27話
朝。
熱の膜が薄くなっている。頭の奥の鈍い痛みは残っているけれど、昨日のように世界が溶けてはいない。喉はまだ乾いている。身体は鉛みたいに重い。それでも、思考が形を取り戻してきているのが分かった。
そして、音がした。
階下。台所の方から、慌ただしい気配。食器が触れ合う小さな音、湯沸かし器のスイッチの音、引き出しを開け閉めする音。父親が出勤前の準備をしている音だ。
悠真は一度、息を吸った。
家の匂い。いつもの家の朝の匂い。昨日までの“閉じた熱の部屋”とは違う空気が、少しだけ入ってきている気がした。
横を向く。
枕元に、凛華が座っていた。
静かに、当たり前のように。椅子を持ってきたのか、ベッドの脇の床に膝をついているのか分からない距離で。悠真が目を開けたのに気づくと、凛華はぱっと顔を明るくする。
「あ、起きた?」
声が柔らかい。昨日の夜の“笑ってない目”の硬さは、奥に隠してあるみたいに見えた。
凛華は続ける。何でもないことのように。
「お父様には挨拶しておいたよ。『悠真くんのことは任せてください』って」
凛華は少しだけ得意げに笑う。
「……お父様も、凛華ちゃんなら安心だって笑ってた」
悠真は一瞬、言葉が出なかった。
凛華が、父に。
凛華が、“任せてください”と。
父はそれを受け入れた。
娘のように信頼している幼馴染に、息子の看病を丸投げして安心した——その図が、頭の中で組み上がる。
善意。
善意の丸投げ。
悠真は喉の奥が少し苦くなった。
「……親父、もういるの?」
声がかすれる。
「うん。もうすぐ出るみたい」
凛華は悠真の額に手を当てた。ひんやりした掌。熱を測るように、確かめるように。
「まだちょっと熱っぽいけど、昨日よりずっといいね」
その言い方が、看護師みたいに慣れている。
悠真は身体を起こそうとした。起こそうとして、少しふらつく。凛華の手がすぐに背中に回った。
「無理しないで。まだ病人なんだから」
柔らかい言葉。柔らかい手。
その柔らかさの中に、“主導権”があるのが分かる。
悠真が選ぶより先に、凛華が決める。
それが、ここ数日の“平穏”の形だった。
廊下から、父の声がした。
「悠真、しっかり休めよ」
いつもの調子。少しだけ気遣う声。
「凛華ちゃん、悪いけどよろしくな」
扉一枚向こう。悠真の部屋の外。父はドアを開ける気配もない。忙しいのだろう。出勤前の時間はいつも慌ただしい。
悠真は声を返そうとした。
「……あ、親父……」
その瞬間、凛華の指が、悠真の口元に触れた。
人差し指。
昨日の夜と同じ“止める”触れ方。
凛華は小声で言った。
「……しーっ」
笑っている。優しく。まるで、気遣いの形。
「お父様、急いでるみたいだから。心配させちゃダメだよ?」
悠真の言葉は、指先で押し戻される。
悠真は凛華の瞳を見た。そこに“心配させるな”という正しさがあり、“口を挟むな”という圧がある。
父の声が遠ざかる。
「じゃあ、行ってくる」
玄関の鍵の音。ドアが開く音。閉まる音。
足音が消える。
家の中が、急に静かになった。
外の気配が消えた。
唯一の“外”への窓口が、凛華の笑顔によってさらりと閉じられた感覚がした。
悠真は息を吐いた。
吐いた息が、思ったより震えていた。
「……スマホ、返して」
悠真は声を出した。
昨日の夜から気になっていたこと。熱が下がってきた今だから言えること。
「学校に連絡しなきゃいけないし」
凛華は驚いた顔をしない。
怒った顔もしない。
ただ、迷いなく言った。
「ダメ」
短い。
凛華は自分のカバンを軽く叩いた。
「電源切っておいたから」
悠真の背中に、冷たいものが走った。
“切っておいた”。
自分の意思ではなく、凛華の手で。
凛華は明るい口調のまま続ける。
「昨日の夜、私をあんなに不安にさせた悠真くんへの、ちょっとしたお仕置き」
ちょっとした。
