19話
朝、靴箱の前で上履きに履き替えた瞬間、足裏にざり、と鈍い感触が走る。小石ではない。硬い痛みではない。ただ、薄く広がる不快さ。歩くたびに足の裏を擦る粒。
悠真は立ち止まって、上履きを脱いだ。
中に、砂が入っている。
ほんの少量。指でつまめる程度。洗えば落ちる。証拠として残すほどでもない。教師に見せても「掃除の砂じゃない?」と言われて終わる。
でも——分かる。
これは偶然じゃない。
画鋲のような“事件”にはならない。怪我もしない。騒ぎにもならない。だからこそ、悪意だけが残る。自分だけが気づく悪意。自分だけが持ち歩く不快感。
悠真は砂を捨て、上履きを履き直した。
足裏のざらつきが、心のざらつきと重なる。洗っても落ちない気がするのは、砂じゃなく、見えない刺の方だ。
教室へ向かう廊下は、昨日と同じ景色だった。笑い声。挨拶。窓の光。廊下の掲示物。
みんな、普通だ。
普通だから、悠真だけが異常になる。
席に着いて、教科書を出そうとした。授業の準備。ルーティン。自分の手順だけは乱さないように。
棚に手を伸ばして、指が止まる。
ない。
いつもそこにある教科書が、ない。
心臓が一拍だけ強く鳴った。息が浅くなる。見られている気がして、背筋が固くなる。
探す。焦らないふりをして、探す。
棚の中のファイル。ノート。プリント。全部、丁寧に見ていく。自分の動きが滑稽に見える。周囲の笑い声が耳に刺さる。自分のことを笑っているように聞こえる。
——落ち着け。
きっと、どこかにある。昨日の自分が変な場所に入れたのかもしれない。そう思わないと、ここに居られない。
棚の奥、見えにくい隙間。指を伸ばす。
あった。
見える場所ではなく、“探さないと届かない場所”に押し込まれている。紙の角が少しだけ折れている。それだけのこと。
それだけのことなのに、胸の奥がひゅっと縮んだ。
時間を奪われる。
思考を奪われる。
朝の数十秒が、丸ごと自分の世界を削る。
“探せば見つかる”という形が、最悪だった。
絶対に訴えられない。
絶対に勝てない。
しかも、誰か一人の悪意ではない気がする。やったのが誰であっても、周囲が黙っている時点で、全員のものになる。
授業が始まっても、悠真の意識は黒板に乗らなかった。
教師の声が遠い。チョークの音が水の中みたいに鈍い。ノートの文字が、どこか他人の字に見える。
些細なことに反応してしまう自分が嫌で、もっと目立たないように体を縮める。息を殺す。背中を小さくする。
休み時間、誰かが椅子を引く音がすると、反射的に肩が跳ねた。
隣の席の男子が鞄を落として笑っただけで、悠真は「今の笑いは俺のことだ」と思ってしまう。
視線が交差すると、勝手に意味を作る。
「こいつ、また隠されたもの探してる」
「邪魔」
「寄生」
声は聞こえていない。けれど、脳が勝手に字幕をつける。疑心暗鬼が、教室の空気に溶けていく。
健太が、他の男子と笑い合っているのが見えた。
ほんの普通の笑いだ。昨日見たら何も思わなかったはずの光景。
なのに、胸が痛む。
あの笑いの輪の中で、俺の悪口が回っているのではないか。
俺を切り離すための合図なのではないか。
健太の口から「巻き添えは勘弁」が出た日の言葉が、何度も反芻される。
自分の中で、健太が“味方”から“判別不能な他人”に変わっていく。
それが怖い。
怖いのに、止められない。
誰にも相談できない。
砂が入っていた、と言えば笑われる。
教科書が隠されていた、と言えば「探せばあったんだろ」と言われる。
“些細すぎる被害”は、声にした瞬間に自分を惨めにするだけだ。
だから悠真は沈黙した。
