第33話 情報の闇
廊下から聞こえる混乱の声がまるで遠くの出来事のように、カウンセリングルームは静まり返っていた。
西園寺はパソコンのモニターに映し出された校内の見取図を見つめていた。礼拝堂の祭壇の奥──合唱部が陣取った場所には数十の光点が見える。
(始まるわね)
光点が点滅しはじめた、やがて淡い光の波が礼拝堂全体を満たす。
(反応は良好。そろそろね)
時計を確認するとマウスをクリックした。
淡い光がどす黒い血の色に変わりだす。
その変化を確認すると、西園寺は口元を上げた。
(今回は声をキャリアにしたけれど、いずれ通信モジュールだけで干渉させたいわね)
「さて、記録開始よ」
見取図の横には、ロザリオの様々な状態を示したパラメーターが表示されていた。西園寺がキーボードを打ち始めると画面にいくつかのウィンドウが現れ、彼女はそれらを軽やかに操作していく。
一瞬、西園寺の眉がピクリと動いた。
(指環持ちがいる……!?)
礼拝堂以外にも、学校の内外に十個ほどの光点が現れだしたのだ。
「これは……共鳴しているのね。……それにしても、おかしいわね」
今日、警備会社が入っているのは知っていた。PTAからの突き上げで例年より警備を増強することになったことを、黒木らしい対応だと気にもしていなかった。
だが警察と違い、警備員が指環を持っているはずがない。
「犬が紛れ込んでいたのかしら」
だとしたら、警察はいったいどうやって今日の実験のことを嗅ぎつけたのか。漏れるような接点はなかったはずだ。わざわざ警備会社に紛れ込んだとしたならば、以前からこの情報を掴んでいたことになる。
「どこから漏れたの……!?」
西園寺の眉間に深い彫りが刻まれた。
だがこうなれば、このままのんびり実験を続けるわけにはいかない。早々にここを離れて姿をくらまし、自身の痕跡を消さねばならない。最後まで実験を続けられないのは残念だが、ここまでのデータでも十分だ。もともとこの騒ぎで警察が来る前に逃げるつもりだった。一時間ほど早まったにすぎない。
パソコンを閉じて鞄にしまうと、鞄のポケットから黒い指環を取り出し、右手の人差し指にはめる。
(念のために準備しておこうかしら。プロトタイプのテストにもなるし)
西園寺は鞄を手に取り立ち上がった。
その時──
「西園寺先生、どちらに行かれるんですか?」
背後から鈴のような声がした。
「あら? たしか……佐伯さん、だったかしら。あなたこそどうしたの?」
西園寺はとっさに指環をはめている右手を後ろに回した。まるで何でもないように聖母のような笑みを浮かべる。
だが、絢音の表情は険しかった。
「先生……今隠した右手、指環ですよね」
指環──どういう意味で言っているのか。まあ、何も知らない生徒の言うことだ。深い意味はないだろう──西園寺は柔らかな笑みを見せたまま応える。
「ええ……そうよ」
(この子以外いなさそうね。仕留めるわ)
西園寺が絢音にそっと指環を見せようとした瞬間──
絢音はすかさず右手を構え、炎のような閃光を西園寺の指環に向けて放った。
「──!!」
瞬間、西園寺の切れ長の目が大きく見開かれ、彼女はとっさに脇へ飛んだ。あの野暮ったい眼鏡が転がり、西園寺の素顔があらわになる。
「高校生が……指環を……!?」
絢音が放った閃光で西園寺の背後のカーテンと壁が燻り、部屋に焼けた金属臭が漂う。
西園寺は絢音の右手にはめられた炎のように紅く揺らめく指環に目をやった。
一瞬眉をひそめ、しばらく考える素振りをを見せた彼女は顔を伏せた。
「フフフ……」
(笑ってる──!? 何で?)
絢音の心臓が一拍跳ねた。
西園寺の思いもよらない反応、その不気味さに胸の下の方からざわめきが迫り上がってくるのを感じた。
たった今攻撃した相手の様子とは思えない。
「ハハ……ハハハハッ!」
堪えきれないのか、西園寺はやがて顔を上げて笑った。乾いた笑い声が部屋中に響き渡る。
「な、何がおかしいの!?」
絢音は思わず口にした。
「まいったわね……まさか、こんな近くに〈オリジナルモデル〉があったとはね」
西園寺はひとしきり笑うと絢音へ目を向けた。その瞳はまるで獲物を探し当てた獣のようだ。絢音の首筋にゾクリと冷たいものが這う。
「佐伯さん……あなた……博士の、何?」
「──っ!?」
まさか、西園寺からそれを聞くとは。
彼女はやはりPD社と関係があるのか。だったら、なおさらめったなことは言えない。
沈黙を貫く絢音に対し、西園寺は薄い笑みを見せた。
「まあ、いいわ。……それさえ手に入れたら、あなたなんてどうでもいいもの」
西園寺はそう冷たく呟くや否や、黒い指環をかざした。その瞬間、闇のような黒い影が指環から広がる。影が触れた空間はまるで色を失ったように彩度を失い、西園寺の姿もその影の中に沈んだ。
(何これ!? 見えなくなってる……!)
その瞬間、真横に気配を感じた。
絢音は炎の閃光を放ちながら、回転するように飛び退く。閃光の光で一瞬だけ影が照らされ周囲の色が戻るが、またすぐに闇へと沈んだ。
「フフッ、しょせん指環頼りなのね」
闇の中から声が聞こえた。だが、その声も酷く遠い。もしかして、この闇は音まで失わせようとしているのか。
(ここじゃマズいかも──!)
とっさに扉の方へ走った。
その瞬間、空気が爆ぜるような衝撃を感じた。
──気づくと、横の壁に叩きつけられていた。口の中に鉄の味がジワリと広がる。
西園寺は、これまでの指環の力をただ振り回していたサイコジャンキーとは桁が違う。指環を自在に操る能力の高さと、こちらの五感を確実に奪う作戦。
自分の指環は模造品なんかとは違う。それを操る自分の力はけっして弱くない──そう思っていたが、まるで子ども扱いだった。
「逃げちゃダメよ。さあ、オリジナルモデルを渡しなさい」
闇の中からノイズ混じりの声が聞こえる。
(オジサン──!)
闇が這い、西園寺の指先が絢音の右手に触れようとしたその瞬間。
カウンセリングルームの扉の輪郭に沿って、まばゆい蒼白の光が走った。それとほぼ同時に、
──ドォォォォンッ!
カウンセリングルームの扉がチリのように霧散した。〈情報の闇〉を強引にこじ開けるように、暴力的なまでの蒼白の閃光が室内に溢れ出す。
闇に沈んでいた部屋に色と音が戻った。
「……おい。俺の保護対象に気安く触れるな」
焦げた鉄の匂いが立ち込める。
扉の跡に立っていたのは、警備員の服を血と煤で汚し、人差し指を星のように輝かせた大神だった。




