29話
悠真の問いが落ちた瞬間、凛華の中で何かが止まった。
動けない。
泣けない。
怒れない。
笑顔さえ、作れない。
ただ、視界の端がじわりと暗くなっていく。胸の奥に、冷たい水が満ちていくみたいに。
――触れられた。
ずっと、見ないふりをしてきた場所に。
凛華はゆっくり瞬きをした。悠真の指先が自分の肩を掴んでいるのが分かる。体温がある。今ここにいる。手が震えていない。問いかける声も、逃げずに自分を見つめる目も。
なのに、その存在が、ふっと薄くなる錯覚がある。
消える。
目を離したら消える。
あの時みたいに。
凛華の喉が、ひゅっと鳴った。
そして、音もなく、記憶の底へ沈んでいく。
悠真がいなくなってからの日々は、彩度が落ちた。
空は青い。季節は巡る。花は咲く。笑い声も聞こえる。けれど凛華の中だけ、色が薄いままだった。
最初のうちは、まだ「そのうち戻ってくる」と思っていた。
幼馴染だ。
いなくなるはずがない。
連絡が取れなくなっても、何か事情があるだけだと、どこかで信じていた。
でも、時間は容赦なく積み重なった。
一週間。
一ヶ月。
半年。
「そのうち」が、いつの間にか「もう無い」に変わっていく。
凛華は、学校で普通に笑った。
親の前でも、普通に笑った。
家は平和だった。両親は仲が良く、食卓には温かいご飯が並ぶ。くだらないテレビの話で笑い合う夜もある。凛華は恵まれている。
だからこそ、言えなかった。
外で孤独だなんて。
心が空っぽだなんて。
「悠真がいなくなって苦しい」なんて。
そんなことを口にした瞬間、自分が贅沢を言っているみたいに見える気がした。恵まれているのに、まだ足りないと言っているみたいに聞こえる気がした。
凛華は“完璧な娘”の仮面を厚くした。
成績は落とさない。身だしなみは崩さない。誰とでもそれなりに話す。先生にも、友達にも、親にも、優等生の顔を見せる。
その仮面の内側で、凛華はずっと同じことを繰り返していた。
「悠真なら、こう言ってくれたのに」
誰かが冗談を言って笑わせようとしても、凛華の中では比較が始まる。
その冗談は、悠真の冗談より優しくない。
その気遣いは、悠真の気遣いより遅い。
その距離感は、悠真の距離感より遠い。
そんなふうに比べて、そして、勝手に疲れていく。
疲れていくくせに、比べるのをやめられない。
悠真が“唯一の基準”だった。
そこから外れるものは全部、どこか違う。
凛華は何度も、誰かと仲良くしようとした。
昼休みに一緒に食べる。放課後に寄り道する。写真を撮って笑う。
できる。上手にできる。周りから見れば、ちゃんと友達がいる。
でも、深いところで繋がれない。
言葉の奥に、いつも一枚ガラスがあるみたいだった。
踏み込むと割れる。
割れたら痛い。
だから、浅いまま笑う。
その浅さが、凛華を守る代わりに、凛華を冷やしていった。
決定的だったのは、男子たちの“からかい”だった。
最初は本当に、幼稚なものだった。
机の上に変な落書き。消しゴムを隠される。廊下ですれ違いざまに肩をぶつけられる。聞こえるか聞こえないかの声で笑われる。
「高嶺の花」と言われる前の、ただの“気を引きたい”類の行為。
それが、凛華には理解できなかった。
理解したくもなかった。
泣かされる。
困らされる。
恥をかかされる。
その痛みが続いた。
凛華は嫌だった。
嫌なのに、誰にも言えなかった。
言えば大事になる。言えば揉める。言えばもっと面倒になる。そう思ってしまうくらいには、もう誰かを信じる力が弱っていた。
そして何より、凛華は分かってしまう。
自分が“反撃できない”ことを相手が知っているから、続くのだと。
凛華は、泣き虫だった自分を思い出した。
悠真の後ろに隠れていた自分。
助けてくれた悠真。
守ってくれた悠真。
――だから、余計に痛かった。
守ってくれる人がいない。
それが、凛華の現実だった。
ある日、からかっていた男子の一人が、別の場所でぽつりと言った。
「好きだったんだよ」
告白というより、言い訳みたいな声だった。
凛華は、その瞬間、背筋が凍った。
好き。
それが好きなら、嫌がらせは愛になる。
泣かせることも、困らせることも、愛になる。
凛華の中で、何かが決定的に折れた。
――他人は、自分を攻撃する。
攻撃しておいて、後から“好意”だと言い換える。
それは、気持ち悪い。
理解できない。
理解できるわけがない。
凛華はそれ以来、“踏み込ませない”ことを覚えた。
誰にも、奥まで入らせない。
奥に入れば、奪われる。
