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あの日、泣き虫だった君は隣のクラスで「高嶺の花」と呼ばれている  作者: 風莉


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17話

 校門を出た瞬間から、背中に貼りつく視線が剥がれなかった。


 誰かが笑っている。誰かがひそひそと話している。自分の名前が聞こえた気がして、足が一瞬止まりそうになる。けれど止まったら、そこに立たされる。見世物みたいに。だから悠真は、歩幅だけを一定に保って歩いた。


 教科書の重みがやけに肩に食い込む。重いのは荷物じゃなく、今日一日で貼りついた「何か」だと分かっているのに、体は現実の重さに逃げるしかない。


 ——帰りたくない。


 家に帰れば父がいる。何も言わないようでいて、何かを見抜いた目をする。母のことを思い出す。あの日の匂い。あの日の音。優しさの形をして近づいてくるものが、いつか裏返る感覚。


 だから悠真は、足を曲げた。


 いつもの帰り道から、ほんの少しだけ外れる。気づけば、この前と同じ角を曲がっていた。


 冬月家の門が見える。そこに辿り着いた途端、胸の奥に固まっていたものが少しだけ緩んだ。逃げ込む、という言葉がぴったりだった。


 インターホンを押すと、すぐに足音がして扉が開く。


「あら、悠真くん」


 冬月恵子の声は、昔と変わらない温度で悠真を包んだ。柔らかく、穏やかで、どこにも棘がない。だからこそ、悠真の中の警戒が一瞬遅れる。


「今日もゆっくりしていってね。凛華、今、上にいるから」


「……すみません。急に」


「いいのよ。急でも。あなたが来るの、私は嬉しい」


 嬉しい、という言葉が素直で、嘘がなくて、だから胸が痛んだ。自分は、嬉しいと言われることに慣れていない。嬉しいと言われる資格があると思えない。


 恵子は玄関にスリッパを揃え、当たり前のように悠真の靴を内側へ寄せた。


「手、冷たい。お茶、淹れておくね」


 それだけ言って、台所へ消える。


 背中を見送りながら、悠真は息を吸った。家の中の匂いがする。洗剤と、少し甘いお菓子と、暖房の乾いた空気。生活の匂い。そこに自分がいていいのかと、また思ってしまう。


 階段を上がると、二階の廊下の奥から、扉が開く音がした。


「悠真くん」


 凛華が立っていた。


 制服のままなのに、髪を耳にかける仕草がやけに大人びて見える。目が合った瞬間、悠真の胸が勝手に軽くなる。外の世界に向けて張り詰めていたものが、彼女の視線に触れた途端、ほどけてしまう。


「……来ちゃった」


 自分でも情けない声だと思った。逃げてきた。そう言っているのと同じだ。


 凛華は微笑んだ。優しく、そして嬉しそうに。


「うん。来てくれてよかった」


「入って」


 凛華の部屋は、外より少しだけ暖かい。カーテンが閉められていて、窓からの光が薄くなる。机の上は整っている。ベッドの端はきちんと揃えられている。彼女の性格がそのまま部屋の形になっている。


 扉が閉まった瞬間、世界の音が遠のいた。


 廊下の足音も、外の車の音も、全部が薄い膜の向こうへ押しやられる。ここは二人だけの空間。外部の干渉が届かない聖域。


 悠真が息を吐くと、凛華はその息を見逃さないように目を細めた。


「……疲れてる」


「普通だよ」


「普通じゃないよ。顔、固いもん」


 凛華は椅子に座らせるでもなく、悠真の隣に自然と座った。距離が近い。肩が触れそうで触れない。触れないから、余計に意識してしまう。


「お茶、淹れてくるね」


 立ち上がる背中を見て、悠真は一瞬だけ「いいよ」と言いそうになった。自分のために誰かが動くことが怖い。申し訳ない。けれど、その言葉を飲み込んだのは、凛華がもう台所に向かっているからだ。


