼稚なものだった。


 机の上に変な落書き。消しゴムを隠される。廊下ですれ違いざまに肩をぶつけられる。聞こえるか聞こえないかの声で笑われる。


 「高嶺の花」と言われる前の、ただの“気を引きたい”類の行為。


 それが、凛華には理解できなかった。


 理解したくもなかった。


 泣かされる。


 困らされる。


 恥をかかされる。


 その痛みが続いた。


 凛華は嫌だった。


 嫌なのに、誰にも言えなかった。


 言えば大事になる。言えば揉める。言えばもっと面倒になる。そう思ってしまうくらいには、もう誰かを信じる力が弱っていた。


 そして何より、凛華は分かってしまう。


 自分が“反撃できない”ことを相手が知っているから、続くのだと。


 凛華は、泣き虫だった自分を思い出した。


 悠真の後ろに隠れていた自分。


 助けてくれた悠真。


 守ってくれた悠真。


 ――だから、余計に痛かった。


 守ってくれる人がいない。


 それが、凛華の現実だった。


 ある日、からかっていた男子の一人が、別の場所でぽつりと言った。


 「好きだったんだよ」


 告白というより、言い訳みたいな声だった。


 凛華は、その瞬間、背筋が凍った。


 好き。


 それが好きなら、嫌がらせは愛になる。


 泣かせることも、困らせることも、愛になる。


 凛華の中で、何かが決定的に折れた。


 ――他人は、自分を攻撃する。


 攻撃しておいて、後から“好意”だと言い換える。


 それは、気持ち悪い。


 理解できない。


 理解できるわけがない。


 凛華はそれ以来、“踏み込ませない”ことを覚えた。


 誰にも、奥まで入らせない。


 奥に入れば、奪われる。


 踏み込ませなければ、傷つかない。


 凛華は笑った。


 微笑んだ。


 丁寧に話した。


 そうして、自分を守った。


 周囲はそれを「高嶺の花」と呼んだ。


 近寄りがたい。


 綺麗。


 完璧。


 凛華は、その言葉に頷いた。


 そう見えているなら、それでいい。


 近づかれなければ、安心できる。


 羨まれる存在になっても、凛華の心はずっと数年前に置き去りのままだった。


 悠真の隣。


 あの日々。


 暖かい背中。


 手を引いてくれた感覚。


 そこだけが、凛華の中で色を持っていた。


 凛華は自分に言い聞かせた。


 「あの日々はもう戻らない」


 期待するのはやめよう。


 望むのはやめよう。


 だって、望んだら痛い。


 望んだら、また奪われる。


 だから、諦めよう。


 諦めれば、平気になれる。


 そう思っていた。


 ――その時計が、突然動き出した。


 悠真が戻ってきた。


 あまりにも突然で、信じられなかった。


 声。


 顔。


 目。


 懐かしいのに、少し違う。


 大人になっているのに、あの頃の匂いを持っている。


 凛華の胸の奥で、ずっと眠っていたものが目を覚ました。


 驚きより先に、熱が上がる。


 嬉しい、というより先に。


 「取られたくない」が先に来る。


 戻ってきたのに、また消えるかもしれない。


 戻ってきたのに、今度こそ誰かに奪われるかもしれない。


 凛華は瞬時に理解した。


 自分はもう、“ただの仲良し”には戻れない。


 あの頃みたいに、無邪気に笑って、放っておいて、また会って——そんな曖昧な関係では耐えられない。


 曖昧は怖い。


 曖昧は、消える。


 だから、形が必要だった。


 確かな形。


 自分の目の届く場所。


 自分の手の届く距離。


 自分の空間。


 自分の聖域。


 そこに、悠真を組み込めばいい。


 そうすれば消えない。


 そうすれば奪われない。


 凛華の思考は、そこで歪んだ。


 でも凛華にとっては、それは“自然”だった。


 だって凛華は、長い時間、信じられるものを一つしか持たなかったのだから。


 それが、悠真だったのだから。


 回想の最後は、いつも同じ場面で終わる。


 自分の部屋で、ひとりで話す声。


 声に出していなくても、心の中で喋る声。


 「悠真なら、どう思う?」


 「悠真なら、笑う?」


 「悠真なら、怒る?」


 「悠真なら、守ってくれる?」


 凛華はずっと、“思い出の中の悠真”とだけ会話していた。


 それだけが、自分を保つ方法だった。


 それだけが、心を壊さない方法だった。


 だから今。


 目の前に本物の悠真がいるのに。


 本物の悠真がいるからこそ。


 時々、怖くなる。


 思い出の中の悠真と違う瞬間がある。


 知らない表情。


 知らない距離。


 知らない沈黙。


 その“違い”が、凛華の中で“消失”と結びつく。


 また、いなくなる。


 また、奪われる。


 また、戻らない。


 凛華の中の飢えが、そこで暴れる。


 だから、縛る。


 だから、守る。


 だから、閉じる。


 それが愛かどうかなんて、凛華にはもう区別がつかなかった。


 ……悠真の寝室。


 現実の空気が戻ってくる。


 肩を掴まれている。


 悠真の手。


 その温度。


 その強さ。


 そして、問い。


 「本当は何を、そんなに怖がってるんだ?」


 凛華は瞬きをした。


 悠真の目が、逃げずに見ている。


 凛華は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。


 いつもの聖女の微笑みとは違う。


 取り繕いきれない、素の微笑み。


「……悠真くんがいなかった間」


 声が、落ち着いている。


 今日の天気を話すみたいなトーン。


 だからこそ、怖い。


「ずっと、思い出の中の君とだけお喋りしてたの」


 凛華はまるで、ただの習慣を語るみたいに言う。


「……だからかな」


 微笑みが消えないまま、言葉だけが深くなる。


「今の悠真くんが、時々、消えちゃいそうに見えるんだ」


 凛華の瞳が揺れる。


 泣きそうにはならない。


 怒らない。


 声も荒らさない。


 ただ、事実として言う。


 悠真は息を呑む。


 凛華の言葉が、重すぎたからではない。


 軽すぎるからだ。


 そんなことを、凛華は“普通”として抱えてきた。


 長い時間、悠真という概念だけに寄りかかって、生きてきた。


 だから、今の凛華は。


 悠真がいるのに。


 悠真がいるからこそ。


 飢えている。


 凛華は静かに、もう一度微笑んだ。


「……変だよね」


 変だと言いながら、否定しない微笑み。


 悠真は言葉を失ったまま、凛華の肩を掴む指先に、無意識に力を入れていた。


 凛華の体温が、そこにあるのに。


 凛華の言葉が、あまりにも長い孤独を映していて。


 部屋の空気は、まだひび割れたまま戻らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