第1話 雨の規制線
都内某所、午後八時十二分。
朝から降りだした雨は夜になっても収まらず、濡れた路面には赤色灯とネオンが歪んだ色を映していた。雨に溶けるように、焦げた鉄の匂いが微かに漂っている。
繁華街の外れにある四階建ての雑居ビル。この雨で野次馬は疎らだ。だが、幾人かはスマホを向け、シャッター音が雨音に紛れていた。画面に反射する赤色灯がやけに濃く映っていた。
規制線の向こうでは警察官たちが慌ただしく連絡を取り合っている。
そこへ黒いコートの男が一人、ポケットに手を突っ込みながら近づいてきた。男の右手はポケットの中で何かを擦るような仕草を見せている。それが癖なのか、それとも何かを気にしているのか、コートの上からは分からない。
規制線に立つ警察官が腕章もない男に気づき、誰何の声を上げた。だが、男が胸元から手帳を見せると、警察官は手帳ではなく、男の手帳の横で鈍く光る人差し指の指輪に一瞬目を見開き、あわてて敬礼した。
男が規制線をくぐると、捜査一課の強行犯係と所轄の刑事がやり取りしていた。刑事たちが男に気づき、露骨な視線を向ける。だが、それは単純なものではなく、羨望と嫌悪が混ざった複雑なものだ。
強行犯係の刑事が男に近づいた。
「よお、指輪使い様のお出ましか。見てのとおり、俺たちは露払いってわけだ」
「悪いな。まあ、あんたらの給料分は働いてやる」
「……ふん、言ってろ」
刑事は憎まれ口を叩きながらも道を空けた。男は彼らを横目で一瞥すると、淡々と彼らの脇を通り抜けた。刑事たちは軽く舌打ちし、男の背中を見つめる。
「大神主任、お疲れ様です──って、渋い顔してますね」
刑事たちの視線を背中で感じながら現場の空気に浸っていると、いつもの軽口が飛んできた。せっかく気分を整えていたのに台無しだ。
声の主はバディの波木だった。
波木は場の緊張をほぐそうとしているのか、軽い口調で近づいてきた。だが、不機嫌そうな顔は元々だ。余計なお世話だった。
もっとも、当の本人も緊張が隠せていない。声は張られていたが、フードからのぞく表情は若干硬い。現場特有の緊張感に加え、何か嫌な予感を感じ取っている顔だ。
「係長は?」
「あそこです。所轄の係長と話してます」
ビルの脇で神妙な顔をしながら話し込んでいる二人の男がいた。一人がこちらに気づき、軽く手を挙げる。係長の魚住警部だ。
大神は魚住へ軽く頭を下げると、周りをチラリと見た。ウチの班どころか他の班もいない。隣にいる波木だけだった。
「烏丸さんは?」
「雨が降ってるから、若いモンに任すって……電話、切られました」
「あのジジイ……」
大神が低く吐き捨てると、波木の浮かない表情がほんの少し緩んだ。
「猫田は?」
「カーさん来ないってんで、手持ち無沙汰になってて……しゃーないんで一人で聞き込みに行かせてます」
「そうか……」
大神はふぅ、と短く息を吐くとビルを見上げた。雨足がさらに強まり、視界が滲む。
最上階の一室だけ、視界が雨に滲んでも霞のような光が揺れずにいた。そこだけが風景から浮いて見えた。
「波木。あれ、残光だよな?」
「はい。被害者は右手に指輪をはめてました。指先から上腕の神経経路に沿って、残光が確認されました」
波木は、所轄の警察官が確認したという内容を手短に報告した。
「……使ったな」
「それに、被疑者も指輪持ちと思われます」
「派手にヤラれてるのか」
「ここにズドンっす」
波木は胸の真ん中に指で円を描いてみせた。
「指輪使用の可能性ありとの判断で、所轄はビルから即退避。俺ら待ちだった、というわけです」
「じゃあ、安全確認できてないわけか……」
係長たちの神妙な表情に納得がいった。
発生して間もないと思われる殺人現場。銃ならともかく、指輪持ちの攻撃は防護衣では防げない。逃走を確認できない以上、所轄では対処できない。一般の警察官ではただの的だ。
「係長から、主任が到着次第、安全確認をしながら現場に向かえとのことです。あと、他の班は付近を捜索中です」
──まあそうだろう。この場合の安全確認は俺たちの仕事だ。
波木の案内で、暗闇と化したビルへ足を踏み入れた。非常灯の微かな光がビル内部の輪郭を薄く浮かび上がらせる。
「暗いな──」
大神はそう呟くとライトを点け、慎重に廊下を進んだ。濡れた靴がリノリウムのタイルで水滴を伴った鈍い音を立てる。
「一階から確認するぞ」
低い声で波木に指示した。
各部屋のドアをそっと開いていき、被疑者が潜んでいないか確認する。
「それにしても主任。二人だけで安全確認って……係長も無茶言いますよね」
「人手が足りないのは今に始まったことじゃないだろ」
コソコソと言葉を交わす。
一階の確認を終え、階段を登った。
「波木、通報者以外に目撃者はいたのか?」
「いえ。どうも、空きビルらしくて」
「通報者は現場を見たのか?」
「いえ。通報者はこのビルの向かいの酒屋のオヤジで、店先で片付けしてたら衝撃音と閃光に気づいたようです」
声を潜めて話しているうちに二階へ着いた。
波木は息を潜め、ドアの脇で身構える。そっと開け、部屋の中へライトを静かに向けた。
「いません。クリアです」
他の部屋にも被疑者の姿はなく、三階も同様だった。あとは四階だけだ。さらに階段を登る。
そして四階──現場がある最上階、その廊下にたどり着いた。現場となっている奥の部屋、そのガラスドアからは先ほど外で見た残光が漏れ出ており、嫌に目についた。
(チッ……あの残光、近くで見ると目障りだな)
反応が遅れそうで、あまり気分の良いものではない。
とにかく、少なくとも三階まではいない。さらには、この四階にある現場を確認した所轄の警察官も被疑者を見ていない。となると、警察の到着前に逃げたのかもしれない。
外を捜索している二班と三班に確認したほうがいいかもな、と意識が一瞬外へ向くが、最後まで確認は必要だ。
「考えられる被疑者の逃走経路は?」
「オヤジさん、ビルから人が出てくるのは見てないらしくて。それにその後は、下は固めてましたので。──屋上しかありません」
ふん、と大神は鼻を鳴らした。
「波木、被害者は胸に一撃だよな?」
「はい、そうです」
ならば、犯人が装着していた指輪は発火系のはずだ。身体制御系ではない。
ビルは四階建て。屋上は袋小路だ。飛び移れる距離に隣接ビルはあるが、雨の夜に身体制御系なしで飛ぶのは博打だ。
──待て。
身体制御系も持っているとしたら? だが、二個はめると身体負荷で脳がやられる。もしかして、仲間がいるのか?
となると──
「波木、まだいるかもしれん。警戒しろ!」
大神は低く吠えた。
その瞬間、シュッという鈍い音とともに、大神の頬を蒼白い閃光が掠めた。
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