踏み込ませなければ、傷つかない。
凛華は笑った。
微笑んだ。
丁寧に話した。
そうして、自分を守った。
周囲はそれを「高嶺の花」と呼んだ。
近寄りがたい。
綺麗。
完璧。
凛華は、その言葉に頷いた。
そう見えているなら、それでいい。
近づかれなければ、安心できる。
羨まれる存在になっても、凛華の心はずっと数年前に置き去りのままだった。
悠真の隣。
あの日々。
暖かい背中。
手を引いてくれた感覚。
そこだけが、凛華の中で色を持っていた。
凛華は自分に言い聞かせた。
「あの日々はもう戻らない」
期待するのはやめよう。
望むのはやめよう。
だって、望んだら痛い。
望んだら、また奪われる。
だから、諦めよう。
諦めれば、平気になれる。
そう思っていた。
――その時計が、突然動き出した。
悠真が戻ってきた。
あまりにも突然で、信じられなかった。
声。
顔。
目。
懐かしいのに、少し違う。
大人になっているのに、あの頃の匂いを持っている。
凛華の胸の奥で、ずっと眠っていたものが目を覚ました。
驚きより先に、熱が上がる。
嬉しい、というより先に。
「取られたくない」が先に来る。
戻ってきたのに、また消えるかもしれない。
戻ってきたのに、今度こそ誰かに奪われるかもしれない。
凛華は瞬時に理解した。
自分はもう、“ただの仲良し”には戻れない。
あの頃みたいに、無邪気に笑って、放っておいて、また会って——そんな曖昧な関係では耐えられない。
曖昧は怖い。
曖昧は、消える。
だから、形が必要だった。
確かな形。
自分の目の届く場所。
自分の手の届く距離。
自分の空間。
自分の聖域。
そこに、悠真を組み込めばいい。
そうすれば消えない。
そうすれば奪われない。
凛華の思考は、そこで歪んだ。
でも凛華にとっては、それは“自然”だった。
だって凛華は、長い時間、信じられるものを一つしか持たなかったのだから。
それが、悠真だったのだから。
回想の最後は、いつも同じ場面で終わる。
自分の部屋で、ひとりで話す声。
声に出していなくても、心の中で喋る声。
「悠真なら、どう思う?」
「悠真なら、笑う?」
「悠真なら、怒る?」
「悠真なら、守ってくれる?」
凛華はずっと、“思い出の中の悠真”とだけ会話していた。
それだけが、自分を保つ方法だった。
それだけが、心を壊さない方法だった。
だから今。
目の前に本物の悠真がいるのに。
本物の悠真がいるからこそ。
時々、怖くなる。
思い出の中の悠真と違う瞬間がある。
知らない表情。
知らない距離。
知らない沈黙。
その“違い”が、凛華の中で“消失”と結びつく。
また、いなくなる。
また、奪われる。
また、戻らない。
凛華の中の飢えが、そこで暴れる。
だから、縛る。
だから、守る。
だから、閉じる。
それが愛かどうかなんて、凛華にはもう区別がつかなかった。
……悠真の寝室。
現実の空気が戻ってくる。
肩を掴まれている。
悠真の手。
その温度。
その強さ。
そして、問い。
「本当は何を、そんなに怖がってるんだ?」
凛華は瞬きをした。
悠真の目が、逃げずに見ている。
凛華は、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
いつもの聖女の微笑みとは違う。
取り繕いきれない、素の微笑み。
「……悠真くんがいなかった間」
声が、落ち着いている。
今日の天気を話すみたいなトーン。
だからこそ、怖い。
「ずっと、思い出の中の君とだけお喋りしてたの」
凛華はまるで、ただの習慣を語るみたいに言う。
「……だからかな」
微笑みが消えないまま、言葉だけが深くなる。
「今の悠真くんが、時々、消えちゃいそうに見えるんだ」
凛華の瞳が揺れる。
泣きそうにはならない。
怒らない。
声も荒らさない。
ただ、事実として言う。
悠真は息を呑む。
凛華の言葉が、重すぎたからではない。
軽すぎるからだ。
そんなことを、凛華は“普通”として抱えてきた。
長い時間、悠真という概念だけに寄りかかって、生きてきた。
だから、今の凛華は。
悠真がいるのに。
悠真がいるからこそ。
飢えている。
凛華は静かに、もう一度微笑んだ。
「……変だよね」
変だと言いながら、否定しない微笑み。
悠真は言葉を失ったまま、凛華の肩を掴む指先に、無意識に力を入れていた。
凛華の体温が、そこにあるのに。
凛華の言葉が、あまりにも長い孤独を映していて。
部屋の空気は、まだひび割れたまま戻らなかった。