沈黙するほど、世界は遠のく。
沈黙するほど、見えない刺は深く刺さる。
そんな中で、昼休みの少し前。
廊下のざわめきが一瞬、波の向きを変えた。
誰かが入口を見た気配。空気が冷える気配。声が低くなる気配。
凛華が、一組の教室の前に立っていた。
何の迷いもなく、扉を開けて入ってくる。視線が集まる。空気が固まる。凛華はそれを感じていないように、感じていて当然のように、悠真の席まで歩いてくる。
「悠真くん」
声が明るい。無垢な呼び方。
「お昼、一緒に食べよ?」
凛華の笑顔は、救いの顔をしている。
悠真の中の“息ができない”が、その瞬間だけ少し薄くなる。凛華の存在が、教室の冷気を遮断する壁になる。
でも同時に、背中がぞわりとした。
凛華が来れば来るほど、クラスの空気が冷え込む。
凛華が隣に立つほど、放課後の“砂”が増える。
凛華が悠真を引き上げるほど、見えない刺が深くなる。
それが、もう分かってしまっている。
凛華は、悠真の返事を待つ間も微笑んでいる。拒否されることを想定していない。拒否されるとしたら、それは“悠真が傷ついている証拠”として抱きしめるだけだ。
「……うん」
悠真は頷いた。
頷くしかなかった。
凛華は嬉しそうに目を細める。
「よかった。じゃあ、行こ」
その瞬間、教室の温度がもう一段落ちた気がした。
視線が刺さる。口元が笑っているような気配。笑い声が遅れて聞こえる。
悠真は立ち上がりながら、悟る。
凛華が来なければ、こんなことにはならない——そう気づき始めているのに。
凛華がいなければ、俺はもう耐えられない——そう思い始めている。
矛盾が、体の中で絡まっていく。
凛華は廊下で悠真の隣を歩きながら、さりげなく距離を詰めた。袖が触れる。
「今日は大丈夫だった?」
「……うん」
嘘だ、と凛華は言わない。言わない代わりに、目を細める。
「そう。えらいね」
えらいね、という言葉が、甘い。
甘いから、苦しい。
放課後。
悠真は自分の席で鞄をまとめながら、ノートを閉じた。ページの端に、違和感がある。
小さな字。
乱暴に書かれたわけではない。大きくもない。ひそやかで、だから余計に刺さる。
『死ね』ではない。
もっと軽い。
もっと日常的で、もっと残酷な一言。
『邪魔』
悠真の指が止まった。
息が止まった。
この一言が、個人の悪意ではなく、教室全体の総意みたいに感じられた。
凛華という光。
その光の隣に座る自分が、影のように邪魔だと言われている。
自分がそこにいるだけで、誰かの視界を汚す。
自分がそこにいるだけで、空気が濁る。
そう言われている気がした。
ノートを閉じても、字は消えない。
消えない字が、胸の内側に写る。
悠真は立ち上がれなかった。
教室のざわめきが遠い。誰かが椅子を引く音がする。誰かが「じゃーな」と言っている。日常が、悠真の外側で回っている。
“邪魔”なものは、日常に参加できない。
悠真は鞄の紐を握り、ゆっくりと立ち上がった。
扉へ向かう足が重い。上履きの中に入った砂を思い出す。あの砂は洗えば落ちる。でも、今の砂は落ちない。
廊下に出ると、二組の方角が見えた。
凛華が待っているはずの場所。
そこへ行けば、慰められる。守られる。盾の中に入れる。
その代わり、刺は増える。
刺が増えるほど、盾から出られなくなる。
悠真は、立ち止まった。
そして気づく。
もう教室の中に、自分の居場所はない。
健太の笑い声も、誰かの雑談も、全部が遠い。近いのは“邪魔”の一言だけだ。
悠真はノートを鞄に押し込み、目を伏せた。
世界が、静かに狭くなる。
見えない刺が、皮膚の内側でじわりと痛んだ。