 少しして戻ってきた凛華は、湯気の立つカップを二つ、机に置いた。甘い匂いのするハーブティー。喉の奥がほどける匂い。


「……ありがとう」


「ううん。飲んで」


 凛華は自分のカップを持たず、先に悠真の手元を見つめた。飲めるか、飲むか、飲ませるべきか。そんな判断が瞳の中で静かに回っている。


 悠真が一口飲むと、熱が喉を通って胸に落ちた。温かい。温かいだけで、泣きたくなるのが怖かった。


「学校、どうだった?」


 凛華の声は穏やかで、問い詰めない。けれど、悠真はその優しさの中に鋭い針を感じた。彼女は知りたいのではなく、把握したい。悠真の痛みの場所を、正確に。


「……別に」


「嘘」


 即答だった。


「悠真くん、嘘つくとき、視線が右に逃げるよね」


「……」


「辛かったでしょ。無理して笑ったでしょ」


 言い当てられて、悠真は返せない。返せないのに、少しだけ救われてしまうのが嫌だった。分かってくれる人がいる、という安堵が。


 凛華はカップを両手で包んだまま、ゆっくり言う。


「学校、辛いなら無理に行かなくてもいいんだよ?」


 その言葉が、柔らかい布みたいに悠真にかかってくる。温かい。優しい。——でも、どこかで息がしづらい。


「悠真くんが傷つくところ、私は見たくない」


 見たくない、という言葉が「行かないで」に聞こえる。


「……勉強なら、私が全部教えてあげるから」


 全部。


 全部、という言葉がやけに重かった。全部教える。全部見る。全部管理する。全部、凛華の中に閉じ込める。


「それは……」


 悠真が言葉を探していると、凛華は笑って首を傾げた。


「だって、悠真くん、頑張りすぎると倒れちゃうでしょ」


 倒れる、という言葉が胸を叩く。自分は倒れるほど無理をしているのに、誰も止めなかった。止めたのは凛華だけだ。そう思わされる構図が出来上がる。


「私は、悠真くんが壊れるの、嫌だもん」


 嫌だ、という感情は強い。けれど、声は優しい。優しいから拒めない。


 沈黙が落ちたとき、凛華はふっと何かを思い出したように立ち上がった。


「そうだ。ねえ、これ、見よっか」


 棚の奥から取り出されたのは、古いアルバムだった。布張りの表紙。角が少し擦れている。悠真の記憶の中にある、あの時代の匂いがする。


 凛華がページをめくると、写真が現れた。


 小さな凛華。目が真っ赤で、泣きじゃくっている。肩をすくめて、誰かの後ろに隠れている。隠れている相手——幼い悠真が、手を引いて前を歩いている。


 その写真を見た瞬間、悠真の胸がきゅっと縮んだ。


 俺は、あの時の自分を覚えている。凛華が泣くと、放っておけなかった。泣いている理由を聞くより先に、引っ張って連れていった。自分が強いからじゃない。放っておいたら、何かが起こる気がしたから。守らないといけない気がしたから。


