8.約束
「楓。そろそろマニキュア取ってくれない?」
「あ、うん。そうだったね。」
思い出したように頷くと、楓は傍らの椅子の上へと置いていたバッグの中を探ってポーチを取り出した。そのポーチの中から楓は更に一本の化粧品の瓶を取り出す。
「それがマニキュアを取る薬?」
「薬っていうか化粧品だよ。除光液っていうの。」
もう一つポーチから取り出したコットンのシートに、その瓶の中身を含ませると、楓はそっとこちらの小指へと手を添える。優しく支えるような手つきで、小指へと触れられながら、彼女は右手に持ったコットンを爪の表面へと当てた。
「ちょっと待っててね。」
「ん?」
「除光液を馴染ませるから。」
30秒ほど時間をおいてから、楓は当てていたコットンですっと爪を撫ぜさせた。コットンの触れていた部分から綺麗にマニキュアが落ちて、爪の地色が現れる。
「まだちょっと残っているね。」
僅かに爪の端に残っていた小さな欠片を更にコットンで拭って落としていきながら、楓は小さく溜息を漏らした。
「本当に、もったいないなあ。」
ぽつりと口の中ら零す様に言った楓の寂しそうな言葉に、彼女の気持ちは伝わってくるのが分かる。
「でも、私がこんなのつけてても、どうせすぐボロボロになるからし。それにさ。うちの学校はマニキュアは校則違反だから。」
「そっか……。」
眉尻を下げて寂しそうな表情を浮かべながらも楓は諦めたように一つ二つ小さく頷いた。楓はもう一度だけ溜息をつくと、握っていた小指を掌で支えながらまじまじと見つめる。
「それにしても、マニキュア塗ってた時から思ってたけど、遥香ちゃんの指は綺麗だよね。」
「そんなことないと思うけど。」
「そんなことあるよ。」
そう言いながら、こちらの小指に楓は自分のするりと小指を絡ませてくる。
その行為に、思わず首を傾げてしまうと楓は楽しそうに指を振る。
「指切げんまんってあったよね。遥香ちゃんはやったことある?」
何を言い出すのかと思えば、何んとも子供っぽいことを言い出して、少し虚を突かれた気分になる。
「ないかな。男子がやってるのは見たことあるけど。」
「折角だし、私と遥香ちゃんとで、何か約束しない?」
「良いけど。何を?」
「何でも。」
小指を結んで腕を振りながら、まだ楽しそうに楓は微笑んでいる。
「じゃあ……来週も会おうとか?」
「うん、それも良いね。でも、折角の指切りなんだし一生続くのの方がいいかな。」
「一生って………例えば?」
尋ねると、楓はちょっと考える素振りを見せる。
「えっと。例えば、ずっと、友達でいようね。とかどうかな?」
「ずっとは約束できないかな。」
楓の指に引っ張られそうになる小指をくっと引き留めて、そう返事をすると、楓は不満げに唇を突き出して見せてくる。
「ええ~。」
「だって、昨日まで全然会ってなかったのに、一生友達とか約束できる?」
そう返事をすると、楓は仕方なさそうに眉を下げながらも笑う。
「やっぱり、遥香ちゃんは、そう言うこと言うよね。」
「なにそれ。」
「じゃあ、来週会うのでも良いから。約束しよう?」
「ん、それなら。じゃあ、今日と同じ曜日で良い?」
楓は頷いて、ゆびきりげんまんと歌い始める。ゆっくりと揺れ始める彼女の指の動きに合わせて腕を振るっていると、楓は最後に指切ったと呟いて、それでようやく小指をするりと離した。
「ふふ、楽しみ。」
「それより楓、何か忘れてない?」
「え?」
「マニキュア。」
「あー……やっぱり他の爪のもとっちゃうの?」
「そりゃ、ね。取って。」
渋々といった表情で楓は新しいコットンシートを手に取ると、それに除光液を浸していく。
わざとらしく彼女は一つ溜息をついて、今度は薬指の爪へとコットンシートを当ててくる。そのままただ待っているのも何だからと、何となく彼女へと質問をぶつける。
「そう言えば、楓ってどこの高校に行ったんだっけ?」
楓は指を見つめていた顔を上げて、首を傾げた。
「ん、どうしたの急に。」
「マニキュアをつけてたのがクラスメイトに見つかって。友達に塗ってもらったって言ったんだけど、その時にどこ学校の子って話になってさ。」
