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あの日、泣き虫だった君は隣のクラスで「高嶺の花」と呼ばれている  作者: 風莉


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28話

 午後の光は、カーテンの向こうに押し込められていた。


 部屋の中は薄暗い。時間が止まったみたいに静かで、時計の秒針の音だけがやけに鮮明に聞こえる。空気はぬるく、薬の匂いと、少しだけ甘いリンゴの匂いが混ざっていた。


 悠真は目を開ける。


 熱は、引いていた。


 頭の奥を覆っていた膜が薄くなって、思考がはっきりしている。喉の痛みも軽い。身体のだるさは残っているけれど、昨日までの“どこにいるか分からない”感覚はない。


 なのに、部屋は変わっていない。


 カーテンは閉め切られたまま。窓の外の音は遠い。世界が、この部屋の外にあることだけが分かる。


 悠真はゆっくり上体を起こした。


 その気配に、すぐ反応が返ってくる。


「あ、起きた?」


 凛華が、ベッドの脇から顔を覗き込んだ。笑顔。いつもの、柔らかい笑顔。


「もう少し横になってなきゃダメだよ」


 言い方が自然すぎて、まるで“当然のルール”みたいに聞こえる。


 凛華は皿を持ってきた。薄く切られたリンゴ。つやつやした赤い皮が、丁寧に剥かれている。


「……ほら、林檎剥いたから食べて?」


 悠真は頷きかけて、止めた。


 リンゴは甘い。凛華の手は優しい。丁寧だ。完璧だ。


 でも、その完璧さが、悠真には違って見え始めていた。


 この優しさは、看病じゃない。


 “ここに留めておく”ための、鎖だ。


 悠真は喉を鳴らした。


「……ありがとう。でも、もう大丈夫だと思う」


 凛華の笑顔が、ほんの少しだけ固まる。崩れない。崩れないけれど、どこかで引っかかる。


 悠真は言葉を続けた。


「少し、外の空気を吸ってくる。息苦しいし……」


 ベッドの縁に足を下ろす。床が冷たい。筋肉がまだ弱っている。立ち上がるのに少しだけ力が要る。


 悠真が身体を前に傾けた、その瞬間だった。


 凛華が、すっと動いた。


 音がない。


 気づいた時には、凛華がドアの前に立っていた。


 背中で扉を塞ぐように。逃げ道を塞ぐように。


 凛華は笑っている。


 なのに、瞳だけが笑っていない。


「ダメだよ」


 声は、柔らかい。


「もしぶり返したらどうするの?」


 もっともな言葉。反論しにくい正論。


 凛華は一歩だけ近づいてくる。足音が小さい。近づく距離が、やけに確実だ。


「……悠真くんは、私がいないとダメなんだから」


 悠真の胸が、ひゅっと縮んだ。


 言葉が、冗談じゃない重さで落ちる。


 凛華は首を傾げる。お願いするみたいに。


「ねえ、ここにいて?」


 お願いの形。


 でも、拒否を想定していない目。


 悠真は唾を飲んだ。


「凛華、外に出るだけだ。散歩とかじゃなくて、玄関の前でもいいから……」


 言い終える前に、凛華が近づく。


 悠真の肩に手が触れた。


 柔らかい。優しい。だけど、逃げられない。


 凛華は悠真を押し倒すようにしない。ただ、静かに押し戻す。何が正しいか分かっている人の動きで、悠真をベッドへ戻す。


 悠真は抵抗できなかった。


 抵抗したら、凛華の顔が変わる気がした。


 抵抗したら、またあの“反転”が来る気がした。


 悠真は、ベッドに座り直す形になった。


 凛華はそのまま、距離を詰めた。


 逃げ道を奪うように、身を乗り出してくる。


「どうして外に行こうとするの?」


 声は、優しい。


 でも、問いが責めている。


「ここには私が必要なもの、全部用意してあげたのに」


 リンゴ。飲み物。薬。毛布。冷えピタ。


 そして、凛華。


 悠真の視界の中に、“凛華の用意した世界”だけが広がる。


 凛華は続ける。


「……学校も、お友達も、今の悠真くんには必要ないんだよ」


 それは看病じゃない。


 隔離の懇願だ。


 優しさで包む形をした、拒否の許されない命令。


 凛華が悠真の腕を掴む。


 指先が、小刻みに震えていた。


 震えているのは怒りじゃない。


 恐怖だ。


 悠真はその震えを見て、背筋が冷たくなる。


 凛華は“悠真の熱”を怖がっているんじゃない。


 “外”を怖がっている。


 “悠真がいなくなる可能性”を怖がっている。


 悠真は、ふと確信する。


 この異常な執着の影には、悠真がいない数年間の“空白”が横たわっている。


 知らない時間。


 知らない痛み。


 知らない恐怖。


 凛華は、それを言わないまま、笑って、守って、縛っている。


 悠真の胸の奥で、恐怖と同じくらい強い感情が膨らむ。


 義務感。


 逃げたいのに、逃げられない。


 だからこそ、踏み込まなきゃいけないという感覚。


 今ここで目を逸らしたら、凛華はこのまま壊れていく。


 そして、自分もこのまま溶けていく。


 悠真は息を整えた。


 凛華の肩に手を置く。


 震える肩。


 熱を持っているのに、どこか冷たい。


 悠真は、凛華の瞳を真正面から見た。


 逃げないで、見る。


 怖い。けれど、逃げない。


「……なあ、凛華」


 声が、思ったより落ち着いていた。


 部屋を満たしていた甘い空気が、少しだけ硬くなる。


 悠真は続ける。


「僕がいない間、君に何があったんだ?」


 凛華の瞬きが、止まる。


 悠真は言葉を選ばず、言った。


「君が怖がってるのは、僕の風邪じゃないだろ」


 凛華の指先の震えが、一瞬だけ大きくなる。


 悠真は畳みかけない。静かに、確かめるように言う。


「……本当は何を、そんなに怖がってるんだ?」


 その問いが落ちた瞬間、部屋の空気が凍りついた。


 凛華の表情から、一切の動きが消える。


 泣きもしない。


 怒りもしない。


 笑いもしない。


 ただ、止まった。


 瞳の奥に、何かが急速にせり上がってくるのが分かった。


 触れてはいけない記憶。


 名前を持たない痛み。


 凛華の中で封をしていたものが、今、押し返してくる。


 悠真は錯覚を覚えた。


 自分の指先から、凛華の体温が急激に奪われていくような錯覚。


 さっきまでの柔らかな温度が、急に冷たくなる感覚。


 凛華の肌が冷えていくのではなく——部屋そのものが冷えていく。


 悠真の喉が鳴る。


 凛華はまだ動かない。


 その静止の重さが、悠真の胸を圧迫した。


 まるで、空気にひびが入る音が聞こえそうだった。


 聖域が、ひび割れる。


 優しさで塗り固めた壁に、初めて亀裂が走る。


 悠真はその亀裂の前で、息もできずに凛華を見つめ続けた。


 凛華の瞳だけが、どこか遠い場所を見ていた。

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