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指環の執行官──警視庁捜査一課第四特殊犯捜査係  作者: 柊ユキヤ


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第37話 雨上がりの空

 一か月後、大神は本庁の入口に立っていた。

 昨夜までの雨はすっかり上がり、歩道の水たまりは雲一つない空をくっきりと映している。


 監察官との話の翌日から、痛む体をおしてリハビリを開始した。幸い右腕の損傷は腱まで至るものではなく、動かすこと自体は順調な回復を見せた。

 だが、問題は神経の方だった。セーフティを解除し、しかも閃光を何発も撃ったことによる神経への過負荷は大きく、まだ細かな動きがぎこちない。箸を握る、ボタンを留める、ペンを持つ──そんな日常の動作にさえ意識を集中させないといけない。

 精神汚染が起きなかっただけ運が良かったと思いなさい、と医師に叱られた。まったくその通りだ。


 絢音は「復旧工事で半月休校なの」と毎日のようにリハビリに付き合ってくれた。それに、着替えを持ってきてくれたりと、何かと世話になった。

 合鍵を渡しっぱなしだったことがこんなところで役立つとはと苦笑した。


 ある日の夕方、下の売店にでも行くかとナースステーションの前を通ると、看護師に呼び止められた。

 リハビリも開始したし、安静にしていろとは言われてなかったはずだがと身構えていると、「絢音ちゃん、出来た妹さんですね」と看護師たちに微笑まれた。

 あのガキ、今度はいったいどんな風に言いくるめたのか。そもそも妹だなんて──もはや否定する気にもなれず、「ええ、まあ」と曖昧に応えた。

 油断ならないのはあいかわらずだった。




 ふと、右手を見た。神経経路に沿って焦げたような跡がまだ残っている。とりあえず動かせるようになったとはいえ、今こうやって顔に近づけた何気ない動作にも、わずかな違和感を覚える。


 退院時に医師は「もうしばらくかかりますよ。焦らずに」と言ってくれたが、これでは指環をはめることなんてとうてい不可能だ。


 ──いや、もう出来なくてもいいのかもしれない。

 大神は上着の内ポケットの感触を確かめた。



   ◇ ◇ ◇



 エレベーターで、いつものように地下二階のボタンを押した。フロアに足を踏み入れ、『捜査第一課 第四特殊犯捜査』のプレートをチラリと見る。


(これも見納めか……)


 ガラにもなくそんな感情が湧き上がった。




 中に入ると、波木と猫田が声を上げた。


「主任! もういいんスか!?」

「大神主任、お帰りなさい!」


 軽く左手を上げると、そのまま奥の執務室へ足を向けた。あいつらの相手をすると、決意が揺らぐ気がしたのだ。


 執務室のドアをノックすると、あいかわらずの硬質な返事があった。


「失礼します」


 軽く敬礼をし、七瀬のデスクへと歩を進める。


「身体はもういいの?」

「はい、おかげさまで」


 一拍置いて、内ポケットから封筒を取り出し、デスクへ置いた。


「本日は、これを提出しに来ました」


 それは、辞表だった。




 七瀬は無言のまま封筒から用紙を取り出し、文面を追った。執務室の中の空気が張り詰める。


「大神」

「はい」

「これ、左手で書いたの? 汚くて読めないわ」


 右手だ。これでも細心の注意と相当の集中をもって書いたのだ。そもそも、部下が決意を持って書いたものに対する態度とは思えない。七瀬に怒りが湧いてくる。


「分かりました、書き直します!」

「そうね、そうしてちょうだい」


 こちらの内心の怒りなど知らないといった様子で、七瀬は辞表をビリビリと破り、ごみ箱へ放り込んだ。


 やはりこの女は血も涙もない。人のことを駒の一つだとしか思ってない。


(辞表なんて、何枚でも書いてやるよ!)


「大神」

「何ですか!?」

「これに書いてちょうだい」


 目の前に出されたのは〈休職願〉だった。


「これは……?」


 思わず尋ねた。

 七瀬は脚を組み替え、無機質なデスクを指先でトントンと叩いた。


「大神。あなた、勝手にケジメをつけた気になっているようじゃ、まだ甘いわよ」


 あいかわらずの硬質な視線だが、どこか柔らかさを感じた。


「追いたいんでしょ。組織があなたを守るって言ってるの。それを利用しなさい。……ただ、まずその腕をしっかり治しなさい」


 たしかに、西園寺の背後に潜む闇。これで終わりではないはずだ。追えるものなら追いたい。


「まあ、楽になりたいのなら、今すぐその紙を食い破って出ていくといいわ」


 しばらくの間、デスクに置かれた書類とごみ箱の中の〈辞表〉の成れの果てを見つめた。


(そうだ、俺にはまだやることがある)


