18話
朝の一組教室は、いつも通りの音で満ちていた。
椅子が引かれる音。鞄が机に置かれる鈍い音。廊下から聞こえる笑い声。窓際の席で髪を結ぶ女子の指先。全部、日常の手触りだ。
その日常の中で、悠真だけが一拍遅れて動いていた。
席に着き、鞄を机の横に置く。教科書を取り出す。ノート——
そこで、ふと目に入った。
床に、白い紙の端が覗いている。
机の下。自分の足元。いや、机の“中”に入っていたはずの予備のノートだ。
拾い上げると、折れた角が掌に当たった。誰かが乱暴に扱ったわけではない。破れてはいない。表紙も汚れていない。ただ、机の中から床へ落ちている。それだけの違和感。
悠真は机の中を覗き込む。
ペンケースを引っ張り出す。ファスナーを開ける。いつものシャープペンシルを手に取る。芯を出そうとして、指が止まった。
芯が、出ない。
いや、出る。出るのに、出た瞬間に折れて落ちる。細い黒い欠片が、机の上に転がった。
もう一度。折れる。
もう一度。折れる。
芯が全部、折れている。
折られたわけじゃない。——いや、折られている。でも、芯を折るというのは、“壊す”よりもっと巧妙な仕方だ。シャープペン自体は無傷だし、ペンケースも汚れていない。誰がやったのかも分からない。ただ確実に、誰かの手が入った。
悠真は息を吸って、周囲を見渡した。
クラスメイトたちは、平然と喋っていた。昨日と同じ顔で、昨日と同じ温度で、笑っている。目が合っても、すぐ逸らされるでもなく、逆に見てくるでもなく、何も起きていないように振る舞っている。
それが一番不気味だった。
自分だけが、異物として浮いている。
誰かがわざとやったのかもしれない。でも、確信が持てない。確信がないから、怒ることも、訴えることもできない。笑い話にされるだけだ。
「気のせいじゃね?」と。
「自分で折ったんだろ」と。
その未来が、先に見えてしまう。
悠真は折れた芯を指先でつまみ、ゴミ箱に捨てた。捨てる手つきが、慣れたものみたいに静かだった。
言い訳を作る必要がある。
折れた芯は、俺の不注意。
ノートが落ちたのは、俺の入れ方が悪かった。
そうやって、自分の中で処理しなければ、ここに居られない。
授業が始まるまでの時間がやけに長い。雑談の笑い声が遠い。誰かの視線が刺さる気がして、背筋が固くなる。
何も言われていないのに、もう責められている気がする。
休み時間になった。
いつもなら、健太がすぐに来て、ゲームの話だとか、動画の話だとか、どうでもいいことで笑って、昼飯の約束をしていた。
けれどその日は、健太の第一声が違った。
「なあ悠真」
名前を呼ぶ声が、妙に慎重だ。
「……さっき二組の奴らがさ。『瀬戸は冬月さんに寄生してる』って言ってたぞ」
寄生。
言葉が耳の奥で冷たく反響する。何かが一瞬で体温を奪っていった。
悠真は表情を崩さないようにした。崩せば、負ける。負けるという言い方が、もうおかしいのに。
「……だから?」
自分の声が思ったより低い。
健太は肩をすくめた。
「いや、だからさ……お前、あんまり目立たない方がいいかもな」
目立たない方がいい。
それは助言の形をしている。悪意ではない。健太はきっと、本気で悠真を心配している。自分が面倒に巻き込まれたくないという本音も混ざっているだろうけど、それは普通だ。
普通の自己保身だ。
だからこそ、刺さる。
「俺も巻き添え食うのは勘弁だしさ」
冗談めかして笑う。軽く言って、空気を和らげようとしている。けれど、その笑いは、悠真にとって刃だった。
唯一の友人が、距離を取ろうとしている。
“お前と一緒にいると危ない”と、言われている。
健太の言葉は、悠真を守るようでいて、悠真を孤立させる。
悠真は何か言おうとして、やめた。
言い返せば、健太は言うだろう。
「だって仕方ねえじゃん」
仕方ない。そうやって、悠真の世界は少しずつ縮む。
「……分かった」
口から出たのは、それだけだった。
健太は少しだけ困った顔をした。罪悪感はあるのだろう。でも、それでも距離は置く。人はそういう生き物だ。
「お前さ……冬月さんと、どうなんだよ」
話題が凛華に移る。
以前のような共通の趣味の話はない。悠真自身の話もない。あるのは、凛華を中心にした“周囲の温度”だけだ。
悠真は笑えなかった。
笑えないまま、時間が過ぎる。
昼休み、移動教室へ向かう廊下。
人が多い。流れがある。そこにいるだけで、気配に揉まれる。
悠真が前を歩く二人組の横をすり抜けようとしたとき、肩に衝撃が来た。
強くぶつけられた。
相手は謝らない。むしろ、ぶつかった後に少しだけ肩を引く。自分は悪くない、という仕草。
悠真は振り返りたいのに、振り返れない。振り返った瞬間、面倒が始まる。笑われる。騒がれる。先生が来る。被害者ぶるなと言われる。
悠真は飲み込んだ。飲み込みすぎて、喉の奥が痛い。