 凛華は写真を指先でそっとなぞった。まるで宝物みたいに。


「ふふ、懐かしいね」


 声が柔らかい。愛おしさが滲んでいる。


「私、昔は本当に泣き虫で……いつも悠真くんの後ろに隠れてた」


 凛華は写真から目を離さず、続ける。


「悠真くんがいなきゃ、私、何もできなかったんだよ?」


 言葉は可愛らしい回想のはずなのに、悠真は背中が冷たくなるのを感じた。


 “何もできなかった”。その無力さを、今も抱えたままだと言われている気がしたからだ。


 凛華はゆっくりと悠真を見つめた。視線が深い。逃げ道を探すと、そこにも凛華がいる。


「……だからね」


 声が少しだけ低くなる。柔らかいまま、決意だけが濃くなる。


「今度は、私が悠真くんを守る番」


 守る。言葉は正しい。ありがたいはずだ。けれど、胸の奥がざわつく。守ることは、隔離することにもなる。


「あの時、私を助けてくれた悠真くんを」


 凛華は笑う。優しく、穏やかに。


「今度は私が、誰にも触らせないようにしてあげる」


 誰にも。


 その言葉が、世界から悠真を切り取る刃に聞こえた。


 恩を返す、という体裁。悠真はそれを拒絶しづらい。拒絶すれば、あの時の自分の行為まで否定することになる。助けたことが悪だったと言うことになる。


 凛華はその構図を理解しているのに、理解していないふりをしている。無邪気な笑顔で。


「ねえ、悠真くん」


 凛華がアルバムを閉じ、ゆっくり近づいてきた。


「外って、冷たいよね」


 悠真は答えない。


 答えない代わりに、息を吸う。部屋の空気が温かい。外の冷たさが遠い。遠いから、余計に怖い。


 帰り際、廊下で凛華が立ち止まった。玄関まで見送るだけのはずなのに、そこで時間を止めるみたいに。


 凛華は悠真のジャケットの襟に触れた。指先が布を整える。整えているだけなのに、触れられている場所が熱くなる。


「ここ、曲がってる」


「……自分で直せる」


「うん。でも、私が直したい」


 言い方は穏やかだ。押し付けではない。けれど、その穏やかさが「拒んだら悪い」という形を作る。


 襟が整う。凛華は満足そうに微笑んだ。


「明日、朝から一緒に学校に行こう?」


 さらりと言う。提案の形。断れるはずの言い方。


「私が隣にいれば、誰も君に文句なんて言わせないから」


 隣。盾。守護。——隔離。


 悠真の中で、何かが揺れた。


 かつて、自分が守ったはずの少女。泣き虫で、後ろに隠れていた少女。


 今、その少女が、自分を閉じ込める盾になっている。


 その逆転が、抗いがたい支配感を生む。恐ろしいのに、安心してしまう。凛華の隣なら、もう見られない。もう冷ややかな目に晒されない。もう自分で耐えなくていい。


 その甘さが毒だと分かっていても。


「……考える」


 悠真はかろうじてそう言った。


 凛華は怒らない。笑うだけだ。


「うん。考えて」


 考える時間を与えるふりをして、明日の形をすでに作っている。


「でも、私、待ってるね」


 待つ、という言葉が鎖になる。


 帰り道、夜の空気は冷たかった。家の灯りが見えるのに、胸が重い。凛華の家の温度が恋しくなる。恋しくなる自分に、ぞっとする。


 自室に戻り、机に鞄を置いた。スマホが震えた。


 画面に浮かぶ名前。


 健太。


『明日、昼飯食えるか?』


 短いメッセージ。軽い誘い。普通の、友達の距離。


 指が動かない。


 返事をすれば、明日が決まる。凛華とではなく、健太と。学校で、昼に、他人の視線の中で。凛華の盾の外で。


 返事をしなければ、凛華の世界に一歩入る。


 悠真はスマホを握ったまま、動けなかった。


 既読もつけない。返信もしない。時間だけが進む。


 その沈黙が、答えになっていく。


 窓の外を見ると、冬月家の二階の灯りがまだ点いていた。


 凛華の部屋だ。


 彼女はカーテンの隙間から、悠真の部屋の明かりを見つめているのかもしれない。そう想像した瞬間、背中が冷たくなるのに、同時に胸の奥が少しだけ温かくなる。


 誰かが見ている。誰かが待っている。


 それが救いになる人間がいる。


 凛華は、自室で静かに呟いた。


「……そう」


 声は小さく、でも確信に満ちている。


「……あの時、あなたが私を一人にしなかったみたいに」


 指先が窓枠に触れる。外の冷たさを確かめるみたいに。


「私も、あなたを一人にはさせないから……」


 “泣き虫”だった過去が、呪縛の形を取る。


 恩返しという名の支配。


 守護の逆転。


 そして、悠真の指が動かないという事実が、檻の鍵を閉めていく。


 悠真はスマホを伏せた。画面が暗くなる。


 暗くなった画面の中に、自分の顔が映った。


 その顔は、外で必死に保っていた“普通”よりずっと弱くて、どこか安心しきっていて——その安心が、檻の感触だった。

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