「……汚い字でも、受理してくれますか」

「読める程度には努力なさい」


 渡されたボールペンを左手で支えながら、震える右手でゆっくりと名前を書き入れた。一文字書くごとに、右手の奥で神経が針で突かれるような微かな痛みが走る。

 書き上げられた『警部補 大神響』の文字は、子供の落書きのように歪んでいた。


「……預けます」

「ええ、受理したわ。……それと」


 執務室を出ようとすると、七瀬に呼び止められた。


妹さん(・・・)によろしくね。たしか〈絢音〉ちゃん、だったかしら」

「──っ!!」


(どういうことだ? なぜ管理官が絢音のことを知っている? それに妹?)


 卒倒しそうになる身体をなんとか正し、執務室を出た。




「主任! 辞めないですよね!?」

「ああ。右腕を治すのに、しばらく休業だ。……それより、管理官って病院に来たか?」

「管理官、が?」


 執務室を出るなり心配そうに駆け寄ってきた波木に尋ねるも、彼もよく知らなかった。


「いや、何でもない。あと、よろしくな」


 ドアの前で、四特の皆に頭を下げた。



   ◇ ◇ ◇



 本庁を出ると一月とは思えないほどの陽気で、まさに季節外れの暖かさだった。

 植込みに一人の少女が腰掛けていた。絢音だ。


「お前、学校はいいのか?」


 スタジャンにミニスカートという出で立ちの絢音は、こちらに気づくとヒラリと水たまりを越えて駆け寄ってきた。


「いーの。オジサン、今日行くって言ってたから。それより、どーすんの? プーになるの?」

「うるさい。……しばらく休職ってやつだ」

「良かったじゃん。少し早いけど春休みだね!」


 随分な言い草だ。だがそれよりも確認したいことがある。


「なあ、絢音。俺が眠っている間、病院に誰か来たか?」

「え? そうね〜。まず波木さんでしょ。それに、何だか顔色の悪いオジサン」


 ──それは係長のことか。


「他には?」

「あ、そうだ。オジサンが運び込まれた次の日かな。綺麗な女の人が来たよ」

「──!」

「赤いヒール履いてた。誰、あの人? もしかして、彼女?」


 絢音がニヤリと口元を上げたが、こちらはそんな場合ではない。


「絢音……お前、その人と話したか?」

「うん。〈兄〉がいつもお世話になってます、って」

「兄って……どういうことだ!?」

「え? 〈親戚の子〉じゃ芸がないから、〈妹〉って言っちゃった」


 看護師だけでなく、まさか管理官にも〈妹〉と言っていたとは──エヘッとはにかむ絢音を前に、思わず頭を抱える。


「なに、マズかった?」


 不安そうに顔を覗き込む絢音を一瞥すると、まだ上手く動かない右手をポケットの奥へねじ込んだ。


「……いや、いいんだ」


 今さらどうこう言っても仕方がない。それよりも、管理官が病院へ来ていた。

 何を追っているのか。西園寺なのか、それとも別の〈何か〉なのか。どちらにしろ、とんでもない爆弾を抱え込まされた気がした。


「ねえ、オジサン。ご飯食べに行こーよ」

「ああ、そうだな」


 こっちの気も知らないで、と内心ため息をついたが、絢音の笑顔を見ると小言を言う気も失せた。


 二人並んで歩き出す。


 ふと、道行く人がすれ違いざまに、こちらをチラチラと訝しがりながら通り過ぎるのを見た。


「ネ、オジサン。これってパパ活に見えるんじゃない?」


 絢音も視線に気づいたのか、からかうように耳元でささやいてきた。

 ──まあ無理もない。ミニスカートの女子高生にヨレヨレの黒コートを着たオジサン。どう見ても怪しい組み合わせだ。だが、あのヒリつくような命のやり取りに比べたら、まだパパ活と誤解されているくらいが平和でいい。


「絢音。昼メシ、何にする?」

「そうね〜。とりあえず、いつもの駅前に行こ!」


 ようやく飯の約束を果たせそうだ。


 ふと、足元の水たまりに目が留まった。そこには鮮やかな空の色が映っていた。顔を上げると、一面透き通るような青空があった。

 血と鉄が焦げた匂いが漂っていた、あの夜の雨。それがようやく洗い流された気がした。

お読みいただきありがとうございました!

これにて第1部として一旦完結です。


まだ全ての謎は明らかになってません。

大神と絢音の次なる戦い、出来ましたらまた公開します。


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