トイレに行こうとすれば、目の前でドアが閉められる。
わざとらしいほどではない。偶然の範囲に収まるギリギリ。教師に言えるほどでもない。
でも確実に、悠真の前でだけ、世界の扉が閉まる。
見えない針が、何本も刺さる。
血は出ない。でも、確実に痛い。
痛いのに、“痛いと言えない”。
これが一番、苦しい。
午後、廊下で数人の男子生徒に囲まれたのは、偶然の積み重ねの先だった。
前から二人。横から一人。後ろにも一人。道が塞がれる。肩幅の壁。笑っている顔。
「おい、ちょっと避けろよ転校生」
転校生。
それは悠真の本質を言い当てる言葉だった。ここに属していない。よそ者。混ざるな。
「何だよ、冬月さんの隣、いい気になってんの?」
嘲る声。笑い声。周囲の通行人は目を逸らす。見ないふりをする。関わらない。
悠真は言葉を探した。謝る? 謝っても、何を? 何もしていない。けれど謝らないと、面倒が増える気がする。
そのとき、背後から冷たい声が落ちた。
「――何をしてるの?」
空気が変わった。
男子生徒たちの笑いが止まる。呼吸が一拍遅れる。誰かが舌打ちを飲み込む音がした。
凛華が立っていた。
悠真の隣にすっと並ぶ。その動きに迷いがない。肩が触れるほど近い距離。彼女の存在が、盾になる。視線を集める。全ての矢が凛華に向く。
凛華は男子生徒たちを冷めた目で見据えた。怒りではない。ただ、興味がないみたいな目。相手を“取るに足りないもの”として分類する目。
「悠真くん、行こう」
凛華の声は穏やかだ。だからこそ逆らえない。
「……放っておいていいから」
放っておいていい——その言葉は男子生徒たちへの言葉であり、同時に悠真への命令でもあった。
凛華は迷わず悠真の袖を掴んだ。
掴む力が強いわけじゃない。逃げられないほどではない。
でも悠真は、逃げなかった。
凛華に引かれるまま、群れから離れる。背中に向かって小さな舌打ちが飛ぶ。でも凛華がいる間は、大きな声は出ない。出せない。
凛華の“特別”が、周囲の悪意を黙らせる。
それが救いであると同時に、檻になる。
人の少ない踊り場まで来ると、凛華は立ち止まった。
悠真の肩に手を置く。汚れを払うように。さっきぶつかられた場所を確かめるように。
「……ごめんね、悠真くん」
凛華は悠真を見上げた。目が真剣だ。泣きそうな気配はない。でも、胸の奥が痛んでいるような顔。
「私がもっと早く来ればよかった」
その“ごめんね”が、悠真の胸を締め付ける。
凛華が謝る必要はない。悪いのは凛華じゃない。——そう言いたいのに、言葉が出ない。
「みんな、君にひどいことばっかりするんだね」
ひどいこと。
その言葉で、悠真の中の「確信の持てない悪意」が、輪郭を持つ。自分が感じていた不快感が、ようやく“悪意”として認められる。
認められた瞬間、悠真は気づいてしまう。
——楽だ。
凛華がそう言ってくれると、楽になる。
自分が疑っていたものが、確かになる。確かになれば、対処ができる。対処とは、凛華の隣にいること。
悠真は、周囲の些細な悪意に晒され続けるよりも、凛華という盾の隣にいる方がいい、と錯覚し始めていた。
それが錯覚だと分かっていても。
凛華は悠真の袖を離さないまま、少しだけ笑った。
「大丈夫。私がいるから」
その言葉は、甘い毒だ。
大丈夫、という言葉は、本来安心を与えるものなのに、悠真には別の意味に聞こえる。
“私の世界にいれば大丈夫”。
“私の世界の外は危ない”。
“だから、外へ行かなくていい”。
「……行こ」
凛華が言う。
悠真は頷く。頷いてしまう。
凛華は二組の方向へ歩き出す。途中で振り返り、手を軽く振った。
「放課後、待ってるね」
当然みたいに。
当然みたいに未来を決める。
悠真はその背中を見送った。凛華が角を曲がり、姿が消える。
途端に、空気が薄くなる。
踊り場の静けさが、急に冷たくなる。
悠真は一人で教室へ戻った。
廊下を歩く足音が、自分だけのものになった気がした。周囲の会話が、全部自分の外側で鳴っている。誰にも届かない場所に自分がいる。
教室の扉を開ける。
中はいつも通りだ。誰もがいつも通りに机に向かい、笑い、話し、時間を過ごしている。
その“いつも通り”が、悠真の居場所を消している。
自分の席に座った瞬間、机の中の折れた芯のことを思い出した。
今度は、ノートが落ちていないか。ペンが折れていないか。無意識に確認してしまう。
見えない針は、いつの間にか体の内側に刺さっていた。抜けない。痛い。痛いと言えない。
そして、救いの手は確かに差し出されている。
差し出されているからこそ、余計に世界が閉じていく。
凛華の隣にいれば楽になる。
楽になるほど、戻れなくなる。
悠真は机に額を近づけた。
呼吸を整えるふりをして、ただ現実から目を逸らした。
教室の中で、悠真だけが、誰にも触れられない場所にいた。