「へえ、友達に私のこと話してくれたんだ。」
何故だか楓は嬉しそうな表情を見せる。
「うん。それで憶えてなくてごめんだけど、どこだっけ?」
「聖林学園だよ。」
答えながら楓は当てていたシートで薬指の爪を拭った。綺麗にマニキュアがとれたのを確認して、満足そうに頷くと楓はすぐに中指にもシートを当てていく。
「聖林学園って確か私立の……制服がオシャレなところだったっけ?」
今日、柚木さんと木槿さんに聞いたことを思い出しながら楓へと顔を向ける。
「そうそう。それ狙いでくる子が多いから、みんなスタイル良いし綺麗だしで、ちょっと憂鬱になるくらい。」
「楓ぐらい綺麗なら学校の中で一番でしょ。」
ふいに、楓はどこか揺らがせていた指の動きをぴたりと止めて、顔を上げてこちらの目をのぞき込んでくる。
「今、綺麗って言った?」
「まあ、綺麗だと思ったよ。どうかした?」
「遥香ちゃんが、私のこと綺麗って言ってくれるって思ってなくて。」
屈託もなく楓は嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「モデルが何言ってるの。学校でも言われてるでしょ?」
「遥香ちゃんに言われるのが一番嬉しい。」
「はいはい。」
軽くあしらうつもりで手を振るって見せるが、それでも嬉しそうな表情を残して楓は中指の爪をシートで拭っていく。
「楓は部活とか入ってるの?」
「モデルがあるから部活はやめちゃった。」
言いながら楓は人差し指を飛ばして親指へと除光液を含ませたシートを当てた。
「へえ、何部入ってたの?」
親指を握ったまま、楓は顔を上げた。
「何か遥香ちゃん、質問ばかりだね。遥香ちゃんから話したいこととかないの?」
「話たいこと?えっと、どうだろう……。」
「今、興味のあることとか。」
「読んでる本の感想とかなら……でも、楓読んないから感想言っても分からないでしょ?」
「うーん、そうだね。多分、分からないと思う。」
「ほら。」
「でも、友達が話してくれるだけで嬉しい時とかあるでしょ?」
シート越しに親指を握ったまま、楓はそう言って顔を覗き込ませてきた。彼女の嫌になるほど整った顔で上目遣いに見つめられると、妙にどきりとしてしまって、「どうかな」と返事をしながら思わず目を逸らしてしまう。
「ただ、少なくとも楓と話をしてるのは楽しいけど。」
そう言うと、楓はくすぐったそうに肩を揺らして微笑んだ。彼女はすっと親指に触れさせていたシートを引いて爪を拭った。綺麗にマニキュアの取れた爪を眺めながら、「うん」と楓が小さく頷く。
ふいに、ぶっとバイブの振動音がした。
一瞬、自分のものが鳴ったのかと思ってポケットへと手を突っ込んでいると、目の間で楓もバッグの中からスマートフォンを取り出していた。スマートフォンの液晶へと目を向けると、自分の方には何も通知が入ってなかった。自分の方が鳴ったのではないと悟り、楓の方へと視線を向けると、彼女は画面を眺めながら、ちょっと困ったように眉尻を下げてため息をついた。
「ごめん、遥香ちゃん。」
「どうかした?急用?」
「うん。なんかディレクターから連絡が来て、時間ができたから今から写真撮れないかって。行っても良いかな?」
「私は別に良いけど……。事務所ってこの近くにあるの?」
「えっとね、この前行ったカフェあったでしょ、あの手前のビルにあるの。」
「へえ、あんなところにあるんだ。あそこら辺何度か通ってたけど、全然知らなかった……。」
「看板出してるわけじゃないし。あそこら辺は人通りが多いから、ちょっと騒がしいけどね。あ……、と、残りの人差し指のマニキュアどうしようっか?」
「まあ、これくらいなら絆創膏で隠せるし良いよ。残しておく。」
「あ……うんっ。ありがとう。じゃあ、また来週ね?」
慌ててポーチの中身を片付けて、バッグへと突っ込むと、殆ど飲んでいない珈琲のカップを手に取って、楓は席から腰を上げた。
そうしてもう一度
「来週の今日だからね?今日と同じところで。」
と、念を押してテラスの席から、道路の方へと走って去っていった。