悪戯みたいな言い方。
その言い方が、悠真には不気味だった。
凛華は笑う。
「……今日は一日、私のことだけ見てて?」
お願いの形。
でも拒否を想像していない目。
悠真は喉が詰まった。
言い返したい。取り返したい。スマホは自分のものだ。連絡は自分の権利だ。
なのに、言葉が重い。
昨日の夜の“次があったら”が、まだ耳の奥で鳴っている。
悠真は唇を開けて、閉じた。
凛華は悠真の沈黙を“了解”として受け取るように、ほっとした顔をした。
その“ほっとする”顔が、悠真の胸をさらに締め付ける。
言えば壊れる。
言えば泣かせる。
それが、悠真の喉を塞ぐ。
凛華は立ち上がり、濡れタオルを取りに行った。
戻ってくると、昨日と同じように悠真の首筋を拭く。汗を取る。丁寧に、ゆっくり。
「気持ちいい?」
悠真は頷いた。
頷くしかなかった。
凛華は着替えを持ってきた。悠真の部屋の引き出しを開ける音。服を選ぶ音。どれがいいか、迷っている気配。
「これ、着替えよう」
凛華が言う。
「……自分でできる」
悠真は言ってみた。
言ってみたけれど、身体がまだ重い。腕を上げるのがつらい。熱が抜けきっていない。
凛華は微笑んだ。
「病人は甘えるものだよ」
優しい言葉。
でも、その言葉で主導権を譲らない。
凛華は悠真のパジャマのボタンを外す。袖を抜かせる。ゆっくりと、丁寧に。指先が触れるたび、悠真は自分が“手入れされている”感覚に襲われる。
人間として扱われているのに、物のようにも扱われている。
矛盾が、胃の奥で渦巻く。
凛華は汗を拭き、髪を整え、枕の位置を直し、飲み物を口元へ運ぶ。
完璧だった。
感謝すべき献身。
それなのに、自由が奪われているという事実が、じわじわと悠真を侵食していく。
(……親父もあんな感じだし)
悠真はぼんやり思う。
父は、凛華に任せて安心した。
凛華に任せることが“正しい”と信じた。
(今の僕は、凛華がいないと何もできない)
その考えが、現実として胸に落ちる。
凛華は時折、悠真の頬を撫でた。
慈しむように。
確かめるように。
その指先が、ほんのわずかに震えているのを、悠真は見逃さなかった。
震えている。
怖がっている。
守っている側の凛華が、なぜ震えるのか。
悠真の胸に、また疑問が浮かび上がる。
しばらくして、凛華は悠真の胸元に顔を寄せた。
頬が布団に触れる。髪が頬をくすぐる。凛華の髪の匂いが近い。甘いシャンプーの匂いと、少しだけ不安の匂い。
凛華はじっとしている。
鼓動を確認しているみたいに。
悠真の胸が上下するたび、凛華の肩がほんの少し揺れる。
安心したいのだ。
自分の手の中にいることを、体温で確かめたいのだ。
悠真は天井を見つめた。
昨夜、眠りに落ちる直前に抱いた疑問が、熱が引いた分だけ鋭くなる。
(……凛華は、僕を助けたいんじゃない)
(僕を『持っていたい』だけなんじゃないか?)
その疑念が、確信に変わりそうになる。
言葉にしたら、もう戻れない気がする。
でも、黙っていたら、もっと深く沈む気がする。
悠真が息を吸った、その時。
凛華が小さく呟いた。
「……あったかいね」
声が、驚くほど素直だった。
幼い頃の凛華みたいな声。
泣き虫で、怖がりで、置いていかれるのが怖くて仕方なかったあの頃の声。
心から安堵した声。
孤独で、脆い声。
その声を聞いた瞬間、悠真は何も言えなくなった。
凛華の執着の根底にあるのは、愛情というより——もっと切実な“飢え”のような何か。
失うことへの飢え。
置いていかれることへの飢え。
自分だけを見てほしいという飢え。
悠真はその予感を抱えたまま、重い瞼を閉じた。
言葉にしたら壊れる。
今はまだ、壊したくない。
凛華の頬が胸元に触れている。凛華の呼吸が近い。凛華の手が、悠真の腕をそっと抱く。
その温度に包まれながら、悠真の意識はまた静かに沈んでいった。




