1.
――朝、目が覚めたら、左腕が消えていた。
最初は、寝ぼけているのかと思った。左肩から先が、煙のように消えているのだ。
小姫は何度も目をこすり、それが幻ではないことを確認した。さらには、頬をしつこいほどつねる。……それでも、腕は現れない。
小姫はようやく悲鳴を上げ、ぽすん、とベッドの上に倒れた。
日無村。
世間から忘れられた山奥にある、小さな村だ。ここでは長らく妖怪と人間が共存し、両者の間でいさかいが起こった際は、調停者と呼ばれる者がその仲介役を担ってきた。
調停者はすなわち日無村の首長でもある。現在の村長を務めるのは、小姫の母親にあたる弥恵だった。彼女は悲鳴を聞いて部屋に駆けつけると、「あらまあ」と目を丸くした。
「どうしたの、それ」
「どうしたのと言われても……」
それがわかれば苦労はしない。
小姫は涙目で助けを求めた。痛みはないのだが、そもそも腕が消えるなんて、気持ちが悪くて仕方がない。病気ではないだろう。こんな奇怪な現象は、十中八九、妖怪がらみに決まっている。
幸いなことに、弥恵は妖怪の専門家である。きっと解決する方法を知っているだろう。小姫はすがるような目で弥恵を見つめた。
しかし、弥恵は左腕があるはずの場所をしげしげと眺めると、おもむろに口を開いた。
「これは……、なんだか全然わからないわね」
「……えっ?」
「でも、妖怪の仕業には間違いないでしょう。となると……、これしかないわねえ」
弥恵は難しい顔をして、人差し指をピンと立てた。
「――小姫、結婚しましょう」
「――はあ!?」
ちょっと待て。
小姫は右手で母親を捕まえようとしたが、彼女はくるりと身をひるがえしてその手を避けた。
「うん。やっぱりこれしかないわ。いつか、こんなこともあろうかと、目星はつけてあったのよ。ふふ、安心して。今、すぐに連れてくるわ」
一方的にそう告げると、弥恵はさっさと部屋を出て行った。小姫は呆気に取られてそれを見送ってから、遅ればせながらドアに向かって叫んだ。
「つ、連れてくるって、誰を!?」
(そして、結婚って何!?)
弥恵の言っていることは意味不明だ。理解がまったく追い付かない。
(っていうか、結婚って何!?)
腕がなくなっただけでもパニックなのに、さらに爆弾を落としていった弥恵を恨めしく思いながら、小姫は静かに部屋を出た。
動き回るのも嫌だったが、部屋にひとりでいる気にもなれないのだ。落ち着かずに居間をうろうろしていると、玄関の方で音がした。
話し声が聞こえてくる。弥恵と……、若い男性の声だ。
日ごろから出入りしている青峰かと思ったが、漏れ聞こえてくる単語からすると違うようだ。彼らは玄関から上がるとふすまを開け、そこで小姫と対面した。
「あら。ちょうどここにいたのね。小姫、紹介するわ。乙彦くんよ」
弥恵が笑顔で引き合わせたのは、着物姿の青年だった。高い身長の割には、童顔でかわいらしい顔立ちをしている。くりっとした目を笑みで細くし、扇子で口元を隠しているのが、どこか浮世離れしているようにも見える。
「彼はね、河童の妖怪なの」
「河っ……童?」
今度は河童か。
すでに飽和状態の小姫は、もうそれくらいでは驚かない。
(……ああ、はいはい、河童ね、河童……。妖怪の中でも有名な部類よね……)
そう言われれば、外に広がる髪や、とがった耳が、河童っぽく見えなくもない。
しかし、ほぼ人間と変わらない容姿である。半信半疑のままじろじろ見つめると、それまで黙っていた乙彦が、ゆるりと口を開いた。
「母上様の娘にしては、ちんちくりんな小砂利なのです」
首を傾けた拍子に、左耳に着けた笹の葉飾りがしゃらんと揺れる。小姫はぽかんと口を開けて、初対面の男を凝視した。
「……え?」
今、暴言を吐かなかったか。しかも、妙な口調で。
唖然とした顔を向けたが、彼は素知らぬ素振りで扇を広げている。そんな二人を見て、弥恵が感想を述べた。
「まあ、結構お似合いじゃない。よかったわね、小姫。素敵なパートナーが見つかって」
のんきに笑う母親を見て、小姫はさっきの言葉を思い出した。
――小姫、結婚しましょう。
(……まさか、この男と!?)
「こ……、こんなやつと結婚なんて、絶対にやだ!」
小姫が断固拒否したのは、言うまでもなかった。